10年ひと昔… #あれから私は

東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した3月11日。

この日が近づくと、マスメディアを中心に様々な特集が組まれる。防災対策、津波からの避難、そして、原発事故…。更に、地震や事故の分析、検証、評価、振り返り…。

僕自身、2011年3月11日午後2時45分頃からの記憶はかなり明瞭に残っているが、それ以前の記憶はほとんど残っていない。まして10年前の3月10日に何をしていたかなんて、一つも覚えていない。皆さんは、どうですか。

しかし、2011年3月11日午後2時46分、コーヒーにお湯を注ぎながら大きな揺れを感じたあの時、執務室の扉にしがみつきながら青褪め、苦悶の表情を浮かべる他課の非常勤職員に「大丈夫、大丈夫だから」と声をかけ続けたあの時から、家に帰るまでの間の記憶は鮮明に残っている。電気が消えた執務室内。スマホのワンセグを見ながら「大変だ!津波警報が出ている!」と叫んだ同僚。日も暮れ始めた夕方、上司の指示で帰宅を命ぜられたが、帰るための手段の確保に苦慮したこと。辛うじて乗り込んだ路線バス、料金箱にしがみつきながら、これから一体どうなるんだ、という不安でいっぱいになった。それから約1か月後、宮古市、山田町そして大槌町の惨状を目の当たりにし、自分の中の何かがまた再び動き始めた、そんな感じだった。うまく表現できないけれど、僕の中の歯車、いやギアが切り替わったというか、自分の中で悶々としていた何かがストンとハマったような感覚。

震災から4年後。「生活再建・産業復興局」という、青森県における東日本大震災の諸々を所管する部署へ異動となった。その後「局」は「室」となり、そして現所属への統合、業務の移管等を経ながら、復興関連の業務に携わること3年。

この間、業務の関係で宮古市や久慈市へ足を運ぶ機会も幾度かあった。目まぐるしく周囲の環境が変わっていった。

(久慈市内を走る八戸線でたまたま目撃したTOHOKU EMOTION。)

現地へ赴いて震災の復興支援に直接携わったのは、前述のとおり発災から約1か月後の僅か4日間(実働3日)のみであったが、震災から4年経った後は、業務を進める中で、記憶の風化を防ぐため県内様々な地域で被災の状況を振り返るという機会が切れ目なくあったのも事実。

ホントに些細ではあるものの、何らかの形で長らく復興に携わってきたこと自体が、恐らく自分の中でストンとハマった「それ」なのだろうと思う。

父が亡くなった後、ある方から頂いたメッセージに、これから僕がやるべきことが記されており、今も時々読み返す中に、「それ」のヒントが書かれている。

さて、震災から10年目。マスメディアはこぞって「10年の節目」と謳い上げ、国営放送では歌い手だろうとそうでなかろうとお構いなく「花は咲く」が唄われ、そして、沿岸部での捜索活動の模様が取り上げられているが、被災された方々にしてみれば、別に3年だろうと6年だろうと10年だろうと、3.11を迎える思いに変わりはないことだろう。毎年が節目であり、そして、命日なのだ。

「災害は忘れた頃にやってくる」とは過去の話、東日本大震災以降も、毎年のように各地で大きな災害が発生し、1000年に一度の雨が毎年降るようになったこの頃。震度6弱以上の地震も相次ぎ、熊本や北海道では震度7を観測、熊本城を筆頭に、今も復興半ばといってもいいだろう。

リンクを貼った下の記事に登場する菊池さん。2年ほど前、青森市内の中学校で講話して頂いたことがある。

「釜石の奇跡」は奇跡じゃない。あの日、報じられた“美談”から私は逃れられなかった #あれから私は

色々な葛藤を抱えながら、たどり着いた答え。今もなお伝承活動に取り組んでおられることに、ただ敬服させられる。

そしてこの10年間を振り返り、「防災という意味では、ようやくベースが整った。」という記事の最後の言葉に、今、防災に携わる人間としては思わずハッとさせられる。

10年ひと昔というが、40代の始まりを未曾有の大震災で迎えたこと。そして、10年経った今、50代の始まりを新型コロナウイルスという目に見えぬ異質との闘いの中で迎えていること。

状況は違えど、なかなか先の見えない状況下に置かれている点では、あまり変わりがない気がする。

さて。

あれから私は、何を教訓として今に生かしているのだろうか。

震災から10年という日は、単なる節目ではなく、進捗状況の確認と振り返りをしつつ、自分自身も見つめ直すというタイミングなのだろう。