Monthly Archives: 6月 2012

祖母との思い出

祖母が亡くなってからちょうど10日が過ぎた。亡くなってから納骨までがあまりにあっという間のことだったため、何かまだ狐につままれたままというか、そんな感覚が未だに燻っている。

でも、そこに眠っていたのは紛れもなく祖母であり、手を添えて棺に収めたのも、祖母だった。
…とにかく、祖母は黄泉の国に向けて旅立ったのだ。間違いなく。
ということで申し訳ない。もうちょっとばあちゃんとの思い出話に付き合って下さい…。


僕の中では、生まれたときからずっと祖母は変わらないままだったので、このまま不死身なんじゃないかとまで思っていたけれど、人間誰しも「生」の終わりがやってくるんだな、ということを今回改めて感じた。そしてそれは、妹も同じだったようだ。恐らく母もきっと、同じ思いを抱いていることだろう。

80代になってからも祖母は、自分の足で一人で娘(=僕の母)のいる弘前まで、電車に乗って、あるいは娘の運転する車に同乗してやってきた。
そしてそれはいつも唐突であり、仕事を終えて帰宅するとそこに祖母がいた、ということがよくあった。

父方の祖母は僕が中学生の頃に亡くなっていて、よくうちにも来ていたのだけれど、大概それは手術を終えた後の静養のためだった。

最後まで入退院を繰り返してこの世を去った父方の祖母とは異なり、自らの足で80歳を超えてもなお弘前までやってくる祖母は、ある意味超人的だとも思っていた。しかも、帰りは一人で電車に乗って帰っていたのだから…。
やがてその頻度も徐々に少なくなり、米寿を迎える頃には自分の足で外出することがあまりなくなった。それでも90歳になる頃までは、本当に元気だったのだが、一度入院したあたりから、急に老け込んだように思う。
…しかし、90歳になって老け込むというのもおかしな話で、それは当たり前なんだな、と。というか、90歳まで大病もなく生きていた、ということの方が凄いんだな、と。


祖母は、何の前触れもなく我が家にやってきて、僕らを驚かせていたのだけれど、それは思えば僕らにも受け継がれていたような気がする。
例えば、千葉に居を構えていた妹が誰にも知らせることなく突然帰省したり、かと思えば僕自身も、祖母の家に向かった母と妹には何の素振りも見せず、追いかけるように電車で突然祖母の家を訪れてみたり、いい意味で家人を驚かせるということをずっとやっているような気がする。これは間違いなく、母方の祖母、そして祖父の血を引いたのだと思う。

その祖母がずっと親戚の人たちに話していたことがあって、それが、僕たちと一緒に見た両国国技館での大相撲のことだったそうだ。
いわゆる若貴そして曙が全盛の頃で、普段ブラウン管を通じて応援していた大相撲を生で観戦できたことは、祖母にとって本当にいい思い出になったようだ。実際、国技館でも手を叩いて喜んでいたことを思い出す。

亡父と懇意にしていた相撲協会のある親方の配慮もあり、足腰が徐々に弱っていた祖母は、わざわざ入場口まで迎えに来てくれた車椅子に乗せられて案内され、その後もあれやこれやと本当によくして頂いた。祖母にとっては、実に気持ちよく相撲を堪能できたようだ。

そういうこともあり、帰ってきてからずっと、何度も何度も同じことを「楽しかった、楽しかった」と語っていたらしい。
今となっては文字通り冥土の土産になってしまったわけだが、そういう意味では僕自身、同行できて良かったな、と思っている。


亡くなった祖母を見ながらふと思ったことがある。
それは、人間というのは「欲」がなくなると急に衰える(萎える)、ということだ。

亡くなる前の祖母は、とにかく食欲が旺盛だった。とはいえ年齢も年齢なので口にする量は限られていたのだが、施設に入所していたときも、我々が何か食べるものを持ってきてくれたのではないかということにとても期待感を抱いていたように思う。

自分の手では口に物を運ぶのも困難となりつつあったが、極端に堅い物以外なら何でも食べていた。下手をすれば、我々が見舞いに持っていった花ですらも食べそうな勢いだった。

印象に残っているのは、まだ祖母が自宅で静養していた頃、既にその頃には大分痴呆の気も入り始めていたのかも知れないけれど、ついさっき何かを口にしたはずなのに、僕の顔を見るなり「今朝から何も食べてない…」の繰り返し。

さすがに最後は皆呆れていたが、この「食べる」「食べたい」という「欲」が、祖母を「生きる」方向に導いていたのではないかと、勝手に思っている。

祖母が持っていたもう一つの「欲」。
それは、「弘前に行きたい」ということだった。
いよいよ足腰が弱くなり、少しずつ弱音も吐くようになってきた祖母ではあったが、「元気になったら弘前に行きたい」ということはいつも口にしていた。もちろんその目的は娘である母の顔を見ることであり、母も、そのことを強く望んでいたが、結局それは叶わなかった。

欲を持ち続けること。
寝たい。食べたい。ヤリたい。叫びたい。会いたい。愛されたい…。

色んな欲があると思うが、持たなくてもいい欲もあることをお忘れなく。

死にたい。殺したい。

こんな欲は持たなくてもよろしいので。

ちなみに。
余談ではあるが、荼毘に付された祖母。お骨を拾う際、係の方から「これが下顎の骨です」と見せられたお骨の何とまぁ立派だったこと!どの部位よりも見事だったそのお骨は、祖母の飽くなき「欲」の賜物だと強く感じた。

95年という生き方

母方の祖母が12日の午後、亡くなった。享年96歳。天寿を全うしたとは、こういうことを言うのだろう。
その日の16時20分頃に祖母の訃報を知らせるメールが妹から届いていたのだが、僕はそのことに全く気付かず、終業時刻の17時15分を過ぎておもむろに携帯電話を取り出しメールを確認、その内容を見て思わず「えっ!」と大声を出してしまい、周囲から訝しげな目を向けられてしまった。

祖母が死んだ…。100歳まで生きてくれと、正月にお願いをしてきたあの祖母が、死んだ…。

必死に動揺を隠しながら、とりあえず上司に第一報を伝え、恐らく明日か明後日から休暇を頂かなければならなくなることだけをそっと伝えた。
狼狽する母の姿が思い浮かび、母の実家がある北秋田市までは、母には電車を使って行かせるように妹に伝えたが、既に出発した後とのこと。
何を思ったか僕は、祖母と同居していた従姉にメールを送り、母が着いたらメールをくれるようお願いをした。一番慌てふためき混乱しているのは、その従姉なのに…。


祖母は2年前から施設に入居していた。今年の正月、突如思い立って母の実家を訪れ、その時に祖母に面会したのが最後となった。こちらからの呼びかけにはほとんど応じることなく、祖母はずっと眠っていた。小さかった身体は更に小さくなり、「その時」が確実に近づいていることを感じずにはいられなかった。

そして何を思ったのか僕は、弘前に戻ってきてから、白いYシャツを2枚購入した。その思ったことが「何」なのかは、僕自身ではわかっていたのだけれど。
ちなみに、一進一退を繰り返しつつも、母がGWに訪れた時は、祖母は人の手を借りながらではあるが、椅子に座れるところまで回復をしていたらしい。

しかし、最期は実にあっけなく、結局家族の誰にも看取られることなく、祖母は一人で逝ってしまった。


水曜日の夕方から納棺の儀が行われ、翌日火葬に付され、その日の夜はお逮夜(お通夜のようなものだが、似て非なるもの)が行われ、金曜日には葬儀を経て納骨が行われることを聞いた。

しかし水曜日の午前中は自分が指定した法人との打ち合わせ。とりあえずそれが終わったら午後から移動を開始し、何とか納棺には間に合わせようと決めたのだが、上司の配慮もあって、水曜日の打ち合わせが終わった後に仕事を切り上げ、北秋田市に向けて移動を開始した。

こういう時は大体うまくいかないもので、国道7号は随所で工事が行われており、渋滞。結局予定より大幅に遅れ、16時頃に母の実家に着いた。実は僕は勘違いをしていて、てっきり施設で葬儀を全て済ませてしまうものだと思っていたら、祖母はちゃんと家に帰ってきていた。

挨拶もそこそこに祖母の顔を眺める。95歳とは思えぬ肌つやの良さ。皺もあまりない。
手を合わせながら、思わず口にする。
「ばあちゃん、お帰りなさい。お疲れ様でした。」

こちらも気が張っているのか、こみ上げてくるものはそれほどなかった。
しかし、納棺の時になると、見事に決壊してしまったわけだけど。

一連のセレモニーは、混乱の中にも粛々と進められ、あっという間に終わってしまった。
この間僕は、住職の送迎役を幾度となくお願いされることになり、おかげで納骨の儀には立ち会うことができなかったが、まぁ、これも最後の奉公だと割り切っていた。

それにしても、場所が変わればしきたりも全く異なるというのがよくわかった。この地の風習をいくつか挙げたい。

・まず、青森県もそうだが秋田県も、葬式の前に火葬が行われる。
・納棺の時は、直近の親族が亡骸を拭き、装具も身につけてあげる。まさに「おくりびと」。
・今回葬儀は自宅にて行われたのだが、お逮夜の席に参列したのはほとんどが身内だった。葬式に参列したのも、ほとんど身内ばかりだった。
・一方葬式に参列しない近所の人たちは、葬式の前、しかも早朝から午前に掛けて、怒濤のごとくやって来る。ちなみに最初に弔問客がやって来たのは、朝6時。それも、ちゃんと喪服に身を包んでやって来た。
・お菓子などの供物は葬式の前に箱から出され、葬式の後の法要にやって来た人たちやお手伝いの人たちに、紙にくるんで渡される。
・長寿で亡くなると、木の枝に5円玉や50円玉、お菓子などを吊し、葬式の日に家の前に立てられる。そして、納骨に向かうのを見送りに来た近所の人たちが、その枝からそれぞれ頂いていく。長寿にあやかる、という意味があるらしい。
・ちなみにその木にぶら下げるのは年の数の分らしいのだが、5円玉と50円玉が50枚ずつあった時点で、既に年齢を超える数になっていた。お菓子と合わせると多分、150歳分ぐらいぶら下がっていたと思う。
・故人と親戚関係にある人たちは、葬式の際、男性は襟元から白い布を、女性は頭に白い飾りを付ける。
・初七日までの毎朝、お墓参りに行く。
・従姉が住職を送る車の中で「お布施」の話をしていたのだが、住職は「二人で××円です。戒名は××円、これは二つの袋に分けて下さい。あとその他の経費で××円、これは現金で頂きます。」と、金額をズバリ話していた。多分弘前では聞くことができないと思う。

…などなど。

さて、祖母の生きた95年。一口に95年とは言うが、生きたいと思っても簡単に生きられる年月ではない。そして僕はまだ、その折り返し地点も過ぎていない(まぁ、僕自身95年も生きられるとは微塵も思っていないのだけれど)。
ちなみに祖母の生まれた大正6年は、まだ第一次世界大戦が行われていた(!)。そして、人を楽しませることが大好きな夫と3人の子どもに恵まれ、大正、昭和、平成と生き抜いた祖母。早いうちに夫(祖父)と娘(伯母)に先立たれ、決して楽しいことばかりではなかったはずだ。でも、穏やかな祖母の表情には、この世を生ききった、といった安堵感が漲っているようにも見えた。

出棺の前に弔問に訪れた人々が、祖母の顔に別れを告げながら、口を揃えて言う。

「ばあちゃん、ホントかわいい顔してるわ。」
「残念だけど、おめでとうって声かけたいね。」

亡くなってからもなお愛され続けるであろう祖母。
このばあちゃんの孫であることを誇りに思い、そして僕の母を生んでくれたことに対して心から感謝したい。

プリンスと私(2)

5回シリーズでお届けする予定だった「プリンスと私」ですが、低視聴率のため今回での打ち切りが決定しました。ということで、ここから一気に駆け足で遍歴を辿って行きたいと思います。
さて、正座をして聴き終えた「パレード」を手に、何か言葉では上手く説明できないぐらいの昂揚感を覚えてしまった僕。
プリンスを見る目が変わった瞬間でもありました。
…ということで、プリンスファンのキャリアとしては全然薄っぺらいのですが、ここから基本的にプリンスを軸とした音楽遍歴がスタートしました。
…といいつつ、僕がプリンスのCDを初めて購入するのは、この後更に遅れてからの話になります。一番最初に購入したプリンスのCDは、何とあの「BATMAN」のサントラでした。それも、黒い缶に入った限定仕様のもの。当時、「パープル・レイン」すらもまだまともに聞いていなかったというぐらいまだまだ薄っぺらなファンでした。
結局大学に入学した後、大学生協の割引制度を活用して、デビューアルバムから「ラブセクシー」までのアルバムを段階的に購入したわけですが、大学2年になった1990年に、プリンスが来日することを知ります(89年の2月にも来日していますが、当時受験まっただ中の身分で行けるはずもなく…)。そして遂に、初めて生のプリンスを東京ドームで目の当たりにしたわけです。
この時同行したのは、大学進学のため札幌に引っ越していたY君。実はチケットを取ってくれたのも彼でした。
何せ大学生になり立ての身分でしたので、バイト代で稼いだ小銭を全てつぎ込んで意気揚々と上京、東京から出発したオレンジ色の電車に乗って水道橋を目指すという失態もありましたが、人生初の外国人アーティストのコンサートを生で体感し、ますますその虜になってしまいました。
ちなみにこれまで僕が生でプリンスのコンサートを体感したのはたった4回のみですが、とりわけ2002年の来日公演、札幌と仙台公演は感動的だったなあ…(遠い目)。
他のプリンスファンの方からは「もうその話はいいよ。」と言われそうですが、この札幌公演は、久しぶりに再会したY君に僕からのご恩返し。
インターネットを通じて登録したNPGMC枠を利用して、北海道厚生年金会館の最前列を確保、しまいには他のファンの方々とともにステージに上がり、至近距離からプリンス本人を拝むという経験をさせて頂きました。
更に翌日の仙台公演では、移動時の飛行機でプリンスご一行様と一緒になり、約1時間にわたって機内のプリンスはじめツアーメンバーの行動を監視(ほとんどストーカーですね、こうなると。苦笑)、仙台公演ではこれまた同行したSさんが、プリンス直々のご指名でステージに登壇するという快挙を果たすこともできました(青森県人をなめんなよ!みたいな。笑)。
この頃には全国各地のプリンスファンとも交流を深めるようになり、僕なんて足元にも及ばないようなディープでコアなファンが全国にたくさんいることを知りました。
皆さん、これからもよろしくお願いしますね。
そんな中で一番の驚きは、幼い頃に家族ぐるみのお付き合いしながら、20年以上も前にほぼそのご縁が途絶えてしまった方と、プリンスを通じて再会したことでした。この時ばかりは、あまりに劇的すぎる奇跡的な再会に、本当にプリンスファンを続けていて良かったな…と思いました。
さて、プリンスの話を始めると多分尽きないと思うのですが、そろそろまとめますか。
プリンスのアルバムに順番をつけるとすると、やはり聴き始めた前後のアルバムになるのかな。まぁ、これに関しては皆さんそれぞれ好みがあると思うのですが..。
まずは「パレード」。これは言うまでもなく僕が一番最初に聴き通したアルバムということで。
続いて「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」。アメリカが収録されているアルバムではありますが、プリンスの名を世界に知らしめることになった「パープル・レイン」の次のアルバムとして発表されたにもかかわらず、全く趣の異なるバラエティに富んだアルバム。僕はリアルタイムでは聴いていないのですが、「パープル・レイン」の続編に期待を寄せていた人たちからすると、ビックリするような内容だったんでしょうね。
そして「サイン・オブ・ザ・タイムス」。これは「パレード」の次に発表されたアルバムですが、プリンスの懐の深さといいましょうか、ホントこの人って凄いんだな、ということを思い知らされたアルバムでした。
しかし、彼が来日する日は来るんでしょうか?海外公演だと、ステージに近いチケットが300ドル以上、なんてこともあるようです。まぁ、それに見合う分だけのパフォーマンスをすることは間違いないでしょうけれど(何せ彼のコンサートの場合、毎回異なるステージ構成となるため、観て飽きるということがないのです)。
まぁ、チケットが幾らになろうとも、来日すれば行っちゃうんですよね、きっと。
どれだけ首が長くなるのかはわかりませんが、いつか日本に来る気になるのを、じっと待ち続けていたいと思います。

プリンスと私(1)

父の月命日に心を奪われ、昨日がプリンスの誕生日であったことをすっかり忘れていました。

プリンス。御年54歳だそうです。
来日したのがちょうど10年前、2002年のこと。その後も来日待望論は渦巻くものの、彼を招聘できるだけのプロモーターがいないからなのか、あるいはレコード会社をはじめとするバックアップ体制が整っていないからなのか、はたまた彼のお目に叶った会場がないのか、一向に来日する気配がなく、ホントに好きで好きでたまらないファンは、海外で行われる公演に足を運んでいます(ちなみに僕はハッキリ言ってそこまで投入できるお金がないのでムリです。)。

僕が洋楽を聴くようになったのは、中学1年になった頃でした。それが早いのか遅いのかはわかりませんが、青森という片田舎の中学生にとっては、洋楽を聴いている、ということ自体で得られる優越感、何かオラって格好いいべ?という大きな勘違いにとらわれたまま、80年代の真っ直中、洋楽全盛の時代にドップリと足を踏み込んで行きました。

当時のアイドルはマイケル・ジャクソンであったりマドンナであったりシンディ・ローパーであったり、はたまたワム!であったりと、めまぐるしく変遷。小林克也氏のベストヒットUSAを夜な夜な血眼になって見ることもあれば、FM雑誌をチェックしてはNHK-FMのクロスオーバー・イレブンを、半分眠り掛けながら聴いたりと、とにかく色んな情報をあちらこちらから収集するのに一生懸命でした。

とはいえ所詮中学生。お小遣いもたくさんもらっているワケじゃないし、まして貧乏家族の我が家に贅沢は禁物。
レコードを買うなんていうのは問題外(事実、僕が初めて自分のお金でレコードを購入したのは高校1年生の時でした)、友達からダビングしてもらったテープを聴いたり、FMの音源を録音するというのが音楽を楽しむ方法でした。

閑話休題。
ちょうど洋楽を聴き始めた頃、プリンスは「パープル・レイン」を発表した頃でした。しかしながら、見た目のグロテスクさと金切り声でも上げているような奇妙な歌声に思い切り拒否反応、全く聴こうという気にはなりませんでした(笑)。

さて、そんな僕に転機が訪れたのが、中学2年の時、偶然FM雑誌の番組表で見たプリンスのアメリカという曲。当時のFM雑誌には楽曲の長さも掲載されていたのですが、前述のクロスオーバー・イレブンの1曲目に掲載されていたアメリカ(21分45秒…だったかな?)という文字に、目が点になりました。1曲で22分近く!?カセットテープが主流の時代、46分テープだと、片面が1曲でほぼ埋まってしまう計算になります。
結局僕はその楽曲をカセットテープに録音し(といってもその曲はプリンスのやりたい放題の挙げ句、延々とループが続くだけの楽曲だったのですが…)、それからプリンスという奇妙な歌手の音楽を、少しずつ聴いていくようになりましたが、積極的に自ら聴く、というよりは、相変わらずFMから時々流れてくる彼の音楽を、他のアーティスト同様、流行の一つとして惰性のように聴いていただけでした。

高校に進学したその年。
同じ中学から進学し、初めて同じクラスになったY君。Y君は同じ学区、それも帰る方向が一緒ということで、学校の帰りに僕の家に立ち寄る機会も増え、その時に勧められたのが、プリンスの「パレード」というアルバムでした。もっとも、このアルバムの発表と前後してシングル化された「Kiss」という楽曲に衝撃を受けた僕は、無性にプリンスというアーティストに対する興味がわき始めていた頃。これは、食わず嫌いなんじゃないか…と思い始めていたところに、まさに渡りに船、とはこのことでしょうか。Y君は有無も言わさずLPレコードを僕に預け、「まぁいいから聴いてみろって。」と帰っていったのでした。

相変わらず気味の悪いジャケットだな、と思いつつレコードに針を落とすと…。

結局僕はその後の約1時間、部屋で正座をしたまま、そのレコードをじっと聴いていたのでした。

(…たぶん続く)

大人の科学 二眼レフカメラ 使用記

宝の持ち腐れ。
発売から既に2年半も経過してから今さら使用記、なんていうのもホントおかしな話なのですが、二日前にお知らせしたとおり、「大人の科学 二眼レフカメラ(Gakken Flexという名称があるそうです)」を使ってみた感想をようやくお伝えする機会がやって来ました(苦笑)。
まず、撮影した写真を現像してみて最初に思ったことは、何でこのカメラをもっと使わなかったんだろう、ということでした。
2年以上前にフィルムを押し込んだまま放置していたカメラ。これはやばいぞ、と思い慌てて撮影してみましたが、結局まともに現像できたのは24枚中9枚のみでした。まぁ、そりゃそうだわな。
ちなみに、その奇跡の9枚に含まれていたのが次の写真。ISO400のフィルムを使用です。ハッキリ言っておもちゃにちょこっと縮れ毛が生えたみたいなカメラですので、全く期待していなかったのですが、意外と味のある写真に仕上がっていました。
At My Home
これは玄関に置いてあった花を撮影したものです。確か昨年の正月頃に撮影したもの。フラッシュも何もない中で、外から差し込んでいた自然の光、それも雪に照らされた光をいい具合に取り込んだことで、色味も鮮やかな写真に仕上がりました。
続いて、外に出歩いてみて撮影した写真。これはISO100のフィルムを使用しています。
見る人が見ればどこかはすぐわかると思うのですが、これも外からの光をいい感じに取り込んでくれました。
At Aomori Bay Area
もう一枚。青函連絡船の桟橋に取り付けられていた鉄板。四隅のビスは恐らく取り替えられたものと思われますが、周りの錆び具合といい、これもまた味のある写真を撮影することができました。確か、1mぐらい離れたところからの接写だったかな。
At Aomori Bay Area
もう一枚。固定化されたシャッタースピードが生み出した一枚。雨もこぼれるぐらいの曇り空でしたが、水に含まれた光がいい形で発光してくれました。惜しむらくは、もう少しピントを上手く合わせたかったかな、と。
At AOIMORI Park
一方で、全てが上手く撮影できたかと言えばもちろん失敗したものもあります。
まずは、逆光が招いた悲劇。面白い写真が撮れるかな、と思ったのですが、所詮プラスチック製のレンズ、妙味があるという見方もできるかも知れませんが、ハッキリ言って失敗作です。下にレンズの影が映り込んでいます。
At Aomori Bay Area
こちらは光量不足。感度ISO100のフィルムでは、やはり曇天は厳しいようです。
At AOIMORI Park
まぁ、これはこれでアリなのかも知れませんが、この日撮影した他の写真も、みんなこういった状態でした…。
こちらは、フィルムの巻き上げをちゃんとしていなかったという人為的なミス。結果的に写真が被ってしまったようです。
At Aomori Bay Area
それから、全般に通じて共通して言えることなのですが、接写すればするほど四隅に縁取られた黒い影(ケラレ)が現れます。まぁ、これもこのカメラの特徴の一つなのかな…。
結論から言うと、このカメラに向いているシチュエーションはかなり限定されると思います。できれば外で、できれば日中、できれば晴天。
この3つの要件が揃えば、恐らくデジカメでは伝えることのできない、味わい深くかつ温かみのある写真が出来上がるのかな、と思っています。それから、カメラはしっかり固定しなければなりません。そうしないと、シャッターを切る際に手ブレが生じること必至です。こんな感じでストラップを付けると、何となくオシャレなカメラに見えるでしょ?
DSC00177.JPG
フィルムは、前述のシチュエーションであればISO100で十分です。室内での撮影も検討されるのでしたら、ISO400の方がいいのかも知れませんが、何せフラッシュの付いていないカメラですので、仮にISO400で撮影したところで上手く撮影できるかは保証できません。ちなみに僕が撮影した写真は全てぼんやりと霧が掛かったような写真になっていました。
室内撮りの写真は含んでいないのですが、他に撮影した画像も含めたセットを作成しておりますので、もしよろしければ御覧下さい。
Gakken Flex(Flickr)
※多分英文メッセージが出ると思いますので、If you’d like to view this content, please click here. のplease click here.をクリックしてみて下さい。
ちなみに余談ではありますが、撮影した2本のフィルムをを現像し、CD-Rに焼いてもらったら、それだけでこの書籍(カメラ)の価格とほぼ同額になってしまいました。むやみやたらに撮影することはちょっと考え直さないと…。