日別アーカイブ: 2012-06-17

95年という生き方


母方の祖母が12日の午後、亡くなった。享年96歳。天寿を全うしたとは、こういうことを言うのだろう。
その日の16時20分頃に祖母の訃報を知らせるメールが妹から届いていたのだが、僕はそのことに全く気付かず、終業時刻の17時15分を過ぎておもむろに携帯電話を取り出しメールを確認、その内容を見て思わず「えっ!」と大声を出してしまい、周囲から訝しげな目を向けられてしまった。

祖母が死んだ…。100歳まで生きてくれと、正月にお願いをしてきたあの祖母が、死んだ…。

必死に動揺を隠しながら、とりあえず上司に第一報を伝え、恐らく明日か明後日から休暇を頂かなければならなくなることだけをそっと伝えた。
狼狽する母の姿が思い浮かび、母の実家がある北秋田市までは、母には電車を使って行かせるように妹に伝えたが、既に出発した後とのこと。
何を思ったか僕は、祖母と同居していた従姉にメールを送り、母が着いたらメールをくれるようお願いをした。一番慌てふためき混乱しているのは、その従姉なのに…。


祖母は2年前から施設に入居していた。今年の正月、突如思い立って母の実家を訪れ、その時に祖母に面会したのが最後となった。こちらからの呼びかけにはほとんど応じることなく、祖母はずっと眠っていた。小さかった身体は更に小さくなり、「その時」が確実に近づいていることを感じずにはいられなかった。

そして何を思ったのか僕は、弘前に戻ってきてから、白いYシャツを2枚購入した。その思ったことが「何」なのかは、僕自身ではわかっていたのだけれど。
ちなみに、一進一退を繰り返しつつも、母がGWに訪れた時は、祖母は人の手を借りながらではあるが、椅子に座れるところまで回復をしていたらしい。

しかし、最期は実にあっけなく、結局家族の誰にも看取られることなく、祖母は一人で逝ってしまった。


水曜日の夕方から納棺の儀が行われ、翌日火葬に付され、その日の夜はお逮夜(お通夜のようなものだが、似て非なるもの)が行われ、金曜日には葬儀を経て納骨が行われることを聞いた。

しかし水曜日の午前中は自分が指定した法人との打ち合わせ。とりあえずそれが終わったら午後から移動を開始し、何とか納棺には間に合わせようと決めたのだが、上司の配慮もあって、水曜日の打ち合わせが終わった後に仕事を切り上げ、北秋田市に向けて移動を開始した。

こういう時は大体うまくいかないもので、国道7号は随所で工事が行われており、渋滞。結局予定より大幅に遅れ、16時頃に母の実家に着いた。実は僕は勘違いをしていて、てっきり施設で葬儀を全て済ませてしまうものだと思っていたら、祖母はちゃんと家に帰ってきていた。

挨拶もそこそこに祖母の顔を眺める。95歳とは思えぬ肌つやの良さ。皺もあまりない。
手を合わせながら、思わず口にする。
「ばあちゃん、お帰りなさい。お疲れ様でした。」

こちらも気が張っているのか、こみ上げてくるものはそれほどなかった。
しかし、納棺の時になると、見事に決壊してしまったわけだけど。

一連のセレモニーは、混乱の中にも粛々と進められ、あっという間に終わってしまった。
この間僕は、住職の送迎役を幾度となくお願いされることになり、おかげで納骨の儀には立ち会うことができなかったが、まぁ、これも最後の奉公だと割り切っていた。

それにしても、場所が変わればしきたりも全く異なるというのがよくわかった。この地の風習をいくつか挙げたい。

・まず、青森県もそうだが秋田県も、葬式の前に火葬が行われる。
・納棺の時は、直近の親族が亡骸を拭き、装具も身につけてあげる。まさに「おくりびと」。
・今回葬儀は自宅にて行われたのだが、お逮夜の席に参列したのはほとんどが身内だった。葬式に参列したのも、ほとんど身内ばかりだった。
・一方葬式に参列しない近所の人たちは、葬式の前、しかも早朝から午前に掛けて、怒濤のごとくやって来る。ちなみに最初に弔問客がやって来たのは、朝6時。それも、ちゃんと喪服に身を包んでやって来た。
・お菓子などの供物は葬式の前に箱から出され、葬式の後の法要にやって来た人たちやお手伝いの人たちに、紙にくるんで渡される。
・長寿で亡くなると、木の枝に5円玉や50円玉、お菓子などを吊し、葬式の日に家の前に立てられる。そして、納骨に向かうのを見送りに来た近所の人たちが、その枝からそれぞれ頂いていく。長寿にあやかる、という意味があるらしい。
・ちなみにその木にぶら下げるのは年の数の分らしいのだが、5円玉と50円玉が50枚ずつあった時点で、既に年齢を超える数になっていた。お菓子と合わせると多分、150歳分ぐらいぶら下がっていたと思う。
・故人と親戚関係にある人たちは、葬式の際、男性は襟元から白い布を、女性は頭に白い飾りを付ける。
・初七日までの毎朝、お墓参りに行く。
・従姉が住職を送る車の中で「お布施」の話をしていたのだが、住職は「二人で××円です。戒名は××円、これは二つの袋に分けて下さい。あとその他の経費で××円、これは現金で頂きます。」と、金額をズバリ話していた。多分弘前では聞くことができないと思う。

…などなど。

さて、祖母の生きた95年。一口に95年とは言うが、生きたいと思っても簡単に生きられる年月ではない。そして僕はまだ、その折り返し地点も過ぎていない(まぁ、僕自身95年も生きられるとは微塵も思っていないのだけれど)。
ちなみに祖母の生まれた大正6年は、まだ第一次世界大戦が行われていた(!)。そして、人を楽しませることが大好きな夫と3人の子どもに恵まれ、大正、昭和、平成と生き抜いた祖母。早いうちに夫(祖父)と娘(伯母)に先立たれ、決して楽しいことばかりではなかったはずだ。でも、穏やかな祖母の表情には、この世を生ききった、といった安堵感が漲っているようにも見えた。

出棺の前に弔問に訪れた人々が、祖母の顔に別れを告げながら、口を揃えて言う。

「ばあちゃん、ホントかわいい顔してるわ。」
「残念だけど、おめでとうって声かけたいね。」

亡くなってからもなお愛され続けるであろう祖母。
このばあちゃんの孫であることを誇りに思い、そして僕の母を生んでくれたことに対して心から感謝したい。