月別アーカイブ: 2019年3月

さよなら平成

「平成最後の」というフレーズがやたらと席巻する昨今、いよいよ本当にその日が近づいて来た。

僕は「昭和」を18年弱、「平成」を30年ちょっと過ごして来た。昭和から平成へと時代が変わった時は高校3年、バリバリの大学受験生で、言うなれば「平成最初の大学受験生」となった、ということになるだろうか。(ちなみに受験は、年号の変わった僅か一週間後に行われた。)

奇しくもこの時は、共通一次試験が大学入試センター試験に切り替わる最後の年。そういう意味では、色々節目の年だった、ということになる。
年末や年始が近づくと、「今年1年を振り返る」と称してその年の出来事を回顧するということはあるが、今回を逃すと、「平成」という時代そのものを振り返ることもないだろう。
30年間の出来事全てを覚えているわけではないけれど、自分にとって節目となった出来事を回顧しながら、自分にとっての平成を振り返ってみようと思う。

(画像をクリックすると、小渕官房長官が時宜にかなった「元号」を掲げて下さりまする。)

●平成元年~5年【初動期】

無事に高校を卒業し、地元の大学に入学したのが平成元年。今の自分の礎となっている高校時代の濃厚な3年間を経て入学したキャンパス生活は、決して憧れていたわけではなく、学業そっちのけでアルバイトや好きなことに没頭することとなった。当時、高校時代からの知人が「大学は人生のバケーション」と評したことがあったが、今改めて振り返ってみると、大学の過ごし方が将来を左右することになるということに気付くのが、あまりにも遅すぎた。
それでも、唯一頂いていた地元の会社(約5年後に何と経営破綻)の内定を断り、今の仕事に就くことができたのは、本当に幸運としか言いようがない。しかし、今思い返してみると、時代が平成になった頃から、危ない橋を渡るような、綱渡りみたいな人生を送り始めていた。

●平成6年~10年【低迷期】

勤務先そのものの引っ越しに伴う初めての独り暮らし、青森から八戸への異動のタイミングでの結婚、その直後の単身赴任など、ベルトなしのジェットコースターに乗っているような波瀾万丈の時期だった。病がなければ同じ職に就いていたであろう高校時代からの友人が夭折したのを知ったのは、八戸市の職場で朝刊を眺めていた時だった。

周囲に悟られないよう振る舞っていたが、心身のバランスを崩していたのもこの頃。薬を手放せない、苦しい時期が数年にわたって続いた。今思えば、よくもまあ生き延びたものだ。

●平成11年~15年【能動期】

初めて本庁勤務となったのも束の間、2年で日本海側の漁師町への異動を命ぜられた。

実家から車通勤の日々。同じ部の所属となり9年目、この状況を打破しなければならないと思い立ち、意を決して自らのキャリアアップ、スキルアップに乗り出した。大学院派遣に名乗りを上げたところ、2回目の面接で母校の大学院への派遣が決定。
平成14年4月から、弘前大学大学院人文社会科学研究科の学生として、8年ぶりに母校のキャンパスに足を踏み入れた。そしてこの2年間は、自分のライフスタイルに大なり小なり影響を与えることとなった。父の新たな挑戦を陰ながら支えつつ、自らも奮い立たせる日々。長い間苦しんだ投薬に自ら終止符を打ったのも、この頃だった。結局父の挑戦は叶わなかったが、やっと自分らしさを取り戻し始めた気がした。そういえば、このブログを始めたのもこの時期だったな。

●平成16年~20年【急転期】

大学院派遣が修了した後、本庁勤務となる。しかしここから部局を転々とすることになり、今日まで農林、商工、総務、危機管理と、経験したことのない部局を渡り歩き、これまた経験のしたことのない業務に次から次へと携わることになった。そんな中、平成20年9月7日、剣山の敷き詰められた奈落の底へ家族もろとも叩き落とされるような事案が発生。

父の急逝。初めて弘前という街を恨み、そしてマスコミが心底嫌いになった時期だった。

僕にとって、最愛の父との突然の別れが、平成の最大のトピックスとなった。

しかしその一方で、この時のことを糧として、他人の心の痛みを汲むこと、人の気持ちを慮ることが自然と備わるようになった気がする。自分の人生観、死生観が大きく変わったのは、間違いない。

●平成21年~25年【蘇生期】

七転び八起き。一度底を見たら、あとは底から這い上がるしかない。これ以上堕ちることはない、普段通りでいることが一番、と開き直りながら過ごした日々。心の痛みにするまいと、父のことも臆することなく発信した。

そんな中で発生した、平成23年3月11日の東日本大震災。

自分には何ができるのだろう。深い傷を心に負った人たちの一助となる方法はないだろうか。色々思案していたところに舞い込んできた被災地支援のための派遣は、まさに願ったり叶ったりだった。

そうだ、本格的に「走る」ということにのめり込み始めたのもこの頃だった。昨年の自分より進化する、を目標に掲げるようになった。邪な心、斜に構えるような物の見方が薄れ、少しずつ前向きな思考が芽生えるようになった。

●平成26年~現在【黎明期】

仕事と私事は極力切り離すようにしていたが、現時点の置かれる立場を鑑みると、うまい具合につかず離れず融合しているような気がする。仕事の枠にとどまらない仲間も増えたし、「いい時代」を過ごさせてもらっていると言ってもいいだろう。

たくさんの出会いと別れも経験したし、失ったモノの方が大きいのかも知れない。

相変わらず綱渡りが続いている気もするが、不安定な細い綱ならば、両脚で飛び跳ねてもびくともしないぐらい太くすればいいだけの話。

僕にとっての平成は、まさに激動という言葉がぴったりの30年余だった。
新しい時代の幕開けまであと1か月ちょっと。

恐らく僕の人生の中では、この平成が一番長く過ごした時代になりそうな気がする。(…ということは、80歳まで生きることなんてないってことか。)

平成元年の頃にこんな人生を歩んでいるなんて想像だにしなかったが、忘却の彼方へ自分を追い込むようなことだけはしないよう、自我意識をしっかり持ち続けようと思う。

3年目の防災、4年目の危機管理

このブログで仕事の話をするのは極力避けたいと思っていますが、この一年、職責を全くというほど果たすことのできなかったことに対する懺悔と屁理屈と言い訳を重ねるための長文駄文をお許しください。


先日、若手職員向けの講話を行った際に、こんなことを聞かれた。

「防災の人は、災害がない時は何をしているんですか?」

ええと…特に何もしていません。みんなで談笑しながら、災害が来るのを待ち構えています…というのはもちろんウソだ。

一言に「防災」といっても、非常に多岐にわたる。その対象として真っ先に思い浮かぶであろう地震、津波はもちろん、大雨、大雪、雷、暴風、高潮、洪水、土砂崩れといった風水害、そして火山や大規模火災、交通災害(事故)もあるし石油コンビナート、原子力関係、更にはミサイル攻撃やテロなど、枚挙に暇がない。

こういった事象に対応するための備えはもちろん、どうしたら住民の皆さんに、より防災に対する意識を持っていただくことができるかの検討、市町村が防災に係る各種計画を整備しているかの確認、住民の生命や財産を第一に守るため、我々がすべきことなどの検討・検証や、県が策定している様々な計画の見直しや修正、災害時における体制の強化、住民や行政職員向けの研修・セミナーの開催や出前講座、図上訓練の実施等々、口から余るぐらいやること、やらなければならないことがあるし、その内容も朝令暮改とばかりに日々刻々と変化している。

ここ最近、時期を問わず防災に対する注目が集まっているのは、社会の防災に対する意識が変化してきた現れだと僕は勝手に思っている。
東日本大震災はもとより、その後も相次いだ災害の直後、住民の防災意識を高めようという声が上がったと記憶しているが、実のところ何からどうすればいいのかわからなかった、というのが実情だったのではないだろうか。
大なり小なりの「被害」はあったけれど、直接身に危険が及ぶようなほどのものではなかったからなのかも知れない。

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東日本大震災から8年目への想い

人間の記憶というのは本当に不思議なもので、一週間前に何をしていたか、何を食べていたかを思い出すのが難しくとも、2011年3月11日午後2時46分以降のことは、自分でも恐ろしいぐらい明確な記憶が残っている。
しかし、その直前に何をしていたのかは、全く思い出すことができない。
それぐらいあの出来事は衝撃的であり、そして絶対に忘れてはならないのだということが、身体に、そして脳に今も刻み込まれている。

「あの日」以降、復旧復興に向けた様々な取り組みが進められた。公助、共助、そして自助が叫ばれる中、各地では激甚災害が相次いだ。地震はもとより、台風や豪雨災害、火山噴火、雪害など、など…。

そして、災害が発生するたびに「この出来事を教訓に…」という言葉を耳にする。振り返ったとき、自分は各地で発生した激甚災害を踏まえ、何を教訓にしてきただろうか。恥ずかしながら、自分自身が何一つ教訓としていないのではないか、喉元過ぎて熱さを完全に忘れているのではないか、と考えてしまった。

ところで、我が国の政府が、発災直後の平成23年7月に策定した「東日本大震災からの復興の基本方針」において、復興期間を「平成32年度までの10年間」と定めているのをご存じだろうか。ちなみに今は、「復興創生期間」に当たるが、それも平成32年度で区切りを迎える。今日も大臣が「あと2年で復興を…」とほざいていたが、何馬鹿なことを言うか、という憤りとともに、何もわかっちゃいないんだな、という失望すら感じてしまった。とはいえ今日は別に政府批判をすることが主眼ではないので、これぐらいにしておこう。

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