青森市役所と弘前市役所の間は、国道7号線経由で41.8キロほどの距離がある。
ほぼフルマラソンと同じ距離になるが、誰もこの距離を自分の足で走ろうなんてことは考えないし、実際走る人はほとんどいないはずだ。
ところが、もしこれが「マラソン大会です」となった途端、きっと各地からこぞって人が集まることだろう。
マラソンとは、つくづく不思議な競技である。
体力、精神力、持久力、技術力、知力、そして能力…人間の持つ全ての「力」を試されるマラソン。
一番強い自分、一番格好いい自分、一番イヤな自分、一番弱い自分…そんな、今まで気づかなかった「己」を垣間見ることのできるスポーツでもある。
僕は、2013年の10月に初めてフルマラソンを完走したばかりの、経験の少ないペーペーのランナーだ。
もっと速くなりたい、そのためにもっと強くなりたいといった向上心を胸に秘め、二つの目標を定めて2014年を迎えた。
一つは、昨年の自分より進化を遂げること。(これは恐らく、死ぬまで一生の目標になりそうな気がしている。)
もう一つは、フルマラソンに出場する時は、常に自己ベストを目指すこと。それは、時間だけではなく、走りの内容も含めたベストの状態を目指す、ということだ。
この二つの目標を掲げて臨んだ2014年。結果、フルマラソンを走る機会を4度得ることができた。
北海道、田沢湖、地元の弘前・白神、そして今回の沖縄・NAHA。
2014年の最終レース、今回初めてエントリーしたNAHAマラソンは、人生5度目のフルマラソン。今年は北海道と沖縄のマラソンを走ることになる。
さて、12月5日(金)は普通に仕事を終え、その日の最終便で青森を発ち、羽田で一泊、翌6日(土)の始発便で沖縄入り。
夏の沖縄訪問は妻と僕にとって毎年の恒例行事となっているが、冬の沖縄は初めてだった。
青森との温度差は約20度。一体どんな格好で向かえばいいのかわからぬまま、とりあえず薄手のパーカーを羽織って沖縄那覇行きの便に搭乗してみたが、他の乗客をみると、すっかり冬の装いだった。
そしてもう一つ。
僕同様、NAHAマラソンに出場すると思しき方が、大勢搭乗していた。言わば「同志」の皆さんだ。
前日の夜あまり眠れなかったため、機上で眠りに就く予定だったのだが、思った以上に気分が昂揚していたらしく、ほとんど眠れなかった。
そして、9時30分に約5か月ぶりの沖縄入りを果たした僕と妻を待っていたのは、沖縄とは思えないぐらいの冷たい風だった。
一方その頃青森では、12月初旬としては考えられないぐらいの大雪に見舞われ、青森空港発着の便に欠航が出ていることを知った。弘前からやってくるはずだった他の弘前公園RCのメンバー2名が青森空港で足止めを食らい、結果、沖縄入りが不可能となり、無念のDNSとなってしまった。
僕はといえば、那覇空港近くでレンタカーを借り、妻を連れ立ってコースの下見に向かった。
全く下見をせずに臨んだ北海道マラソンの時に痛感したのだが、コースを少しでも知っているだけでも、気分的に全然違うということ。特にNAHAマラソンは決して楽なコースではなく、むしろかなりランナー(ちなみにNAHAマラソンではジョガーというようです)泣かせのコースだということを事前に聞いていたため、下見だけは絶対にしようと決めていた。
なるほど確かにコースを車で走ってみて感じたことが一つ。
以前から聞いていたけど、このコースで自己ベスト(PB)を狙うのは、無理だな…。
前述のとおり僕個人としては、どんな大会であろうと、どんなコースであろうと常に自己ベストを狙うという意識だけは心のどこかに持っているので、それがNAHAマラソンであろうとも一緒だった。
コース全体の高低差は約100メートル。しかし、スタートから20キロ過ぎまではほぼ上り基調。ただし、単純に上るだけではなく、上って下ってまた上って下ってという細やかなアップダウンが続き、その合間合間に比較的距離のある、あるいは若干勾配がきつめの上り坂があって、特に19キロから20キロ付近までダラダラと続く上り坂が、かなりきつそうな感じだった。
ポイントとなりそうな上り坂は、7キロ、10キロ、12キロ、19キロ付近。
そして、20キロ付近から一気に坂を下り、そのまま中間地点の平和祈念公園へ。ここから28キロぐらいまではずっと下り基調。ただ、調子に乗ってペースを上げると、30キロから40キロ付近まで続く平地で絶対にやられてしまうな、と感じだ。
端的に言うならば、スタートから20キロまでは上って、そこから30キロまで下って、その後に続く平坦なコースまで余力を残さないと、といった印象だった。
まあ、PBは無理かも知れないけれど、それを目指せるような気持ちで明日を迎えよう…と、いつになく穏やかな気持ちで、受付会場である沖縄県武道館へ。
受付会場に到着するなり、その行列の長さに卒倒しそうになった。長さというよりも、これだけ多くのランナーがエントリーしていることに対する驚き、といった方がいいだろうか。東京マラソンが始まる前までは、日本最大級のマラソン大会だったというだけある。
しかしながら、果てしなく続く列の最後尾にようやく並ぶと、そこからは特に混乱もなく、まるでベルトコンベアが流れるようにどんどん列が進んでいく。結局20分程度で受付けを終えたが、その後もなお、行列は延々と続いていた。
その後は、妻とともに色々見ておきたいところへ。正直、前夜あまり眠れなかったこともあり、睡魔がピークに達していたが、これも今晩解消されることだろうと、妙に気持ちは落ち着いていた。
まあ、この間に色々あった出来事、例えば沖縄那覇空港に向かう飛行機の搭乗口と座席番号が1並びだったこととか、宿泊したホテルの部屋が444だったこととか、そんな些細なことが僕のモチベーションをずっと高めてくれた。
いつもであれば沖縄の夜を堪能すべく、オリオンビールだ海ぶどうだラフテーだと喜び勇んで繰り出すところだが、何せ大会前夜。この日はアルコールもカフェインも避け、地元の有名な食堂でおとなしく夕食を済ませた。
10時過ぎに就寝したが、緊張か興奮か、それとも早くもアドレナリンの放出が始まったのか、なかなか寝付けぬまま翌朝を迎えた。
普段は7時からだというホテルの朝食会場も、この日ばかりはマラソンのため5時30分にオープン。朝食会場の前には、ランナーの方々が集まっていた。白米と豆腐におかずという、ごく普通の朝食を摂った後、部屋に戻って弘前から持参した切り餅7個を平らげ、OS-1を飲み干す。その他に豆乳、バナナと、口にどんどん放り込む。「マラソンは食べるスポーツだ」と誰かが言っていたような気がするが、スタートの9時から2時間前、7時頃まで僕はひたすら食べ続けた。
そして、着替えも何も持たず、既にいつでも走れる状態で、手にOS-1のゼリーだけを握りしめてホテルを出ようとしたとき、玄関で従業員に声を掛けられた。
「頑張って下さい。」と手渡されたのは、ミネラルウォーター。
こういうちょっとしたサービス、心配りが、これまで30年続いてきたNAHAマラソンの下支えとなってきたのだろう。
ホテルを出ると、空気がひんやりとしている。ゼッケンを装着した半袖にランパン姿の僕は、ちょっとだけ那覇の街の中で浮いていたようだった。そもそも、陸連登録の人たちのゼッケンナンバーは黄色。一般申込の人たちは白色。これだけでも十分浮いてしまう要素がある。
ホテルからの移動はモノレールを利用する。ホテルにほど近い牧志駅から乗り込み、壺川駅まで。しかし、たった2両しかない可愛いらしいモノレールの車内は、NAHAマラソンに向かうジョガーでごった返していた。
壺川駅で下車し、ゲートを目指す。僕のスタートはBブロック。AとBブロックには、陸連登録の黄色いゼッケンを付けたジョガーと、本気走りのジョガーしかおらず、その後CからJまでズラーーーッと約3万人近くの人が列をなすわけで。
ブロック別の入り口は厳重で、例えば後列のブロックの輩が前のブロックに忍び込もうとしても、無理。(まあ、そんなことをするヤツは自滅するのがオチなので、勝手にやっていればいいんだけど。)
ただし、A・Bのブロックの人数が凄く少ないので、スタート時のストレスを感じることはほとんどなさそう。(実際、スタートの鐘が鳴らされてからスタートのラインを踏むまで17秒しかかからなかった。)
さて、8時30分を過ぎ、奥武山公園内の集合場所からスタート地点である国道58号の「旭橋」交差点へとゆっくり移動が始まった。Aブロックの移動に続き、Bブロックの移動が始まる。誰かが押すわけでもなく、誰かが割り込むわけでもなく、静かにスタート地点に向かう。
(Aブロックのジョガーが進むのを待つBブロックのジョガーたち)
…と、ここでアクシデントが発生。何を思ったのか前のAブロックの選手達がスタートラインを越えてしまったため、スタート地点までバック。
(右側にあるのがスタートライン。招待選手やAブロックのジョガーが大きくこのラインを超えてしまった。)
しかしここでも大きなアクシデントはなく、むしろたまたま近くにいた見ず知らずのジョガーの人たちと会話するきっかけを得た、そんな感じだった(ちなみに地元のジョガーの方々で、僕が青森から来たことを聞いてビックリしてました)。
(橋の上に引き戻されたBブロックのジョガーたち)
スタートは、那覇市長と、沖縄県ゆかりの人が万国津梁之鐘を鳴らすというもの。今回のスターターは、前日レンタカーを借りる時に「明日のスターター、MAXらしいよ!」と聞いていたが、それは去年の話。
今年は、具志堅用高だった。事前に聞いていた情報(スターターが右にいること、スタートした後右折するが、比較的右寄りが空いていること、など)を頼りに、最初は右寄りに位置していたので、スターターの動きがハッキリ見えた。
そしていよいよ9時に鐘が鳴らされ、スタート。42.195キロの一人旅が始まった。
前述のとおりかなり前からのスタートだったので、思った以上にロスがなく、すぐに自分のペースに乗せることができた。
今回の作戦は、
・30キロまでなるべく体力を温存し、そこから先をゆっくりでもいいので走りきる。
・上りでは無理をせず、下りでは飛ばしすぎない。
・補給、特に塩分補給をこまめに行う。
というものだった。天気予報では曇り時々晴れで、日中の最高気温は21度と、絶好のコンディション。
ただし、冬の沖縄でも日差しが思った以上に強いので警戒しなければならない。しかも、前日のような強い北寄りの風が吹くと、30キロ以降が相当辛くなる。
最初の5キロを24分04秒と、当初の予定より若干遅めで通過。まあ、先は長いし、この先上り坂が待ち受けるから無理はするまい…。上りは無理をするまい、という作戦通りである。
最初のキモと考えていた7キロ地点付近の上りを終えると、NAHAマラソン恒例の「YMCA」ポイントが待ち受ける。大音量で「ヤングマン」を流し、ジョガーたちが音楽に合わせて一斉に手を挙げ、あのYMCAの振り付けをしつつ走っていく。前の人たちが手を挙げながら走る姿は、なかなか滑稽というか不思議な光景だ。
…では引き続き僕も、と構えたところで音楽が終わった(笑)。
しかし、「さあ、残り35キロだぁ!頑張るぞ-!」というマイクでの声援に対し、その場に居合わせたほぼ全てのジョガーが「おー!」と応えるといった感じで、テンションが上がるわけですよ。何か、凄く楽しいかも!
沿道の応援は、スタートからほぼ途切れることなくずーっと続いている。手に飴を持っている人、私設エイドを出している人は当たり前。唯一応援が切れたのは、10キロ付近。南風原道路の高架下の横にある牛小屋の前に看板が立っていて「妊娠している牛がいますので、鳴り物や大声での応援はご遠慮願います。」みたいなことが書かれてあった。
この区間を除いては、ほぼ全てのコースで地元の方々からの暖かい声援を受けることができる。
子どもたちとハイタッチを交わしたところ、やたらと力を入れて返して来られたため、申し訳ないけれどそこからハイタッチを控えることにした。
バンド演奏や太鼓を打ち鳴らしてのエイサーなど、至るところで色んな形の応援がされているため、それを見ているだけでも飽きない。
さてさて僕はといえば、上り基調にも関わらず10キロを47分40秒、15キロを1時間11分46秒と、まずまず良い感じでペースを刻んでいる。前日たじろいだ上り坂もそれほど苦痛ではなく、息を切らすことなく淡々と走っていた。特に今回は上半身、その中でも腕の振りを意識して走っていたので、下半身は機械的に動かしていたような感じだった。
多分、この意識付けがゴールまで続けば、それなりにいいタイムも出るのだろう。
コース上に何か所か給水ポイントは設けられてはいるのだが、それ以外にも私設エイドがたくさんあるため、どれが給水ポイントなのかはまったくわからない。律儀に全ての私設エイドの給水を受け取る人、ハイタッチになるべく応えようとする人など、走り方もさまざま。背後からは、ショッカーの声(イー!というあの声)がひっきりなしに聞こえて来るのだが、後ろを振り返るのも癪だったので、そのまま走り続けていた。
そして19キロ過ぎの長い上り坂。さすがに呼吸が荒くなってしまったが、これで一番きつい上りは終了。パッと視界の先に、海が広がる。そこからの下りも、なるべくペースが上がらないように我慢しつつ歩を進めた。コースは中間ポイントの平和祈念公園へ。シャワーが設置されているが、誰もそれを浴びようとする人は、いない。20キロまでは1時間36分12秒、中間地点通過が1時間41分25秒、想定していたよりもちょっと遅れ始めている。
更にこの辺りから、右足裏の痛みを感じるようになった。また種子骨が悪さを始めたのかも知れない。しかも、右足のシューレースを少しきつく締めすぎたらしく、足の甲も痛み始める。そのことを気にし始めた結果、25キロ通過が2時間00分34秒と、下り基調にも関わらず、ペースがガクンと落ちた。そして、ひめゆりの塔付近で、例のショッカーに道を譲ることに。(結局そのまま後塵を拝することとなったが、ショッカーはゴールするまでずーっと「イー!」と叫びながら走り続けていたらしい。)
この辺りから、上半身の腕の振りのことを、忘れ始めていた。そして、キロ4分台をキープするはずのペースが5分台へと落ち込み始めた。
つまり、我慢ができなくなってしまったのだ。
前述のとおりマラソンというのは心技体+知のスポーツ。何か異変が発生した時に順応に対応できるぐらいの技量や精神力が求められる。いや、そうしないと自分の目標タイム通りゴールすることなど不可能といっても良いだろう。
練習不足だった、といえばそれまでだが、どうやら自分で思っていた以上に前半を頑張りすぎたらしく、そのツケがここに来て回ってきたらしい。とにかく、足の痛みが気になり始めて、フォームもかなり崩れていたようだ。
…が、それを修正するだけの心の余裕が、その時は既に損なわれつつあった。いつものことながら、またしても「楽をしたい」という思いが頭をよぎり始める。
フルマラソンの本当の折り返しは28キロと言われている。3分の2を走り終えてからが本番といっても過言ではない。ここから残りの14キロをどう走りきるか。しかし、その時点で僕の頭はちょっとしたパニックに陥っていた。こうなると、心技体+知もバラバラ。平坦なコースに入った28キロ過ぎで、遂に足が止まった。きつく締めすぎたシューレースをすぐに緩め、再びコースに戻る。
30キロ通過は2時間26分08秒。この時点で、5分10秒までペースが落ち込み始めていた。
糸満市内を抜ける旧道へ。沿道の声援がまた増え始める。そして、ここからいよいよ苦痛の時間が始まった。さほど暑くはないものの、日差しが若干強い。せめてもの救いは、思ったほど向かい風が強くなかったことか。
一つ大きな過ちを犯していたことに、気づいた。
というか、それまで気づかなかった僕がバカだった。
ここまでほとんど塩分の補給をしていなかったのだ!…と気づいた途端、急に右足のふくらはぎが疼き始める。
待て待て待て…我慢しろよ、我慢しろよ…。
我慢が限界を超えようとしていたのだが、33キロ地点を過ぎた当たりで、その時がやってきた。
ウホッ!脚が…!!
右足ふくらはぎの痙攣。
慌てて歩道に寄る。不幸中の幸いは、田沢湖の時とは違って両脚の痙攣ではなかったこと。そして、すぐに収まったこと。ピクンピクンとふくらはぎが脈を打つ。
近くに居合わせた人が持っていたコールドスプレーを脚に噴射し、何とか立て直す。しかし、これを一度やってしまうと更に気力を取り戻すのが大変。しかも残り8キロ以上もある。立ち止まりながら脚をほぐす。
そして、34キロ手前まで騙し騙し歩き走りを繰り返すと、オレンジ色のエイドが見えてきた。
あ…牛丼!
…そう、何と噂に聞いていた「吉野屋」のエイドを発見してしまったのだ。
思わず立ち止まり、牛丼を一つ頂く。はぁ…牛丼ってこんなに美味しかったっけ?というぐらい妙な感動。
(紙コップに収まったミニサイズの牛丼。エイドなので、無料です。)
…よし、牛丼も食えたし、もう少し頑張ろう。(←単純)
34キロ地点。豊見城市役所前に並ぶ糸満高校の生徒達とハイタッチ。高校生は力ずくのハイタッチはしてこない。若い人たちのエネルギーを貰い、その後も走ったり歩いたりを繰り返す。
右足をかばっていたせいで、左足も痛み出すが、そんなことはもうどうでも良かった。
もうね…今日はこれでいいんだよ。
その後も続くエイドの誘惑に何とか耐えながら、35キロを2時間55分02秒で通過。この時点で、自己ベストどころかサブ3.5も無理だということを悟った。
走って歩いて立ち止まって、コールドスプレーを借りて、声援を送ってくれるおばちゃんに「ありがとう!」って目一杯の笑顔で応えて…。
そんなことを繰り返しているうちに、気がついたら40キロ地点手前までやってきていた。モノレールの赤嶺駅を通過した辺りで今一度立ち止まり、歩道で呼吸を整える。自転車に乗ったお兄ちゃんが、「残り2キロぐらいです。行けますよ。ガンバです。」と優しく励ましてくれる。
そうだ、あと二駅…。あと二駅で、ゴールが見えてくる。
心を落ち着かせながら言い聞かせる。最後ぐらい自分らしく走ろうじゃない。今年最後なんだしさ…。
「よし!ありがとう!」
お兄ちゃんの一言で、消えかかっていた心に再び油が注がれた。緩く続いた上り坂の先に、40キロの看板が見える。
40キロ通過は、3時間29分52秒。ちなみにここまでの5キロで、250人に追い抜かれていた。
最後の給水ポイントはスルー。何かに取り憑かれたかのように、ペースは全く上がっていないのだけれど、力を振り絞る。下り坂の先に奥武山公園駅が見えてきた。ゴールが近いことを意味する。スタートして5キロ以降はずーっと追い抜かれ続けてきたけど、せめてここだけは…と、脚も痛みも忘れて走り続ける。残り1キロ。3時間40分は切れるだろうか?そんなことが頭をよぎるが、時計に目をくれる余裕はない。走って走って、がむしゃらに走って、40キロからゴールまでの2.195キロで、40人近くを抜き去った。
競技場のトラックに入る。ようやく見えてきたゴールゲート。時計は3時間40分台を指している。ここまで来たら、タイムなんてどうでもよかった。沖縄のマラソンを、NAHAマラソンを、このコースを走ることができた喜びを噛みしめながら、ゴールを目指した。
ようやくゴールラインを越える。息を切らしながら身体をくるりと反転させ、コースに向かって深々と頭を下げる。そのまま両側にいる関係者の方々にも深々と頭を下げる。
沿道で応援してくれた皆さん、関係者の皆さん、ありがとうございました。僕もジョガーの仲間になれましたか?
すぐそばでゴールをした見ず知らずの人が、握手を求めてくる。お互いの完走を称え、言葉を交わす。
「お疲れさまでした!」
「ナイスランでした!」
その人が誰なのかは全くわからないけど、42.195キロを駆け抜けた同志と、同じ感動を味わえるのもマラソンの醍醐味だ。
ふと、脚の痛みを思い出し、フラフラになりながら思わず芝生の上にへたり込み、そのまま脚を放り投げた。
雲の間から顔を覗かせる太陽が、眩しかった。このコースを走り終えたという清々しさで、胸が一杯になっていた。
程なく、メール着信。妻からだった。
「出口付近で待ってます。」
…え?
僕のマラソンに一切興味を示さず、今日も一人でどこへ行こうか思案していたはずの妻が、出口で待ってる?
慌てて完走証を受け取り、絶対に欲しいと思っていた琉球ガラスの完走メダルを受け取る。
ボランティアの女子高校生に、オレンジ色に輝いた完走メダルを首からぶら下げてもらったその時、メダルに書かれた「ありがとう」の文字が目に入った。ほろっと涙がこみ上げてきた。
出口付近というので、奥武山公園の外でレンタカーを停めて待っているのかと思いきや、妻は競技場に隣接しているサブグラウンドの中で待っていた。妻の顔を見た途端、また涙が出てきた。
僕がゴールする時間を見越して、ホテルからモノレールで競技場にやってきて、僕がゴールするのをカメラを構えて待っていたらしい。
ダメですね、最近めっきり涙腺が弱くなってしまった…。
(妻が撮影してくれたゴール直前のシーン)
レース結果。
タイムは3時間40分27秒で、946位。まあ、タイムは平凡だった(と自分では思っている)けれど、ファンランナーが大勢を占めるとは言え、2万人以上参加の大会で1000番以内に入ることができただけでも、自分を褒め称えようと思う。しかも、そもそもエントリーの際の目標タイムを3時間40分として申告したことを考えると、誤差はたった27秒。これってかなり優秀なランナーじゃないか、ってね。
ちなみに翌日の地元紙「沖縄タイムス」には、上位1000位までの方の名前と記録が掲載されるんですね。(全記録は10日付けの朝刊別刷だそうです。)
もちろん記念に迷うことなく購入。で、その記録を飛行機の中で見ながら気づいた。青森県からの参加者の多くが、恐らく雪の影響でDNSとなってしまったため、どうやら青森県勢トップだったようです(笑)。こんなタイムなのに、ホントすいません。
(最右列の下から55番目に名前があります。見えないか。笑)
2014年の走り納め、自分の走りを改めて振り返ってみて、色々反省すべき点、改善すべき点、今の自分に足りないものが何なのかが見えたような気がする。2013年の自分より、少しは越えられた、かな?これを2015年に繋げられるよう頑張ります。
それにしても噂通りの高いホスピタリティ。リピーターが多いのも頷ける大会だった。
島南部全体を挙げて大会を盛り上げるという機運は、是非とも他の地域(というか暗に地元・弘前市のことを指しているんだけど)でも見倣っていただきたいぐらいだ。
このコース、また走りたいなぁ。またいつか、来られるかなぁ…。
—
余談ではありますが、終わった後のおもてなしも凄いんですね。その日の夜、せっかくなので妻と沖縄料理でも食べようってことで入った店で、帰り際にお店の人から「ひょっとして、NAHAマラソン走られたの?」と聞かれたので、「はい、そうです!」と答えたら、「これ、あげる。持ってって。」と、ストラップを頂きました。
まあ、別にマラソンとは何の関係もないストラップですけど、こういうお店の配慮といいましょうかおもてなしが、あちらこちらであるんですね。(空港内の某ショップでも、NAHAマラソン参加者に対する同様のサービスが提供されていました。)
本島南部ではNAHAマラソンが一つのお祭りみたいに捉えられているみたいで、こういう「ゆいまーる」精神が根付いている大会って、全国探してもなかなかないんだろうな、と思いました。
最後に、NAHAマラソン協会実施本部からのアナウンス。
第30回NAHAマラソンは、7日午前9時にプロボクシング元世界王者でタレントの具志堅用高さんと城間幹子大会長(那覇市長)のつく万国津梁之鐘で26,905名がスタートし、午後3時15分の制限時間までにゴールしたのは20,029名、完走率は74.44%となりました。
沿道で熱い声援を送って下さったり、また長時間の交通規制にご協力下さいました、那覇市、南風原町、八重瀬町、糸満市、豊見城市のコース沿道にお住まい、お勤めの方々、そしてそのほか多くの皆様にご協力頂き、誠に感謝しております。改めて御礼申し上げます。
ジョガーをはじめ、応援の皆さん、ボランティア、大会関係者ほか多くの方々のご協力誠にありがとうございました。
-NAHAマラソン協会実施本部-