月別アーカイブ: 2014年12月

2014年に感謝

優雅に振り返る間もなく、2014年が幕を閉じようとしています。
今年は実にいい年でした…のハズですが、ご存じの方もおられるとおり、28日の夜に青森市内の路上で転倒、DDTよろしく額を地面に強打し、7針を縫うという憂き目に遭いました。

DDT
(こんな感じで地面に刺さりました)

まあ、今年一年のチャカシッぷりといいましょうか、浮き足立っていた自分を象徴する出来事だったのかな、と。少しずれると眼球強打で一歩間違うと失明でしたので、そうならなかっただけでもヨシとしなければなりません。

ちょうどその日の午後に年賀状を投函したばかりで、今年一番のハイライトを皆さんにお年賀でお知らせすることができないのが非常に悔やまれます。

ということで2014年、最後の最後に大きな戒めが待ち受けていましたが、2015年はより一層慎重かつ大胆に行動したいと思います。

皆さま、本当にありがとうございました。2015年もどうぞよろしくお願いします。

世の中には、繰り返さなくてもよい歴史がたくさんある。

僕の中では今年一番の衝撃だった、平川市の選挙違反事件。この事件は青森県に暗い影を落とすこととなったし、「津軽選挙」という悪しき風土が未だに根強く残っていたことを裏付けるとともに、平川市はもちろんその周辺地域に対する心証を地の底まで叩き落とすこととなった。

<平川市長選違反>倫理観欠如に裁判官あきれ(河北新報 12月26日(金))

芋づる式に次々と議員が逮捕されていく様を見て呆れ、未だにこういう人たちがいたということにも呆れ…。対岸の火事と思って見てはいたものの、正直ここまで来ると被告たちに対して、怒りを通り越した情けなさや憐れみを覚えるようになった。恥の上塗り、とはこの人たちのことを言うのだろう。


今から十数年前、社会人の身分ながら、僕が弘前大学大学院に籍を置いていた頃の話。

主に行政法の教授の下でいろいろ学びながら、一方で、社会学のフィードワークの一環として某自治体に聞き取り調査に入ったことがあった。その内容はのちに、「リーダー生成過程としての選挙と地域づくりの展開」というタイトルで弘前大学の人文社会論叢(社会科学篇)に掲載され、更に再構成されたものが「津軽、近代化のダイナミズム―社会学・社会心理学・人類学からの接近」という書籍に掲載された。

この時実は、「津軽選挙」の風土がとことん根付いていた(と考えられていた)N村への潜入調査を試みようとしたのだが、共同作業を行った准教授が既にこの地で先行調査を行っており、村内ではちょっと知られた存在であること、そして何よりも僕の父の出身地ということで僕や父の身に危険が生じても困るということから、この村への潜入調査を諦めた、という経緯がある。

この村では、選挙(特に村長選挙)が始まると、村を二分するような騒ぎとなり、お互い違う候補を応援しなければならないという事情から、家の中ですら険悪な空気に包まれることや、ウソかホントか知らないが、飲ませる食わせるはもちろん、お帰りの際の「お土産」は当たり前、選挙直前になると、双方の陣営がスパイのように暗躍するといった話を聞いたことがある。特に、津軽の水瓶とも言われる大規模な工事を抱え、それもこれも全てはその工事を巡る利権争い、勝てば官軍負ければ賊軍といった有様で、負けた候補者を応援した者には、次の選挙までの4年間、村からの仕事が一切来なくなるといったこともあったようだ。そんな村役場の職員だった伯父も、その渦中で振り回され続けたということを、今だから明かそう。

結局、やむなく他の自治体での潜入調査を行い、その過程において、行政のトップがどういった経緯で選出されていったかを探っていったのだが、これがまた「津軽選挙」の片鱗に触れる実に興味深い内容だった。
例えば、「ちくわやおにぎりの中にお札が入っていた」ことや、「A陣営が5,000円を配ると、直後にB陣営は10,000円を配り、その際、A陣営の5,000円と交換する(つまりA陣営の賄賂を同額でB陣営にすり替える)」ことなどが頻繁にあったらしい。

一番興味深かったのは、高い投票率だった。選挙ともなると、「出稼ぎのため県外にいた連中がみんな戻ってくる」ぐらいの騒ぎ。いわば一種の「お祭り」か「娯楽」の一つと捉えられていたのだろうか。小さな自治体とはいえ毎回95%を超える高い投票率は、「普通ではない何か」がそこで起こっていたことを感ぜずにはいられなかった。


あの調査から十数年が経った。僕が調査した自治体は、市町村合併によってなくなった。
一方、選挙にエネルギーを注いでいた人たち(つまり、何らかの利権を求めていた人たち)の高齢化が進んだこともあってだろうか、N村では無風選挙が続くようになった。
そしてこの間に、市議を務めていた父が亡くなり、共同執筆した教官の方々も青森県を離れた。

この状況を見て、父は一体どんな思いを馳せていることだろう。一緒に研究に携わった院生の皆さん、そして教官の方々は、この状況をどんな目で見つめていたことだろう。

来年4月には統一地方選挙が待ち構える。
僕は今のところ選挙に出馬する予定はないが、将来のためにも、今回のことを他山の石と捉えたいと思う(爆)。

投票箱

最後に、よほど神奈川県というところが都会過ぎるのか、青森県をとことんコケにしたブログ記事を紹介。
ま、僕みたいに青森県以外のところで生活したことのない人には、何を言っているのかよくわかりませんが。
もっとも、批判するのは勝手だけど、卑下する相手マヂガッチュンデネガ。

http://gudachan.hatenablog.com/entry/2014/07/21/114806

マラソンに関する来年の目標

来年の話をすると鬼が笑うらしいですが、今年のマラソンも一通り幕を下ろし、2014年は総括してもいいのかな、とふと思いまして。

昨年の10月にマラソンランナー(フルマラソン完走者)の仲間入りを果たした私、すっかりその楽しさに魅了されてしまいまして、今年は北は北海道南は沖縄合間に北東北と、4度フルマラソンに挑戦しました。そして、今年のマラソンでの目標の一つに「フルマラソンでのサブ3.5(3時間30分切り)」を掲げて走り続けた2014年。

5月の花巻で、ハーフマラソンの自己ベストを2分縮め、(ようやく)94分台に突入、そして、9月の田沢湖マラソンでは、フルマラソンで3時間29分を数秒切って、自己ベストを5分更新、そしてサブ3.5という今年の目標を達成。更に同じ9月には、3年ぶりに参戦した10キロマラソン(実は150m距離が短いんですが)で41分台を叩き出し、こちらも自己ベストを3分更新。
着実に記録が伸びてはいるものの、劇的な伸び、とまでは行かなかったのも事実。

まあ、原因は何となくわかっているんです。メリハリのない練習方法で、楽することばかり考えて練習を繰り返していたからに尽きるんです。フルマラソンの経験も満足にしていないのに、まるで達観したか、あるいは悟りの一つでも開いたのか、というぐらい悠長に構え過ぎていたため、周囲の皆さんにどんどん追い越され、そして置いて行かれてしまった、これが今の僕の現状といっても過言ではないと思います。

でもね、時々思うんです。考えてみると僕って凄い恵まれたランナーだな、と。

201208firstrun
(初めて練習に参加した時の画像)

2012年の7月にTキャプテンから今のクラブに誘われて、8月に初めて練習に参加してみて、仲間と一緒に走ることの楽しみを知り、その2か月後に初めてハーフマラソンを走って、その1年後にフルマラソンを完走することができて、それもサブ3.5に手が届きそうなタイムで好走して、更にそれから1年足らずでサブ3.5を達成して。

初めてフルマラソンを走ってからたった1年足らずで、それも3度目の大会で、サブ3.5達成ですよ。これって結構、凄いことなんじゃないですか?…あ、そんなことない?

僕がジョギングから走り始めた頃の事情を知っている友だちに言わせると「最初走り始めた時の目的と今の目的が変わってるじゃん。」と笑われるんですけどね、健康維持のために走るという当初の目的は、今も変わっていないんですね。それに付随して、距離やタイムを求めるようになったというか、言わばどこまで自分が進化できるか、見てみたいという興味本位みたいな感じでしょうか。
切磋琢磨できる仲間がいて、しかもみんなそれぞれ結果を出して、きっと来年はもっとみんな凄いことになっているんだろうなあ、って考えただけでも、今からワクワクしちゃいます。
だから、僕も現状に満足なんかしていられないワケですよ。

2015年はもっと速くなりますよ。もっと強くなりますよ。コンスタントにサブ3.5、ハーフは90分を狙うぐらいの意気込みで行きますよ。
年が明けるとすぐに44歳になるんですけどね、まあ見ててください。2014年より更に進化しますから。進化するのは額じゃなくて、脚の方ね。

これまでも好き勝手なことを放言してきましたが、、こうやって記事にして自分の目標を公にすることで、自分自身を追い詰めるというか鼓舞するというか。ブログってこういうときに便利ですね(笑)。

2015年の目標は、より高く。
フルマラソンはサブ3.15(3時間15分切り)。
ハーフマラソンはサブ90(90分切り)。
そして、健康診断はオールA!(←これ、とっても重要)

太陽と海とジョガーの祭典「第30回NAHAマラソン」に参加してきました。

青森市役所と弘前市役所の間は、国道7号線経由で41.8キロほどの距離がある。
ほぼフルマラソンと同じ距離になるが、誰もこの距離を自分の足で走ろうなんてことは考えないし、実際走る人はほとんどいないはずだ。
ところが、もしこれが「マラソン大会です」となった途端、きっと各地からこぞって人が集まることだろう。
マラソンとは、つくづく不思議な競技である。

体力、精神力、持久力、技術力、知力、そして能力…人間の持つ全ての「力」を試されるマラソン。
一番強い自分、一番格好いい自分、一番イヤな自分、一番弱い自分…そんな、今まで気づかなかった「己」を垣間見ることのできるスポーツでもある。

僕は、2013年の10月に初めてフルマラソンを完走したばかりの、経験の少ないペーペーのランナーだ。
もっと速くなりたい、そのためにもっと強くなりたいといった向上心を胸に秘め、二つの目標を定めて2014年を迎えた。
一つは、昨年の自分より進化を遂げること。(これは恐らく、死ぬまで一生の目標になりそうな気がしている。)
もう一つは、フルマラソンに出場する時は、常に自己ベストを目指すこと。それは、時間だけではなく、走りの内容も含めたベストの状態を目指す、ということだ。

この二つの目標を掲げて臨んだ2014年。結果、フルマラソンを走る機会を4度得ることができた。
北海道、田沢湖、地元の弘前・白神、そして今回の沖縄・NAHA。
2014年の最終レース、今回初めてエントリーしたNAHAマラソンは、人生5度目のフルマラソン。今年は北海道と沖縄のマラソンを走ることになる。

さて、12月5日(金)は普通に仕事を終え、その日の最終便で青森を発ち、羽田で一泊、翌6日(土)の始発便で沖縄入り。
夏の沖縄訪問は妻と僕にとって毎年の恒例行事となっているが、冬の沖縄は初めてだった。
青森との温度差は約20度。一体どんな格好で向かえばいいのかわからぬまま、とりあえず薄手のパーカーを羽織って沖縄那覇行きの便に搭乗してみたが、他の乗客をみると、すっかり冬の装いだった。
そしてもう一つ。
僕同様、NAHAマラソンに出場すると思しき方が、大勢搭乗していた。言わば「同志」の皆さんだ。

前日の夜あまり眠れなかったため、機上で眠りに就く予定だったのだが、思った以上に気分が昂揚していたらしく、ほとんど眠れなかった。
そして、9時30分に約5か月ぶりの沖縄入りを果たした僕と妻を待っていたのは、沖縄とは思えないぐらいの冷たい風だった。

一方その頃青森では、12月初旬としては考えられないぐらいの大雪に見舞われ、青森空港発着の便に欠航が出ていることを知った。弘前からやってくるはずだった他の弘前公園RCのメンバー2名が青森空港で足止めを食らい、結果、沖縄入りが不可能となり、無念のDNSとなってしまった。

僕はといえば、那覇空港近くでレンタカーを借り、妻を連れ立ってコースの下見に向かった。
全く下見をせずに臨んだ北海道マラソンの時に痛感したのだが、コースを少しでも知っているだけでも、気分的に全然違うということ。特にNAHAマラソンは決して楽なコースではなく、むしろかなりランナー(ちなみにNAHAマラソンではジョガーというようです)泣かせのコースだということを事前に聞いていたため、下見だけは絶対にしようと決めていた。

なるほど確かにコースを車で走ってみて感じたことが一つ。

以前から聞いていたけど、このコースで自己ベスト(PB)を狙うのは、無理だな…。

前述のとおり僕個人としては、どんな大会であろうと、どんなコースであろうと常に自己ベストを狙うという意識だけは心のどこかに持っているので、それがNAHAマラソンであろうとも一緒だった。

コース全体の高低差は約100メートル。しかし、スタートから20キロ過ぎまではほぼ上り基調。ただし、単純に上るだけではなく、上って下ってまた上って下ってという細やかなアップダウンが続き、その合間合間に比較的距離のある、あるいは若干勾配がきつめの上り坂があって、特に19キロから20キロ付近までダラダラと続く上り坂が、かなりきつそうな感じだった。
ポイントとなりそうな上り坂は、7キロ、10キロ、12キロ、19キロ付近。

そして、20キロ付近から一気に坂を下り、そのまま中間地点の平和祈念公園へ。ここから28キロぐらいまではずっと下り基調。ただ、調子に乗ってペースを上げると、30キロから40キロ付近まで続く平地で絶対にやられてしまうな、と感じだ。
端的に言うならば、スタートから20キロまでは上って、そこから30キロまで下って、その後に続く平坦なコースまで余力を残さないと、といった印象だった。
まあ、PBは無理かも知れないけれど、それを目指せるような気持ちで明日を迎えよう…と、いつになく穏やかな気持ちで、受付会場である沖縄県武道館へ。

受付会場に到着するなり、その行列の長さに卒倒しそうになった。長さというよりも、これだけ多くのランナーがエントリーしていることに対する驚き、といった方がいいだろうか。東京マラソンが始まる前までは、日本最大級のマラソン大会だったというだけある。

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しかしながら、果てしなく続く列の最後尾にようやく並ぶと、そこからは特に混乱もなく、まるでベルトコンベアが流れるようにどんどん列が進んでいく。結局20分程度で受付けを終えたが、その後もなお、行列は延々と続いていた。

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その後は、妻とともに色々見ておきたいところへ。正直、前夜あまり眠れなかったこともあり、睡魔がピークに達していたが、これも今晩解消されることだろうと、妙に気持ちは落ち着いていた。
まあ、この間に色々あった出来事、例えば沖縄那覇空港に向かう飛行機の搭乗口と座席番号が1並びだったこととか、宿泊したホテルの部屋が444だったこととか、そんな些細なことが僕のモチベーションをずっと高めてくれた。

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いつもであれば沖縄の夜を堪能すべく、オリオンビールだ海ぶどうだラフテーだと喜び勇んで繰り出すところだが、何せ大会前夜。この日はアルコールもカフェインも避け、地元の有名な食堂でおとなしく夕食を済ませた。

10時過ぎに就寝したが、緊張か興奮か、それとも早くもアドレナリンの放出が始まったのか、なかなか寝付けぬまま翌朝を迎えた。

普段は7時からだというホテルの朝食会場も、この日ばかりはマラソンのため5時30分にオープン。朝食会場の前には、ランナーの方々が集まっていた。白米と豆腐におかずという、ごく普通の朝食を摂った後、部屋に戻って弘前から持参した切り餅7個を平らげ、OS-1を飲み干す。その他に豆乳、バナナと、口にどんどん放り込む。「マラソンは食べるスポーツだ」と誰かが言っていたような気がするが、スタートの9時から2時間前、7時頃まで僕はひたすら食べ続けた。

そして、着替えも何も持たず、既にいつでも走れる状態で、手にOS-1のゼリーだけを握りしめてホテルを出ようとしたとき、玄関で従業員に声を掛けられた。
「頑張って下さい。」と手渡されたのは、ミネラルウォーター。
こういうちょっとしたサービス、心配りが、これまで30年続いてきたNAHAマラソンの下支えとなってきたのだろう。
ホテルを出ると、空気がひんやりとしている。ゼッケンを装着した半袖にランパン姿の僕は、ちょっとだけ那覇の街の中で浮いていたようだった。そもそも、陸連登録の人たちのゼッケンナンバーは黄色。一般申込の人たちは白色。これだけでも十分浮いてしまう要素がある。
ホテルからの移動はモノレールを利用する。ホテルにほど近い牧志駅から乗り込み、壺川駅まで。しかし、たった2両しかない可愛いらしいモノレールの車内は、NAHAマラソンに向かうジョガーでごった返していた。
壺川駅で下車し、ゲートを目指す。僕のスタートはBブロック。AとBブロックには、陸連登録の黄色いゼッケンを付けたジョガーと、本気走りのジョガーしかおらず、その後CからJまでズラーーーッと約3万人近くの人が列をなすわけで。

ブロック別の入り口は厳重で、例えば後列のブロックの輩が前のブロックに忍び込もうとしても、無理。(まあ、そんなことをするヤツは自滅するのがオチなので、勝手にやっていればいいんだけど。)
ただし、A・Bのブロックの人数が凄く少ないので、スタート時のストレスを感じることはほとんどなさそう。(実際、スタートの鐘が鳴らされてからスタートのラインを踏むまで17秒しかかからなかった。)

さて、8時30分を過ぎ、奥武山公園内の集合場所からスタート地点である国道58号の「旭橋」交差点へとゆっくり移動が始まった。Aブロックの移動に続き、Bブロックの移動が始まる。誰かが押すわけでもなく、誰かが割り込むわけでもなく、静かにスタート地点に向かう。

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(Aブロックのジョガーが進むのを待つBブロックのジョガーたち)

…と、ここでアクシデントが発生。何を思ったのか前のAブロックの選手達がスタートラインを越えてしまったため、スタート地点までバック。

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(右側にあるのがスタートライン。招待選手やAブロックのジョガーが大きくこのラインを超えてしまった。)

しかしここでも大きなアクシデントはなく、むしろたまたま近くにいた見ず知らずのジョガーの人たちと会話するきっかけを得た、そんな感じだった(ちなみに地元のジョガーの方々で、僕が青森から来たことを聞いてビックリしてました)。

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(橋の上に引き戻されたBブロックのジョガーたち)

スタートは、那覇市長と、沖縄県ゆかりの人が万国津梁之鐘を鳴らすというもの。今回のスターターは、前日レンタカーを借りる時に「明日のスターター、MAXらしいよ!」と聞いていたが、それは去年の話。
今年は、具志堅用高だった。事前に聞いていた情報(スターターが右にいること、スタートした後右折するが、比較的右寄りが空いていること、など)を頼りに、最初は右寄りに位置していたので、スターターの動きがハッキリ見えた。
そしていよいよ9時に鐘が鳴らされ、スタート。42.195キロの一人旅が始まった。
前述のとおりかなり前からのスタートだったので、思った以上にロスがなく、すぐに自分のペースに乗せることができた。

今回の作戦は、
・30キロまでなるべく体力を温存し、そこから先をゆっくりでもいいので走りきる。
・上りでは無理をせず、下りでは飛ばしすぎない。
・補給、特に塩分補給をこまめに行う。

というものだった。天気予報では曇り時々晴れで、日中の最高気温は21度と、絶好のコンディション。
ただし、冬の沖縄でも日差しが思った以上に強いので警戒しなければならない。しかも、前日のような強い北寄りの風が吹くと、30キロ以降が相当辛くなる。
最初の5キロを24分04秒と、当初の予定より若干遅めで通過。まあ、先は長いし、この先上り坂が待ち受けるから無理はするまい…。上りは無理をするまい、という作戦通りである。
最初のキモと考えていた7キロ地点付近の上りを終えると、NAHAマラソン恒例の「YMCA」ポイントが待ち受ける。大音量で「ヤングマン」を流し、ジョガーたちが音楽に合わせて一斉に手を挙げ、あのYMCAの振り付けをしつつ走っていく。前の人たちが手を挙げながら走る姿は、なかなか滑稽というか不思議な光景だ。
…では引き続き僕も、と構えたところで音楽が終わった(笑)。
しかし、「さあ、残り35キロだぁ!頑張るぞ-!」というマイクでの声援に対し、その場に居合わせたほぼ全てのジョガーが「おー!」と応えるといった感じで、テンションが上がるわけですよ。何か、凄く楽しいかも!

沿道の応援は、スタートからほぼ途切れることなくずーっと続いている。手に飴を持っている人、私設エイドを出している人は当たり前。唯一応援が切れたのは、10キロ付近。南風原道路の高架下の横にある牛小屋の前に看板が立っていて「妊娠している牛がいますので、鳴り物や大声での応援はご遠慮願います。」みたいなことが書かれてあった。
この区間を除いては、ほぼ全てのコースで地元の方々からの暖かい声援を受けることができる。
子どもたちとハイタッチを交わしたところ、やたらと力を入れて返して来られたため、申し訳ないけれどそこからハイタッチを控えることにした。
バンド演奏や太鼓を打ち鳴らしてのエイサーなど、至るところで色んな形の応援がされているため、それを見ているだけでも飽きない。

さてさて僕はといえば、上り基調にも関わらず10キロを47分40秒、15キロを1時間11分46秒と、まずまず良い感じでペースを刻んでいる。前日たじろいだ上り坂もそれほど苦痛ではなく、息を切らすことなく淡々と走っていた。特に今回は上半身、その中でも腕の振りを意識して走っていたので、下半身は機械的に動かしていたような感じだった。
多分、この意識付けがゴールまで続けば、それなりにいいタイムも出るのだろう。

コース上に何か所か給水ポイントは設けられてはいるのだが、それ以外にも私設エイドがたくさんあるため、どれが給水ポイントなのかはまったくわからない。律儀に全ての私設エイドの給水を受け取る人、ハイタッチになるべく応えようとする人など、走り方もさまざま。背後からは、ショッカーの声(イー!というあの声)がひっきりなしに聞こえて来るのだが、後ろを振り返るのも癪だったので、そのまま走り続けていた。

そして19キロ過ぎの長い上り坂。さすがに呼吸が荒くなってしまったが、これで一番きつい上りは終了。パッと視界の先に、海が広がる。そこからの下りも、なるべくペースが上がらないように我慢しつつ歩を進めた。コースは中間ポイントの平和祈念公園へ。シャワーが設置されているが、誰もそれを浴びようとする人は、いない。20キロまでは1時間36分12秒、中間地点通過が1時間41分25秒、想定していたよりもちょっと遅れ始めている。
更にこの辺りから、右足裏の痛みを感じるようになった。また種子骨が悪さを始めたのかも知れない。しかも、右足のシューレースを少しきつく締めすぎたらしく、足の甲も痛み始める。そのことを気にし始めた結果、25キロ通過が2時間00分34秒と、下り基調にも関わらず、ペースがガクンと落ちた。そして、ひめゆりの塔付近で、例のショッカーに道を譲ることに。(結局そのまま後塵を拝することとなったが、ショッカーはゴールするまでずーっと「イー!」と叫びながら走り続けていたらしい。)

この辺りから、上半身の腕の振りのことを、忘れ始めていた。そして、キロ4分台をキープするはずのペースが5分台へと落ち込み始めた。
つまり、我慢ができなくなってしまったのだ。
前述のとおりマラソンというのは心技体+知のスポーツ。何か異変が発生した時に順応に対応できるぐらいの技量や精神力が求められる。いや、そうしないと自分の目標タイム通りゴールすることなど不可能といっても良いだろう。
練習不足だった、といえばそれまでだが、どうやら自分で思っていた以上に前半を頑張りすぎたらしく、そのツケがここに来て回ってきたらしい。とにかく、足の痛みが気になり始めて、フォームもかなり崩れていたようだ。
…が、それを修正するだけの心の余裕が、その時は既に損なわれつつあった。いつものことながら、またしても「楽をしたい」という思いが頭をよぎり始める。

フルマラソンの本当の折り返しは28キロと言われている。3分の2を走り終えてからが本番といっても過言ではない。ここから残りの14キロをどう走りきるか。しかし、その時点で僕の頭はちょっとしたパニックに陥っていた。こうなると、心技体+知もバラバラ。平坦なコースに入った28キロ過ぎで、遂に足が止まった。きつく締めすぎたシューレースをすぐに緩め、再びコースに戻る。
30キロ通過は2時間26分08秒。この時点で、5分10秒までペースが落ち込み始めていた。
糸満市内を抜ける旧道へ。沿道の声援がまた増え始める。そして、ここからいよいよ苦痛の時間が始まった。さほど暑くはないものの、日差しが若干強い。せめてもの救いは、思ったほど向かい風が強くなかったことか。

一つ大きな過ちを犯していたことに、気づいた。
というか、それまで気づかなかった僕がバカだった。
ここまでほとんど塩分の補給をしていなかったのだ!…と気づいた途端、急に右足のふくらはぎが疼き始める。
待て待て待て…我慢しろよ、我慢しろよ…。

我慢が限界を超えようとしていたのだが、33キロ地点を過ぎた当たりで、その時がやってきた。
ウホッ!脚が…!!
右足ふくらはぎの痙攣。
慌てて歩道に寄る。不幸中の幸いは、田沢湖の時とは違って両脚の痙攣ではなかったこと。そして、すぐに収まったこと。ピクンピクンとふくらはぎが脈を打つ。
近くに居合わせた人が持っていたコールドスプレーを脚に噴射し、何とか立て直す。しかし、これを一度やってしまうと更に気力を取り戻すのが大変。しかも残り8キロ以上もある。立ち止まりながら脚をほぐす。
そして、34キロ手前まで騙し騙し歩き走りを繰り返すと、オレンジ色のエイドが見えてきた。

あ…牛丼!

…そう、何と噂に聞いていた「吉野屋」のエイドを発見してしまったのだ。
思わず立ち止まり、牛丼を一つ頂く。はぁ…牛丼ってこんなに美味しかったっけ?というぐらい妙な感動。

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(紙コップに収まったミニサイズの牛丼。エイドなので、無料です。)

…よし、牛丼も食えたし、もう少し頑張ろう。(←単純)

34キロ地点。豊見城市役所前に並ぶ糸満高校の生徒達とハイタッチ。高校生は力ずくのハイタッチはしてこない。若い人たちのエネルギーを貰い、その後も走ったり歩いたりを繰り返す。
右足をかばっていたせいで、左足も痛み出すが、そんなことはもうどうでも良かった。
もうね…今日はこれでいいんだよ。

その後も続くエイドの誘惑に何とか耐えながら、35キロを2時間55分02秒で通過。この時点で、自己ベストどころかサブ3.5も無理だということを悟った。

走って歩いて立ち止まって、コールドスプレーを借りて、声援を送ってくれるおばちゃんに「ありがとう!」って目一杯の笑顔で応えて…。
そんなことを繰り返しているうちに、気がついたら40キロ地点手前までやってきていた。モノレールの赤嶺駅を通過した辺りで今一度立ち止まり、歩道で呼吸を整える。自転車に乗ったお兄ちゃんが、「残り2キロぐらいです。行けますよ。ガンバです。」と優しく励ましてくれる。
そうだ、あと二駅…。あと二駅で、ゴールが見えてくる。
心を落ち着かせながら言い聞かせる。最後ぐらい自分らしく走ろうじゃない。今年最後なんだしさ…。

「よし!ありがとう!」

お兄ちゃんの一言で、消えかかっていた心に再び油が注がれた。緩く続いた上り坂の先に、40キロの看板が見える。
40キロ通過は、3時間29分52秒。ちなみにここまでの5キロで、250人に追い抜かれていた。
最後の給水ポイントはスルー。何かに取り憑かれたかのように、ペースは全く上がっていないのだけれど、力を振り絞る。下り坂の先に奥武山公園駅が見えてきた。ゴールが近いことを意味する。スタートして5キロ以降はずーっと追い抜かれ続けてきたけど、せめてここだけは…と、脚も痛みも忘れて走り続ける。残り1キロ。3時間40分は切れるだろうか?そんなことが頭をよぎるが、時計に目をくれる余裕はない。走って走って、がむしゃらに走って、40キロからゴールまでの2.195キロで、40人近くを抜き去った。
競技場のトラックに入る。ようやく見えてきたゴールゲート。時計は3時間40分台を指している。ここまで来たら、タイムなんてどうでもよかった。沖縄のマラソンを、NAHAマラソンを、このコースを走ることができた喜びを噛みしめながら、ゴールを目指した。
ようやくゴールラインを越える。息を切らしながら身体をくるりと反転させ、コースに向かって深々と頭を下げる。そのまま両側にいる関係者の方々にも深々と頭を下げる。
沿道で応援してくれた皆さん、関係者の皆さん、ありがとうございました。僕もジョガーの仲間になれましたか?

すぐそばでゴールをした見ず知らずの人が、握手を求めてくる。お互いの完走を称え、言葉を交わす。
「お疲れさまでした!」
「ナイスランでした!」
その人が誰なのかは全くわからないけど、42.195キロを駆け抜けた同志と、同じ感動を味わえるのもマラソンの醍醐味だ。
ふと、脚の痛みを思い出し、フラフラになりながら思わず芝生の上にへたり込み、そのまま脚を放り投げた。
雲の間から顔を覗かせる太陽が、眩しかった。このコースを走り終えたという清々しさで、胸が一杯になっていた。
程なく、メール着信。妻からだった。

「出口付近で待ってます。」

…え?
僕のマラソンに一切興味を示さず、今日も一人でどこへ行こうか思案していたはずの妻が、出口で待ってる?
慌てて完走証を受け取り、絶対に欲しいと思っていた琉球ガラスの完走メダルを受け取る。
ボランティアの女子高校生に、オレンジ色に輝いた完走メダルを首からぶら下げてもらったその時、メダルに書かれた「ありがとう」の文字が目に入った。ほろっと涙がこみ上げてきた。

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出口付近というので、奥武山公園の外でレンタカーを停めて待っているのかと思いきや、妻は競技場に隣接しているサブグラウンドの中で待っていた。妻の顔を見た途端、また涙が出てきた。
僕がゴールする時間を見越して、ホテルからモノレールで競技場にやってきて、僕がゴールするのをカメラを構えて待っていたらしい。
ダメですね、最近めっきり涙腺が弱くなってしまった…。

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(妻が撮影してくれたゴール直前のシーン)

レース結果。
タイムは3時間40分27秒で、946位。まあ、タイムは平凡だった(と自分では思っている)けれど、ファンランナーが大勢を占めるとは言え、2万人以上参加の大会で1000番以内に入ることができただけでも、自分を褒め称えようと思う。しかも、そもそもエントリーの際の目標タイムを3時間40分として申告したことを考えると、誤差はたった27秒。これってかなり優秀なランナーじゃないか、ってね。

1207完走証

ちなみに翌日の地元紙「沖縄タイムス」には、上位1000位までの方の名前と記録が掲載されるんですね。(全記録は10日付けの朝刊別刷だそうです。)

1208okinawatimes

もちろん記念に迷うことなく購入。で、その記録を飛行機の中で見ながら気づいた。青森県からの参加者の多くが、恐らく雪の影響でDNSとなってしまったため、どうやら青森県勢トップだったようです(笑)。こんなタイムなのに、ホントすいません。

1208kekka
(最右列の下から55番目に名前があります。見えないか。笑)

2014年の走り納め、自分の走りを改めて振り返ってみて、色々反省すべき点、改善すべき点、今の自分に足りないものが何なのかが見えたような気がする。2013年の自分より、少しは越えられた、かな?これを2015年に繋げられるよう頑張ります。

それにしても噂通りの高いホスピタリティ。リピーターが多いのも頷ける大会だった。
島南部全体を挙げて大会を盛り上げるという機運は、是非とも他の地域(というか暗に地元・弘前市のことを指しているんだけど)でも見倣っていただきたいぐらいだ。
このコース、また走りたいなぁ。またいつか、来られるかなぁ…。

1207ゴール後


余談ではありますが、終わった後のおもてなしも凄いんですね。その日の夜、せっかくなので妻と沖縄料理でも食べようってことで入った店で、帰り際にお店の人から「ひょっとして、NAHAマラソン走られたの?」と聞かれたので、「はい、そうです!」と答えたら、「これ、あげる。持ってって。」と、ストラップを頂きました。

1207present

まあ、別にマラソンとは何の関係もないストラップですけど、こういうお店の配慮といいましょうかおもてなしが、あちらこちらであるんですね。(空港内の某ショップでも、NAHAマラソン参加者に対する同様のサービスが提供されていました。)
本島南部ではNAHAマラソンが一つのお祭りみたいに捉えられているみたいで、こういう「ゆいまーる」精神が根付いている大会って、全国探してもなかなかないんだろうな、と思いました。

最後に、NAHAマラソン協会実施本部からのアナウンス。

第30回NAHAマラソンは、7日午前9時にプロボクシング元世界王者でタレントの具志堅用高さんと城間幹子大会長(那覇市長)のつく万国津梁之鐘で26,905名がスタートし、午後3時15分の制限時間までにゴールしたのは20,029名、完走率は74.44%となりました。

沿道で熱い声援を送って下さったり、また長時間の交通規制にご協力下さいました、那覇市、南風原町、八重瀬町、糸満市、豊見城市のコース沿道にお住まい、お勤めの方々、そしてそのほか多くの皆様にご協力頂き、誠に感謝しております。改めて御礼申し上げます。
ジョガーをはじめ、応援の皆さん、ボランティア、大会関係者ほか多くの方々のご協力誠にありがとうございました。

-NAHAマラソン協会実施本部-

「弘前・白神アップルマラソン」ワークショップ開催の提案

「弘前・白神アップルマラソン」も第12回を迎え、干支でいうならば一回りしたことになります。僕はここ5年ほどしか参加していませんが、昨今のジョギング・ランニングブームもあって、市民ランナーが各地で増えるとともに、マラソン大会も全国各地で行われるようになりました。
しかしながらその一方で、大会の運営の難しさや警備上の問題など、色んな課題を抱えたままあっけなく幕を閉じてしまった大会があるのも事実です。
その点「弘前・白神アップルマラソン」は、回を重ねる毎に蓄積してきた運営のノウハウを発揮し、多くのランナーにも愛される大会となっています。

…でも、本当にそうでしょうか?

県内外のランナーはもとより、地元の人たちに本当に愛されているマラソン大会だと、胸を張って言えるでしょうか?

そのことを検証しつつ、今後の大会運営をより良いものにするとともに、地元の人たちも思わず応援に行きたくなるような、そんな大会にして頂きたく、ワークショップを開催することを提案します。

マカナエはアイディアを出してもその後どうするのかがないんだよね…と、ごく一部の方に言われないようにするための先手です(笑)。

(1)目的
「弘前・白神アップルマラソン」の今後の開催運営に当たり、弘前市民や周辺住民の機運を醸成するとともに、「弘前・白神アップルマラソン」による地域の活性化を図り、参加者及び一般住民の満足度の向上に資することを目的とします。

(2)日時及び場所:未定

(3)参加対象者
・16歳以上で弘前・白神アップルマラソンに参加したことのあるランナー(出場したカテゴリー、参加回数は問わない。)
・弘前・白神アップルマラソン実行委員会関係者
・一般市民(沿道の住民、飲食店経営者、商売を営んでいる方、活動団体、マラソンに全く興味のない方など) ←これ大事。

(4)ワークショップのテーマ:今後の弘前・白神アップルマラソンに期待すること

(5)実施方法:KJ法による。簡単な実施方法は以下のとおりですが、KJ法の具体的な実施方法はインターネット検索でたくさん出てきますので、そちらを参照して下さい。

KJ

1 参加者を8名(ランナー3名、実行委員2名、一般市民3名)程度のグループに分ける。
2 ブレインストーミング。大きめの付箋紙(できれば同じ色)を10枚程度各参加者に渡し、「今の」アップルマラソンに対して率直に感じていること(良いこと悪いこと直して欲しいことそのままであって欲しいこと等)を、付箋紙1枚に、文章ではなく、端的に1つ記載する。(一人何枚書いてもいいですが、できれば10枚ぐらいにとどめたいところです。)
3 記載した付箋紙を目の前に並べ、グループの中で1枚1枚内容を確認していく。具体的には、記載した本人がその内容について簡単に説明、模造紙に貼り付けていく。
4 その際、同じ又は類似の内容を記載した付箋紙を持っている他のメンバーは、その付箋紙の下に貼り合わせていく。(小項目のグルーピング)
5 3の作業が一通り終わったら、そのグループに名前を付ける。(色の違う付箋紙にグループ名を記載)
その際、グルーピングできず手元に残った付箋紙は、1枚の項目としてそのまま模造紙のどこかに残しておく。(無理にグループに一緒にしたり、捨てたりしない。)
6 5で残った1枚の項目を他の小項目と結びつけることができないか議論し、グループ化できそうなもので中グループを作る。どうしても結びつけることができない1枚の付箋(一匹狼)は、さいごまでそのまま残す。
7 5と6でできた小グループ、中グループを、その意味や関係性がわかるような配置で模造紙に並び替えていく。
8 その際、各ラベルの関連性や一匹狼が関与しそうなものを、近くにまとめておく。
9 それぞれの小グループ、中グループを更に親近性のある大きなグループにまとめて、タイトル(見出し)をつける。(そのままのグループで完結するものは、無理にまとめる必要なし)
10 グループ相互の関係を考えつつ、論理的な関連ができるように大グループを整理する。(中身の再整理ではなく、大グループ同士の配列や関連を考える。)
11 グループ間の関係を線や矢印で結ぶ。
例)「-」関連あり 「→」原因から結果 「←→」因果的 「→←」相反的 など。
12 大グループの中から、主要な順番に点数を付ける。
13 もっとも点数が高かったグループが、主要なテーマとなる。主題として模造紙の最上部に記載。右下には、グループに参加した人たちの氏名を記載。
14 各グループの発表は5分程度。発表はシンプルに、かつ面白く。思わず膝を叩いてしまうような発表が理想的です。

※実施にあたっての約束事
1 「批判はしない。」他人の意見に対する批判してはいけない。
2 「自由奔放で。」恥ずかしがらずに思ったことを意見としてどんどん提示する。
3 「質より量を。」最初の段階で理論立てした難しい内容は不要。パッと思いついた多くのアイディアをできるだけ出す。
4 「連想と結合」:他人の意見を聞いてそれに触発され、連想を働かせる。同調はもちろん、他人の意見に自分のアイディアを加えて新しい意見として述べるというのも一つやり方。

(6)コーディネーター(グループの進行役):弘前市役所職員?(ワークショップにおける中立性を保つため)

(7)用意するもの
マジック(できれば複数色)、付箋紙(メモ紙サイズ、色は3色程度)、模造紙、鉛筆

こんな感じで、どうでしょうかね?関係者の皆さま。(笑)
パクり模倣はご自由に。
他の色んな大会でも活用できるかもね。