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エレファントカシマシ「Wake Up」 #エレファントカシマシ #エレカシ

3度目となる「目覚め」。

エレファントカシマシ最初の「目覚め」は、1988年、メジャーデビュー後3枚目のシングルとなる「おはようこんにちは」。繰り出される重厚なサウンドに、宮本の気怠さ満載のボーカルが乗っかることで、爽やかの欠片も感じられない「おはよう」を聴くことができる。

2度目の「目覚め」は2000年のアルバム「good morning」。
東芝EMIへの移籍第一弾となった「ガストロンジャー」を含んだこのアルバムは、宮本単独の打ち込み曲が多くを占める作品で、エレファントカシマシという枠組みを外れた、宮本個人の暴走などと評価が割れた、いわく付きのアルバム。しかし、結果的にはこの作品がバンドの新たな目覚めを呼び起こすこととなり、結束と勢いを更に増すことになった。

そして今年6月6日に、3度目となる「目覚め」を迎えた。

今回は、デビューから31年目に突入し、いわば「門出」の作品となる23枚目のアルバム。
既発のシングル曲やカップリング曲など6曲と、新曲6曲の計12曲で構成されている。

どうも彼らのアルバムを聴く時は、(決してあぐらをかけないからではなく)姿勢良く正座をして聴かなければならないという衝動に駆られる。

それも頭の中を空っぽにして無心になり、一つ一つのフレーズ全てを耳で、心で吸収する…そう、まさに「拝聴する」といった感じ。

冒頭を飾るタイトルナンバーの「Wake Up」は、31年目のスタートにうってつけの1曲。一言で表すならば「格好いい」のだ。極端な話をすれば、この楽曲だけでこのアルバムの評価が決まりそうな、それぐらいのインパクトを持っている(もちろんこの曲だけで評価しちゃならないんだけど)。

新たな「目覚め」、いや「覚醒」を高らかに宣言した後は、51作目となる最新シングルの「Easy Go」、49作目のシングル「風と共に」、そして48作目のシングル「夢を追う旅人」と、シングル3曲が怒濤の如く続く。

改めてこのシングル3曲を続けて聞いてみると、そのどれもが、31年目に突入するには十分過ぎるほど準備が整っていることを誇示しており、そして、これからもなおエレカシの進化が現在進行形で続いて行くことを予感させる。

疾走から立ち止まり、一度クールダウンさせるような5曲目の「神様俺を」は、アルバムの中でもちょっと異彩を放つ曲。エレカシのナンバーではこれまで聴くことのなかったレゲエ調のアレンジ。一方で、まるで我々アラフィフ世代の苦悩を代弁するような歌詞に、思わずニヤリとしてしまう。

そして続くナンバーが50作目のシングル「RESTART」と来れば、何だかこのアルバムの製作コンセプトありきのシングルだったのだろうか?と思ってしまうぐらい繋がりを持っている…ような気がする。
「日本生まれの夢見る男」が、自らの髪の毛にハサミを入れるという衝撃的なPV。昨年10月、弘前市民会館に現れたその男は、一瞬誰なのか見分けがつかないほど綺麗に髪の毛が整っていたことを思い出す。

「自由」はアルバムで初登場の小気味良いテンポのナンバー。「珍奇男」を唄っていたあのバンドが、「ガストロンジャー」で吠えていたあのバンドが、声高に「自由」を歌い上げている不思議。これまでの30年間、どん底も見ただろうし浮かれたこともあっただろう。それでもなお不動のメンバーで歩み続けてきた彼らが今もなお探し続けているのが、相も変わらず「自由」であることを淡々と唄い上げる。「奴隷天国」からは相当昔に解放されたはずなのに、だ。

「i am hungry」は、「夢を追う旅人」のカップリングで、続く「今を歌え」は、50作目のシングルとなった「RESTART」との「両A面シングル」。
いずれも、ドラマのタイアップが付されたナンバーだ。この辺りの楽曲を聴きながら思うことは、このアルバムに収録された楽曲は、ボーカル宮本の持つ声域全てを使い尽くすために製作されたのだろうか、ということ。時に荒々しく、時に静かに厳かに、そして時に淡々と。

終盤の3曲「旅立ちの朝」「いつもの顔で」「オレを生きる」は、タイアップなしの新録ナンバー。うわっ!そう来たか!と思わず唸ってしまうような、メロディアスでドラマティックなナンバーが続く。

今回のアルバム発表に合わせて、改めて過去の作品も聴き直してみたけれど、30周年を経て何か達観したのだろうか、最後の最後まで気を抜くことなく、正座の姿勢を保ったまま、凛とした気持ちで聴き通すことのできる作品。

(収録曲)
1. Wake Up
2. Easy Go (テレビ東京系ドラマ「宮本から君へ」主題歌)
3. 風と共に (49th SG / NHK「みんなのうた」2017年6-7月放送曲)
4. 夢を追う旅人 (48th SG / 明治企業CM「POWER!ひとくちの力 登坂絵莉選手篇」CMソング)
5. 神様俺を
6. RESTART (50th SG / フジテレビ系「FNS27時間テレビ にほんのれきし」ドラマテーマソング)
7. 自由
8. i am hungry (48th SG C/W / テレビ東京系ドラマ24「侠飯~おとこめし~」オープニングテーマ)
9. 今を歌え (50th SG / NHK BS プレミアドラマ「全力失踪」主題歌)
10. 旅立ちの朝
11. いつもの顔で
12. オレを生きる

収録されているシングル曲を中心としたPV集とともに初回限定盤に収録されている「Demo Tracks CD」は、宮本浩次が制作した本アルバム収録曲のデモ音源集。

(収録曲)
1.Easy Go 0
2.Easy Go 初期型(コードA)
3.Easy Go ほぼ最終系(コードG)
4.自由 demo ver.
5.いつもの顔で 2013 demo ver.
6.いつもの顔で 2018 demo ver.

購入するならば絶対こちらをお勧めします。



…と、手放しでこの作品を絶賛してみたが、恐らくこの作品に対する賛否両論はあるのだと思う。

とりわけ、デビューから30年以上、ずーっと彼らのことを追い続けてきたコアなファンからすれば、今でこそ当たり前となったマスメディアを使った宣伝方法(テレビやラジオへの露出)に困惑している人もいるだろうし、過激で攻撃的だった歌詞やサウンドがいつしか人生讃歌のような前向きな楽曲へと方向転換をしていったことに対して戸惑いを覚える人もいるだろう。ファンそれぞれが、熱を上げていた時代が違うのだから、こればかりは多分仕方ないことだと思う。(ちなみに僕は、Epicに在籍していた、それもデビューの頃の荒々しいエレカシが一番好きだった。)

けれども、それらをひっくるめて「エレファントカシマシ」の30年というキャリアは、とてつもなく重層的かつ濃厚であり、そして恐らく僕たちが知っている以上の(つまりファンに知られていないような)紆余曲折を経たからこそ、この作品に繋がったんじゃないかな、と思う。僕より数歳年上の彼らの歩みを辿りつつ自分のそれと照らすと、斜に構えてみたり、組織と反目したり、その過程で色んな「気づき」を経て立ち位置や姿勢に変化が見られたり、そして目障りだった色々なものを当たり前に享受できるようになったり。

…彼らの歩みに自分を投影するのも烏滸がましいけど、何か共感できるんですよ。

それはともかく今回のこの作品、これまでのファンだけではなく、最近エレカシに興味を持ち始めた人たちをグッと惹きつけるという点で、文字通り新たなファンの目を覚ますような傑作だと思うんだけれどな。

個人的には、1から2への流れ、アルバムに一服の清涼剤の如く間を置くような5、そして終盤の10~12の流れがとても好き。

あと一歩踏み出す力が欲しい人、元気になりたい人、そして、ちょっとお疲れ気味の方々に絶対お勧めのアルバム。

ちなみに、ユニバーサルミュージックのサイトでは、デラックス盤【UNIVERSAL MUSIC STORE限定 完全受注限定盤】を期間限定(7/17まで)で予約受付中

税込8,100円のこちらには、全64ページのフォトブックの他、DVD「THE ELEPHANT KASHIMASHI 30th ANNIVERSARY “THE FIGHTING MAN”DOCUMENTARY」(もしかしたらWOWOWで放映された内容と一緒?)と47都道府県を回ったアニバーサリーツアー最終日となる富山公演の模様を完全収録した3枚組のCDをパッケージしているそうだ。
ということで、久し振りに同名のアルバム2種類を購入することになってしまったけど、いいんです。どちらもそれぐらい興味をそそるプロダクツなんだから。
(敬称略)

その後のアキレス腱

先日痛めた左アキレス腱、おかげさまで経過は順調で、歩く上での支障はほとんどなくなりました。
ところが、ちょっと小走りするとまだ痛みが残っており、道のりはまだまだといった感じです。

しかも、左脚をかばっていた影響で右脚にも違和感を覚えるという事態に陥り、何か悪いスパイラルにはまっているなあ、といった状況です。

痛めた16日以降、走ることは全て自粛。少し良くなったのでちょっとぐらい走っても大丈夫かな…ということも頭をよぎりました。
しかし、ここで患部に負荷を掛けることによって完治の時期を先延ばしするのは本意でないため、ひとまず1週間は一切走らないことにしました。

苦悶で顔を歪めたあの日から1週間となる明日の朝は定例の練習会があります。軽く走るか、それとも歩くだけにとどめるか、取りあえず顔だけ出すか、悩ましいところです。

ちょうど3年前に反対側の部位を痛めた時は、アキレス腱の周りにステロイドをぶち込んで大会に出場するという無茶なことをしました。今思えば、そこまで無理をしてでも走る意味があったのかどうかは、正直わかりません。

明後日は、そんないわく付きの大会でもある「たけのこマラソン」が開催されます。
同じことをすれば、今回も走ることは可能なのかも知れません。しかし、今回はその気にならないのです。
エントリーしているのは10キロ。たかが10キロ、されど10キロ。この状態でガチ走りすることがいかに無謀なことなのかは、過去の経験から学習しているつもりです。

だからこそ今は、ひたすら我慢。

正直、かなり辛いです。
梅雨に入ったとはいえ気候的にも走りやすいこの季節、全く走れずに黙って指をくわえて、仲間が走る姿を目で追うのは。当日の作戦を練りながら備えていたレースに出場できなくなるのは。

ひょっとしたら今シーズンを棒に振るのかも知れません。でも、ここで無理をするとどうなるか。そのことを自問自答しながら、今はとにかくじっと耐えろと、頭の中でずーっと言い聞かせています。

そうそう、診察の後で名医から渡されたのは、シューズのヒール部分を上げる部材でした。実は通勤時も100円ショップ(!)で購入したヒールアップの部材を靴の中に入れています。上げ底ってヤツですが、背が伸びたように見せるのか目的ではありませんので念のため。

かつての僕は、前のめりになって走る感じでした。前傾させることで、その推進力に頼る、みたいな。いや、今もあまり変わっていないのかも知れません。ただ、今と決定的に違っていたのは、あの頃はかかとではなく足のつま先着地で走る、いわゆる「フォアフット」型だったこと。もっとも、自分自身ではあまり気にしていなかったので、よくわかりませんが、つま先立ちで走るような、そんな格好だったようです。

ただ、その一方で疲れてくると脚全体でブレーキを掛けるような感覚があって、だったら最初から足裏全体で蹴り出して前進できるように走ればいいじゃないか、と思い立ち、着地方法を変えることに腐心していたことは、今だから明かす秘密です。(実際あの頃、靴底の減り方がちょっと変な感じでした。)

一つ思い出したことがあって、そういえば走り始めの頃の僕は、N社のシューズを愛用していました。機能がどうだとかは何も考えず、デザインとか色とか、そういったところにばかり主眼を置いていました。しかしその後、着地方法で悩んでいた頃に、今のa社のシューズにチェンジしたのでした。

足裏だけではなく脚の使い方、いや、走る時のフォームについては、僕にとってある意味「永遠のテーマ」みたいなものなので、今回も脚を痛めた過程を考えながら、何でこうなっちゃったんだろう…と思案する日々が続いています。誰だってそう、より楽に、より長く、そしてより速く走れるに越したことはないのでしょうけど、そんなことができていたら最初から苦労しませんよね。

恐らく脚を痛めた今も、フォアフットで走るとそれなりに走れるのですよ。ただしこれで種子骨を痛める可能性があり、とてもじゃありませんが怖くてできません。というのも以前、種子骨炎で象のように足の甲が腫れ上がった経験があるので。

そういう意味では、一時期凄い話題になったN社のあのシューズなんかは、実は今の脚の状況にピッタリとはまるのかも知れませんね。

まあ、この期に及んでa社からN社に乗り換えるなんていうことには考えが及ばず、まずは治すことが先決。ということでここは、長い目で見ることにしましょうか。

50までの独りbreaking3プロジェクト、ここでやめるわけにはいかないので、ね…。(ニヤリ)

身体が硬いことにいいことなし

飲み会や宴席の際、椅子席以外の小上がりや座敷で僕は、決まって正座をしている。

「随分行儀がいいね。どうしたの?」
「…いや、こうやってしつけられて育ったものですから。」

…と笑いながら嘯いているが、正座をする一番の理由は、実はあぐらをかくことが苦手、というだけの話。

座椅子なしであぐらをかくと、冗談抜きでひっくり返る可能性があるし、腰が痛くなるので、ほとんど組むことはない。もちろん、ずっと正座だと足が痺れるので時々格好を崩すけれど、それでもほとんどあぐらはかかない。

だから、座禅を組むなんてもってのほかだと思っている。きっと、肩が腫れ上がるぐらいバシバシ叩かれることだろう。
なぜあぐらをかくことが苦手なのかというと、身体が硬いからに他ならない。

僕が身体の柔軟性を極端に欠いていることは、ランニング仲間の中では知られた話で、「ダイアモンド☆ユカイ」ならぬ「ダイアモンド☆カタイ」を自称している。

今だから…というか現在進行形の話、前屈、屈伸、開脚、とにかく全てにおける柔軟性を欠いている中、生活において不自由を感じることが無きにしも非ず。
身体が硬いことは何の自慢にもならないし、むしろ恥ずべきことなのですよ。

その恥ずべきことを少しでも緩和するためのストレッチの重要性は、頭では理解しているつもりだ。
…つもりだけれど、実践には結びつけていなかった。せいぜい、たまに気づいた時にちょこっと動かしてみる程度だった。

普段動かしていない部位を不用意に動かすことでどこか別な部位を痛め、日常生活に支障が出るんじゃないかという恐怖感が常に付きまとっていたからだ、という言い訳。

だけど人間も機械と一緒で、使わないところはそれなりに劣化していく。劣化していくということは、動きがどんどん悪くなる。逆にいつも動かしているところだってしっかりとケアしないと、故障を招くということは、これまでも幾度となく経験してきたことであり、文字通り痛い目にも遭ってきた。

一方で、気づかないうちに蓄積していた疲労が突如表面化することがある。
例えば普段の筋肉痛とか、疲労感とか、そういったものでさえも軽視すると、やがて大変な事態を引き起こすことがある。それはまるで、プレートや断層が徐々にずれることによって突如引き起こされる大きな地震と一緒だ。

以前ほど頻繁ではなくなったが、僕が故障を発する箇所は大体決まっている。もしかしたら多くのランナーも似たようなものじゃないだろうか…と勝手に思っている。ただ、普段からそのことを理解してしっかりとケアしていれば、故障を発する頻度も減るだろうし、大きなケガを引き起こすこともないだろう。
しかし、市民ランナーの中で事前事後のストレッチやケアにしっかりと取り組んでいる人は、どの程度いるのだろうか。実のところ、半分にも満たないのではないか。

私事になるが、2月3月に走れなかった鬱憤を晴らそうと、4月から一気にペースを上げて練習を再開。どうやら、これが良くなかったようだ。これまであまりやったことのない練習にも取り組む中、それなりに成果が見え始めていた。よし、更に底上げするぞ、と息巻いていた矢先、酷い風邪に見舞われた。ようやく治りかけたところで、再びペースを上げた練習。この頃から何となく左脚に違和感を覚え始めていたのも事実だったが、まあ、きっと大したことはないだろうと楽観視していた。そしてこの過程でのケアは、完全に怠っていた。

先週の土曜日、練習中に左の足首周りが突如悲鳴を上げた。何事かと慌てて走るのを止めた。練習を途中でやめ、痛みの部位を確認してみると、アキレス腱の辺りから発せられたものだった。嫌な予感がした。というのもちょうど3年前、右アキレス腱に発症した症状と似ていたからだ。そのまま帰宅し、アイシング。しかし、その痛みは左脚のアキレス腱で更に勢力を増し、歩くのにも支障が出るほど重症化した。

日曜日、絶好のラン日和だったにもかかわらず、終日休息に充てた。いや、そうせざるを得なかったのだ。
月曜日、いてもたってもいられなくなり、かかりつけの整形外科へと駆け込んだ。
名医によるレントゲンと触診で、事態が思っていた以上に深刻だということを悟った。

アキレス腱の腱鞘炎。

長い付き合いになりそうな、そんな予感がした。

しかし、急にこれを緩和するために慣れないストレッチをするのはまだ時期尚早。ある程度痛みが抜けてから徐々に、凝り固まった筋をほぐしていくべきだろう。
相変わらず学習していないな、と自分に呆れた。

不幸中の幸いといえばいいのか、日曜日がピークだった痛みは、月曜、そして火曜と徐々に抜け始めており、見た目には多少ぎこちなさが残っているかも知れないが、少なくとも歩く上での支障はほとんどなくなりつつある。
これが今日(6月19日)時点での顛末だ。

24日(日)は、平川市碇ヶ関で開催される「たけのこマラソン」にエントリーしている。例年ハーフにエントリーしていたのだが、今年は思うところがあって10㎞にエントリーした。土曜日に痛みを覚えた時、正直「ハーフにしなくて良かった」と安堵した。とはいえ走ること自体を考えるのが無謀かも知れないし、実際走れるのかどうかはわからない。でも、何とか走れるんじゃないか、という根拠のない自信もあって、今は自分の事なのに他人事のように楽観視している。そうやって完治を遅らせていくのに、だ。

閑話休題。
僕の走る姿がロボットに揶揄されるのも、身体の柔軟性の欠如が最大の要因だろう。要するにぎこちなく、ガシガシと音を立てて走っているように見えるということだ。いや、見えるのではなく、ホントにガシガシ音を立てて走っているのだ。そのガシガシは、凝り固まった筋が軋む音。特に股関節、内転筋の柔軟性は全く欠落していると思っている。…あ、ついでにいえば頭の中もですか。

走る上で必要なのものは色々言われるけれど、肉体だけに目を向けると、数々の骨格筋がバランス良く均整が保たれていなければならない。しかも、偏って発達しているところに牽引されるのではなく、むしろ一番弱体化している骨格筋に合わせたパフォーマンスしか発揮できない。

筋骨隆々のボディビルダーの体幹が弱ければ、ポーズを決められないでしょう。
逆に体幹ばかり鍛えられた体操選手の腕力が弱ければ、鉄棒にぶら下がれないでしょう。
Aの部位が100の力を発揮できる中、Bの部位は70しか力を出せないのであれば、どんなに頑張っても全体で出せる力は70までなんだから。
最新鋭のスペックのマシンを手に入れて、旧来からのシステムに繋いでも、そのシステム自体が最新鋭にはなり得ないですからねー。

自分のウィークポイントを探って、そこを強化することはとても重要なことである一方、それをしっかりと連動させるために必要なものの一つが、柔軟性なのかも知れない。

先日、エレファントカシマシのボーカルを務める宮本氏がラジオに出演、なぜかストレッチの重要性を説いていた。
全くできなかった前屈だが、日々ストレッチを重ねていくうちに、3年ほど経った今日ではすっかり地べたに手が着くまでになったそうだ。

バスケットボールの田臥勇太選手は、開脚で60センチも脚が開かない、ということを聞いたことがあるし、正直、ランニングにおける柔軟性がどの程度重要なのかはわからない。(田臥選手の話は、身体の硬い僕にはある意味救いだった。)
なかなか走れないこのタイミングで、軟性を考えながら全体の底上げを探っていくのにはちょうどいい機会だと捉えよう。急に軟体動物みたいに柔軟性が増す、なんてことはないんだから。

でも、少なくともケガのリスクは減るのかな。だからこそ、普段からのストレッチや柔軟性を高めることへの意識付けは、今まで以上に気に留めようと思う。
ということで上下肢問わず、こんなカチコチな僕にでもできそうなストレッチがあったら、教えて下さい。

「弘前」ナンバー

2020年から、ご当地ナンバーとして新たに「弘前」が加わることになったそうだ。

対外的に弘前をアピールするのが狙い、とのことらしく、弘前市民に弘前への愛着を更に深めてもらおう、という意図ではないようだ。

こういったところに市民と「あちら側」との温度差を感ぜずにはいられなかったりして。…あ、かく言う自分もそんな「あちら側」の人になっちゃうのか。

7月には図柄入りナンバーの公募を始めるらしい。

(これはバイクのナンバープレート)

元々ご当地ナンバー制度は、2004年に「地域振興や観光振興等の観点から、ナンバープレートの地域名表示を弾力化し、自動車検査登録事務所の新設の有無にかかわらず、新たな地域名表示を認めることとする」として始まったもの。青森県内には陸運支局のある「青森」と「八戸」のナンバーしかなかった。登録台数10万台以上が5万台に緩和されたのを機に、ここに「弘前」が割って入ってきたのは、青森でもなく八戸でもない、「弘前」としての変なプライドが働いたからではないか(いわゆるエフリコギ)、などということをふと思ってしまう。

ちなみにこの「弘前」ナンバー、弘前市と西目屋村が対象地域となるそうだが、当初はもっと幅広いエリアでの構想だったと聞いている。しかし、「弘前」にこだわり過ぎた結果、参画する市町村は西目屋村のみだった。当然の結果というかむしろ、よく西目屋村が「白神」推しをしなかったな、と思う。(「白神」については、かつて秋田県内で市町村合併後の新市を「白神市」にするとかしないとかで騒動があったので、それを踏まえた大人の対応なのかも知れないが。)

しかし、平川市や黒石市の人をはじめ、周辺市町村の皆さまが違和感を持つのは当然だろうし、その地域の皆さんが「弘前」のナンバーを付けるって、弘前市民からしても何となくイヤだろうな、って思ってしまう。

18歳以上を対象にご当地ナンバー導入の賛否を問う住民アンケート(弘前市4,000人、西目屋村100人)を行った結果では、いずれも5割以上の賛同を得たそうだ。まあ、市内や村内にどれぐらい免許保有者がいるのか知らないし、このサンプル数が多いのか少ないのかは知らないけど。

じゃあ、「弘前」ナンバーを自分の車に取り付けたいかと聞かれると、「うーん、そこまでは…」というのが正直なところだ。いや、別に弘前が嫌いなワケじゃないし、むしろ地元愛はバリバリある。だからこそ、あまり気乗りしないのだ。

しかし、手放しで喜べないこのモヤモヤした感じは何だろう。
一つ言えることは、「今更何を?」といった感情が渦巻いているということだ。弘前と言えば、日本一を自負するさくらまつりや弘前ねぷた、更にはりんごの街としても充分国内外に知られた街だと思っている。それでもなお、「ひろまえ」と呼ぶ人がいることも知っている。

それはともかく、それなりに知名度を持っている地方都市の名前をわざわざご当地ナンバーとして付する必要があるのだろうか、という疑問が、「弘前」ナンバーと言われてもしっくり来ない一番の要因なのかも知れない。

ここ最近は本当にご当地ナンバーが増えて、青森県内でも他県のいろんなナンバープレートを見かけるようになった。「盛岡」「仙台」はともかく「平泉」ナンバーには正直ちょっと驚いたけど。まあ、世界遺産の名を冠しているという点では、それ相応の「宣伝効果」はあるのかも知れないが。

その「平泉」に代表される、というわけではないが、ご当地ナンバーは「走る広告塔」とも言われていて、その地域の宣伝やPR効果も高いという。

(ここまでキャラクターがいると、何が何だか…。)

ただ、その一方で「走る広告塔」であるが故に起こりうる懸念も抱かざるを得ないのだ。
だって皆さん、こんな経験ありませんか。

他県ナンバーの車両が傍若無人な運転をしているのを見て、チッと苦虫を噛みつぶしたこと。弘前なんて「さくら」の季節や「ねぷた」の時期になると県外ナンバーの車が市内を走っていることなんてざらにあるわけですよ。
裏を返せば、今後、逆のことが起こりうるワケだ。

例えば。
県外の高速道を走行中に、制限速度を遥かに超えるような猛スピードで追い越していった車両が「弘前」だったら。
県外で白バイに止められていた車両のナンバーが「弘前」だったら。
大きな事故を起こした車両のナンバーが「弘前」だったら。
それこそ、街中で粗暴な運転をしている車両のナンバーが「弘前」だったら。

PR効果どころか、「弘前」そのものに対する印象は悪くなるだけである。
もちろん、全てが全てこういったことを懸念しなければならない、ということではない。
ただ、「ご当地ナンバー」を背負う以上は、「走る広告塔」として運転する側もそれなりに気をつける必要があるのではないか、ということだ。

賛否両論あることを承知で言うと、個人的には「岩木山」の方が地元の愛着が湧いて良かったんじゃないかと思うが、「岩木山」ナンバーだったら弘前市や西目屋村だけではなく、かなり広い範囲で使用されることになり、範囲が抽象的すぎるとか何とか言われてダメなのかも知れない。(一方で、静岡県富士市を中心とした「富士山」ナンバーがあるのも何かちょっと変な感じだけれど。)

当初の導入基準の一つとして、複数の市町村の集合であることが要件となっていたが、要件の緩和によってなのか、単独市町村の申請も通るようになっているようだ。
こうなってしまうと、原付バイクのように各市町村名が付されたナンバープレートでいいじゃないか。今回の「弘前」を含んだご当地ナンバーは第3弾とのことであるが、結局のところ「ご当地ナンバー」って一体何のためにあるんだろう、と思ってしまう。穿った味方をするならば、各地でご当地ナンバーが導入されることにより、多かれ少なかれ何かしらを得る人がいるってことなのだろう。どこかのOBとか、天から下った人とか。

さて、どんな絵柄になるのかはともかく、どうせならば唐辛子の絵柄でも入れて、横に小さく「清水森」って文字を入れた日には、色んな意味でヒネリと凝りが効いていてインパクト絶大だろうに、と思う今日この頃。そうだ、いっそのこと「弘前」じゃなくて「清水森」にしますか!
※ご当地ネタですいません。

「弘前在来トウガラシ」

祖母の七回忌と、甥っ子の冒険。

10日、祖母の七回忌法要が行われた。
95歳で亡くなった祖母。晩年は施設暮らしとなり、亡くなる数年前には僕が誰なのか認知できない状況になっていた。思い起こせば(見かけ上は)元気だった祖母と会ったのはその日が最後。

次に会った2012年1月には、祖母は施設のベッドの上で鼻に管を通され、僕の知っている元気な姿ではなくなっていた。

こちらの呼びかけに反応はするものの焦点は合わず、口を開くも何を言おうとしているのかわからない状況で、いよいよ「その日」が近いことを覚悟せざるを得なかった。

結局それから半年後の6月12日、祖母は黄泉の国へと旅立った。

仕事をしている時に妹からメールで祖母の訃報を知らされた。
翌日、動揺を抑えながら母の実家へと向かうと、祖母は自宅の畳の上に敷かれた白い布団で寝息も立てずに小さくなっていた。1月に見たときよりも、更に小さくなっていた。

弔問に訪れた近所の人が、棺の中の祖母の顔を見ながら、「長生きできて、本当におめでとう。」と声を掛けたことがとても印象的だった。

当時のブログ記事、もちろん今から6年前のものだが、それを読み返しながら、また色んなことを思い出し、感慨に浸っている。

今回の七回忌法要には、祖母が他界した1年後、まるで祖母と入れ替わりみたいな感じでこの世に生まれた5歳の甥っ子が、初めて両親(妹夫婦)のもとを離れて一緒に付いてきた。たかだか1泊2日、されど1泊2日。「楽しみだなあ♪」と車の中ではしゃぐ本人の心中、実はかなり不安だろうが、両親はもっと不安だろう。

そして、一緒に2日間を過ごすこととなるバアちゃん(=母)とオジちゃん(=私)も、かなり不安だった。

不安を感じていた最たる理由は、似た年頃の子供が全くいないということだった。40~80代という幅広な年代層の中で、甥っ子が楽しめる余地を見いだすことが、僕にはできなかった。強いていうならば、すぐ家の裏に線路が走っている秋田内陸線の列車が時々通ることぐらいだろうか。

14時30分頃、母の実家に到着。到着するなり甥っ子は従姉にベッタリだが、残念ながら従姉もヒマではない。それでも、野球中継のテレビを観たり、従姉に時々構ってもらいながら、時間を過ごしていた。内陸線の踏切の音が鳴ると「来た!」といいながら裏の窓際へと走って行く。(ちなみに最初に見た色は「紫色」だった。)

かつての国鉄阿仁合線だったこの路線、踏切の音が聞こえた途端に毎回階段を駆け上っていたのは、他ならぬ僕だった。ということで、甥っ子の姿が何だか昔の自分を見ているようで、居心地が悪かった。

夜になると伯父夫婦も集まり、大人6人が昔話に花を咲かせる。その中にあって甥っ子が話題に入って来られるはずもなかったが、時折伯父や伯母が弄ってくれたり、機転を利かせた従姉が八王子の従姉に電話をして、甥っ子の気を紛らわせていた。

しかし、実のところ甥っ子の気をどう紛らわせるか腐心していたのは大人だけで、当の本人はそれなりに楽しんでいたらしい。

翌朝10時から、菩提寺で祖母の七回忌法要が執り行われた。
甥っ子はこの時も非常におとなしく、住職が驚くぐらいだった。読経の間も、焼香の時も、大人が乗り移ったのかというぐらい甥っ子はおとなしかった。

法要のあと墓参りに向かい、伯父の家に立ち寄る。
「新幹線の運転手になる」のが夢になったらしい甥っ子に、伯父が粋な計らい。
かつてJRの助役だった伯父、当時の制帽を甥っ子に被せ、ご丁寧に白い手袋まで付けてくれたのだ。

これには甥っ子も大喜びだった。
しかし楽しかった時間は過ぎ、いよいよお別れの時間が近づいて来た。
お昼は一緒にラーメンを食べようと、伯父夫婦、従姉、そして我々の3人で、伯父の家からほど近いドライブインへ向かった。

ところがタイミングが悪かったらしく、駐車場も店も満杯で、先客が列をなしていた。
既に午後の予定があるという伯父夫婦と従姉。やむなく一緒の食事を諦め、その場で別れることになった。

伯父夫婦と従姉の車に手を振り、一路弘前へ向けて車を走らせる。

ところがこのことが相当不本意だったらしく、さっきまで「秋田、楽しいね!」と喜んでいた後部座席の甥っ子は急におとなしくなり、目を瞑り始めた。
さすがに大人とずっと一緒だったから、疲れて眠くなったかな…。

そういえば帰る途中で、メロンシェイクとフライドポテトを買うという約束を甥っ子としていた。

ついでに取り損ねた昼食を食べようとバックミラー越しに後ろを見ると、母が何やら合図を送ってくる。
よく見ると、甥っ子の服が濡れている。
泣いてる…。目を瞑ったままの甥っ子の目から、ボロボロと涙が溢れているのが見えた。

慌てて駐車場に入り、車を停める。
母が「着いたよ。ほら、起きて。」と甥っ子の身体を揺する。

甥っ子が本当に寝ていたのか狸寝入りだったのかはわからない。
ゆっくりと目を開いた途端、堰を切ったように泣きじゃくり始めた。よほど寂しく悔しい、そして本人にとって不本意な別れ方だったのだろう。5歳の子供らしさをようやく垣間見たような気がした反面、何だか申し訳ない気分に苛まれた。

あの場にとどまり席が空くことを選択しなかったことを後悔したが、母は「みんな次の予定があったんだし、何でも思い通りになるものじゃないということを教えるのも必要」と、的確な指摘をした。
とはいえ、ここで事を荒立てて甥っ子の機嫌を更に損ねるのは本意ではない。

何となく気まずい雰囲気が漂う中、結局3人でラーメンを食べた。
「みんなで食べるとおいしいね!」といつも口にする甥っ子は、終始無言だった。

弘前の自宅に到着すると、妹が既に自宅の前で待っていた。

あとで妹から聞いた話だと、「寂しくなかった?」と問われた甥っ子、「全然寂しくなかった!すごく楽しかった!」と、妹をガッカリさせたらしい。
妹はこうやって「親離れ」が少しずつ始まるという現実を噛み締めていたようだ。

大人が思っている以上に子供というのは、あっという間に成長するものだ。
そう言い聞かせながらも47歳のオジちゃんは、胸の中に燻る後ろめたさを払拭できぬまま、いつもより苦いビールを口に運んでいだ。

…そうそう。

法要の前夜のこと、従姉から昔の写真をたくさん見せてもらった。

孫が祖母を囲んでいる下の写真は多分、甥っ子と同じ5歳頃の写真だ。屈託のない自分の笑顔を見て、なぜか涙が出た。こんな純真無垢な時代が僕にもあったんだよなあ、って(苦笑)。

成長によって得られるものはたくさんある。しかし、成長によって得られた大切なものは、やがて社会の荒波に揉まれ、苦難を乗り越えていくうちにどんどん失われていくということを、改めて思い知らされた。

…さて甥っ子は、今回の冒険を経てどんな成長を遂げるのだろう。