月別アーカイブ: 2012年7月

ハナの脱走顛末記


うちのハナ。12歳のメス犬。
顔はそれなりに可愛いのだが、性格が最悪。いわゆる性悪女。人間だったら、絶対に付き合いたくないタイプだ(笑)。
そのハナが、この5日間にわたって脱走劇を繰り広げた。
これまでも幾度となく脱走を繰り返してはいたものの、これだけ長期間に及ぶ脱走は初めてだった。

事の発端は20日金曜日の朝。母を訪れた人が玄関を開けた隙に、ハナはこっそりと脱走したらしい。

僕が金曜日の夜に帰宅した際、家の外をうろつくハナを発見、「あ!脱走したな。」とすぐ気づいたが、まさかこんなに長期間にわたって戻ってこないとは、思いもしなかった。

脱走の伏線はあった。旅行だ結婚式だ天気が悪いだと、まともに散歩すらさせてもらえず、家から出ることのできないハナのストレスも相当溜まっていたことだろう。しかも、妹の結婚式の時は家人に構ってもらえないためかそれとも自分より目下を発見したか、犬嫌いの親戚にすり寄るという悪態をついて更にみんなから怒られ、時期同じくしてチョコが血生臭くなった(=生理期間突入)ことで、すっかり興奮してしまい、昼夜問わず落ち着かない素振りを見せる日々が続いていた。いわゆる「サカリがついた」状態だったのだ。

そういう意味においては、全面的にハナを責めるわけにはいかず、むしろ家人それぞれが自責の念に駆られていたわけで…。

21日土曜日(2日目)。
朝。いつもならとっくに帰って来て寝ているはずのハナの姿がない。これは、ひょっとしてまずいかも…と思い、Facebookを通じて公開捜査開始(皆様、本当にありがとうございます。)。

ハナのいない散歩。リードを持ち歩きながら「ハナ!ハナ!」と呼びかけてみるも、一向に気配がない。

これは相当遠くまで行ってしまったのではないか…保健所にも届けた方がいいのではないか。新聞に迷子犬の捜索願か。…いや、川に落ちた?車にはねられた?誰かが預かっている?

…色んなことが頭の中をグルグル駆け巡りながらも、用事を済ませて昼過ぎに妻と帰宅すると、何と家の前をハナがうろついていた。

「いた!よかった~!さぁ、ハナ、家に入ろう!」

妻が玄関を開けると、ハナはダラリとしっぽを下げ、家の前を素通りし、またそのまま脱走。

「もう!何なのさ!」
怒る妻。仕方ない、しばらく放って置くしかない…。

午後2時頃になると、疲れているのかそれとも日陰を欲しているのか、家の物干し台の下でハナが爆睡しているのを確認。
実は僕は、この時一番近くまでハナに接近したのだが、ここまで来ているのであればすぐに家に戻ってくるのだろうと勝手に思い込み、ハナを捕まえなかった。
これが、失敗だった…。

その後2度3度と場所を変えて昼寝をするハナ。心なしか少しずつ家から距離を取り始めている。家の周りにいることはわかったのだが、なかなか家に戻ろうとしない。
結局またしても姿が見えなくなり、脱走から二日目の夜を迎えてしまった…。

22日日曜日(3日目)。
朝から母がラジオを流しながら庭で草むしりをしている。こうなるとハナはきっと現れないだろう。
予想通り、日中の間ハナはまるっきり姿を見せなかった。
夕方になり、近所をジョギング。吐く息は「ハッハッ」ではなく、「ハナッハナッ」。
散歩コースを中心にくまなく6キロを走るが、ハナとは出くわすこともなく、結局家に戻ってきた。
身体を洗い流し、1本目のビールを飲んでいたところに、車のクラクションの音が鳴り響いた。
ん?ひょっとして!?
隣宅の広い駐車場の向こうを見ると、歩道のない狭い市道をテクテクと歩く1匹の犬。…そう、ハナだった。

思わず声が出る。
「ハナ!おいで!」

するとハナは立ち止まり、声のするこちらを見やる。しかし、声の主が僕だとわかったのだろう、再びしっぽをダラリと下げて逃走開始。その後、出かけていた妻も帰りがけに、近くでハナの姿を見かけたらしいのだが、妻の呼びかけにも応じることなくハナはまたしても逃走、結局この日も帰ってこなかった。

23日月曜日(4日目)。
留守中、先日嫁に行った妹がわざわざ自宅にやって来て、ハナが家の周りにいないか探したところ…
AM:隣宅の広い広い駐車場で、ハナがおしっこしているのを確認。「ハナ!」と名前を呼んだら、妹の顔を確認してから逃げたそうな。どうやらまだ走る元気はある。飢えてはいないらしい。
PM:またしても家の物干し台のそばで昼寝。そっと近づいたらすぐに感づいて、またしても逃げられたそうな。

そして夜22時近く。僕が帰宅すると、2軒隣の家の前、それも比較的車通りのある県道を、帰るあてもなく歩くハナの姿を発見。思わず車を停めて「ハナ!帰るよ!」と声を掛けると、またしてもこちらの顔を確認するなり逃げやがった…。

24日火曜日(5日目)。
天気予報に雨マーク。
一番恐れていた事態が遂にやってきた。ハナの大嫌いな雨。これで雷が鳴ろうものなら、もう最悪。きっとハナは見境なく駆け出し、家の場所がわからなくなるどころか、車にだって撥ねられてしまうかも知れない。
青森市内は午前中から雨が降り出した。ザーッという、通り雨のようなものだったが、それでも雨脚はそれなりに強かった。弘前市の状況が気になっていたが、やはり同じような雨が降ったようだ。

結局21時30分過ぎに帰宅したが、この日は誰もハナの姿を目撃しなかった。

母が呟く。「今日、ハナ見なかったね…。」

その夜。
午前2時頃だったと思うが、強い雨音で目が覚めた。
この雨を避けるため、ハナが軒下にいるかも知れない。…玄関をそっと開けてみると、ハナは目の前にある手入れのされていない藤棚の下で、必死に雨宿りをしようとしていた。

思わず声が出る。
「ハナ!もう帰ろう!」

ところが、また例のごとく僕を嘲笑うかのように、雨脚の強くなった暗闇に向かって駆け出してしまった。
でも、ひょっとしたら…。

僕の勘なんていうのはまるでアテにならないのだが、この調子だとハナは帰ってくるんじゃないかと思い、玄関を少しだけ開けたままにした。そして、普段よく眠っている仏壇の前の座布団、ここにたどり着けるように、動線を確保しておいた。
雨脚は弱まったり強まったり。ハナの気配は感じられないのだが、雨脚が強くなるたびにハッと目が覚める。

そんな感じで満足に睡眠を取れぬまま、気がつくと朝の5時を過ぎていた。
いつも通りシャワーを浴びて、玄


弘高応援団のこと


高校時代、僕は3年間を応援団員として過ごした。

…振り返ること30年以上も前。
根っからの野球好きの父に連れられて、父の母校であり、後に僕の母校ともなる弘前高校硬式野球部の応援に行ったこと数知れず。硬式野球部OBの父は、とにかく後輩の動向が気になるのか、あるいは先輩風を吹かせたかっただけなのか、時には弘前市小沢にある高校の野球場にも連れて行かれたし、室内練習場にも連れて行かれたこともあった。
もちろん父の思いとしては、是非僕に野球をやって欲しかったのだと思う。

その思いが余ってなのか、小学校に入学する頃までは、突然バットを握らされて素振りをさせられたり、僕の手には余るほどの大きさのグローブを持たされてキャッチボールをさせられたり(ちなみに僕が掴んだ球を投げると、決まって隣家の畑に飛んでいった)、とにかく野球に対しては「させられる」ことばかり。「楽しい」と思ったことが一度もなかった。

結局、どうしようもないぐらい運動音痴の僕は、走攻守全てにおいてスキルを全く持ち合わせていないことがハッキリとしたため、小学校に入学したあたりから父は、僕に野球を叩き込むことを諦めた(ちなみに今もバッティングセンターに行くと、間違いなく損をする自信がある。)。

しかしながら父はその後も、何らかの形で野球に関するスキルを身に付けさせようと思ったらしく、突然スコアブックを買いに行かされ、その夜テレビで中継されていた野球の試合を見ながら、箸ではなく鉛筆を持たされて、スコアブックの付け方を学ばされた、ということもあったが、結局それも僕の身にはならなかった。

さて、高校野球の応援に行くと、決まって奇妙な集団がいた。ボロボロの帽子を被った学生服姿の生徒。裸足に雪駄。更に、前に立っている人はゾンビか浮浪者か、と思いたくなるような汚い身なりに長髪を振り乱し、グラウンドに向かって何か大声を上げたり、奇妙な歌を絶叫していた。

妹と僕は、大して興味のない野球の応援よりも、その軍団の一挙手一投足を見て、笑っていた。

その軍団こそが、蛮カラスタイルの弘前高校応援団だった。
まさか自分が将来、その立場になるとは知らずに…。

高校1年の時、僕はくじ引きで応援団に選ばれた。断りを入れようと当時の担任に申し入れしたところ、「経験未経験は別として、決まったことについて責任を果たすというのも、大事なんじゃないか。」と逆に諭されてしまった。
正直、応援団だけはイヤだと思っていた。が、決まってしまったものは仕方がない。渋々応援団室に足を踏み入れると…。既に同学年の団員が1名。小学校時代は同じクラスで、中学校の時に応援団長を務めていたA木だった。彼が応援団に入団することはわかりきっていたし、逆に彼がいなければ、多分足が向かなかったことだろう。

部屋に足を踏み入れてしまったが最後、先輩方の大歓迎を受け、僕の応援団としての第一歩がスタートしてしまった。

応援団、とはいうものの、実際応援をするのは大半が硬式野球部ばかり。公式戦はもちろん、時には練習試合にまで出向いて応援するという徹底ぶりだったが、今思えば、あのおかげで足腰が鍛えられたのかも知れない。

時々父も応援にやってきたが、僕が応援団員として声を張り上げ、訳のわからない歌を唄っている姿をみて、まんざらでもなかったようだ。

父にたまに連れられてきた妹も、僕の姿を見て爆笑していたと記憶しているが、慣れというのは恐ろしいもので、最初は恥ずかしさもあったが、やがてその恥じらいも消え、誰がいようが特に臆することなく応援できるようになっていた。

応援団員として過ごしたこの3年間は、その後の僕の歩みにとって大きな礎となった、といっても過言ではない。実は、それぐらい重要なターニングポイントだったと確信している。

硬式野球のみならず、他の競技の応援に出向いたこともある。しかし、応援時の笛や太鼓の使用を禁ずる競技もあり、応援団にとって必須アイテムであるこれらを使えない応援は、もはや応援として呈をなしていなかった。それは恐らく、ルールを理解しないまま応援に行った、ということもあったからかも知れない。

3年の時には副団長の責を担うこととなり(というか3年次の応援団員は途中入団してきたもう一人を含め3名しかいなかったので、ある意味必然だった)、太鼓を叩く役割を担った。
余談ではあるが、応援団に初の女子団員が入団することを認めたのは、小学校からの腐れ縁、A木団長だ。
思い返せば後輩たちとは、今でも再会すると普通に慕ってもらっているが、当時はいじめ、とまでは行かなくとも、とんでもない悪さを連発していたような気がする。
穴があったら入りたいぐらいだ。本当に申し訳ない。

応援団として最後を迎えたのは、高校野球青森県大会、青森県営球場での試合だった(相手は確か青森戸山高校)。
接戦が予想され、いつも以上に気合いが入っていた。

同期の仲間の中には、文化祭を抜け出し、弘前市から約35キロ離れた県営球場まで自転車で応援にやって来た強者もいたし、珍しくブラスバンドを従えた熱い応援となった。

しかし…。

予想どおりの接戦の甲斐もなく、敗戦が決まった瞬間、スタンドからはああ~っという溜息が一斉に漏れた。A木団長が、崩れるようにしゃがみこんだ。僕も、力が抜けたようにガクンとうなだれた。

しかし感傷に浸る間もなく、次の試合が控えていたため、撤収作業を始めると、野球部のOBの方々が、僕をはじめ団員らにねぎらいの声を掛ける。

球場の外、号泣する野球部員と対照的に、僕らに涙はなかった。

実のところ、試合終了後は茫然自失であまり覚えていないのだけど、結局その日は、父が顧問の先生にお願いをして、僕だけ別の車で帰ったことだけは覚えている。僕にとっては、野球をやらなかった(やれなかった)分、後方から野球を応援するという形で、父にせめてものお返しができたのかな、とか思ってみたり。

…僕が卒業してから25年近くの月日が経った。時代は変わり、母校の応援団は存亡の危機にあるという。…いや、あんな古いスタイルの応援団なんて、もう存在しないのかも知れない。

次の日曜日、久し振りにベスト4をかけた母校の応援に(応援団の存亡の確認も含めて)行こうかと思ったが、残念ながら弘前聖愛高校に敗れてしまった。
でも、一時は6点差までリードを広げるなど、シード校を焦らせただけでも凄いと思う。
選手の皆さんお疲れさま。
母校の先輩


祖母の三十五日法要


海の日まで続いたこの三連休、我が家は慶事に法事と、文字通り東奔西走の大忙しだった。
とりわけ僕は、土曜日が妹の結婚式と披露宴、日曜日は妻の親戚の三十三回忌法要、更に月曜日は先月亡くなった祖母の忌明けの三十五日法要と、盆と正月が一緒に来たどころの騒ぎではないぐらい、ドタバタと駆けずり回った。
土曜日の結婚披露宴のお話しは昨日のブログでも紹介したとおり(皆さん、本当にありがとうございました。妹夫婦に代わり、私からも心から御礼申し上げます。)。

日曜日は、以前JR東日本のCMで吉永小百合さんが座禅を組むシーンが放映された際、撮影の舞台となった弘前市内の禅林街にある宗徳寺での法要。
これがまたいつ訪れても実に風情のある素晴らしいお寺で、本当にこのまま後世に残して欲しい、と思ってしまった。

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弘前市内のお寺、とりわけ33の寺院が建ち並ぶ禅林街では最近、改築ラッシュが続いており、古刹がどんどん姿を消しているのだ。
高齢化社会とともに、バリアフリーの名の下に機能重視を求めることもやむを得ないのかも知れないが、凛とした気持ちになれる昔からのお寺も、絶対に残さなければならないと、ふと思った。

さて、三連休最終日は、北秋田市で行われる祖母の法要。母は前日のうちに妹の結婚披露宴に参列した兄夫婦(僕にとっては伯父夫婦)とともに北秋田市入りしており、僕だけ翌朝一人で北秋田市へと向かった。
しかしこの日は、あいにく…という言葉からお釣りが来るぐらいの雨に見舞われた。

弘前市内も未明からかなり激しい雨が降っていたのだが、僕がちょうど出発した8時30分過ぎには小康状態に。

道中、時折激しい雨がフロントガラスを叩きつけるが、スコールのような降り方で、降っては止み、降っては止みを繰り返していた。道路情報を示す電光掲示板には、「大雨洪水警報発令中」の文字。取りあえず、青森と秋田の県境、矢立峠を越えたら雨が収束することを期待しよう。

矢立峠を越え秋田県内に入ると、国道7号は所々で改良工事が行われていて、片側通行になっている箇所もある。赤旗が振られ、車を停止させ、反対側からやってくる車を見ると、ライトを付けている車も多い。こっちも結構降っているんだろうか…と思ったその時。

まるでバケツをひっくり返したような雨が突然車体に打ち付けてきた。白い飛沫が飛び、路面との境がわからなくなっている。程なく緑の旗が振られ、ゆっくり進み出すも、あまりに凄い雨で前の車もスピードを上げるのを躊躇っている。
ようやく雨を抜け、大館市から北秋田市へと車を走らせたが、米代川に架かる橋上から川の様子を見ると、恐ろしいぐらいに川幅が広がり、茶色の濁流が中州をすっかり呑み込んでいた。

結局、予定より15分遅れで祖母の家に到着。
着くとすぐに、「お寺様を迎えに行って欲しい」とのお願い。これも想定の範囲内だった。車で約10分も離れていない菩提寺の「太平寺」に住職を迎えに行く。
このお寺もなかなかの古刹。別に僕は寺院マニアではないのだが、こういうお寺を見ると、何か心が落ち着く。

さて、忌明けまでは慶事は行わない方が良いという通説があるようだが、慶事は時間を掛けてゆっくりと準備を進める一方で、仏事は突然やってくるものだ。
祖母と同居していた伯父と従姉には躊躇いがあったようで、妹の結婚披露宴への出席を見合わせたが(曰く「線香のニオイを漂わせたまま慶事に出るわけには行かない」とのこと。これも一理ある。)、95歳の大往生を遂げた祖母が自分の不幸のために妹の披露宴を行うことを嫌がるはずもないだろう、という都合のいい解釈の下、予定どおり挙式を行った、というのが実のところだ。

そんな祖母の法要は11時から行われた。
僕が連れてきた副住職は、年齢の割には(40代後半だそうだ)読経が非常に上手で(今まで聞いた読経の中でも、僕は一番上手なんじゃないかと思っている)、歯切れに間合い、どれをとっても非の打ち所がなく、思わず聞き入ってしまう。特に、この副住職が上げる御詠歌は、本当にしみじみと心に沁みてくる。事実、僕の斜め前に座っていた母は、御詠歌を聞きながら祖母との思い出を蘇らせたらしく、何度も涙を拭っていた。

蒸し暑さの籠もる仏間で諸々約1時間、無事に法要が終わった。再び雨が降り始めていたが、(僕が立ち会えなかった)納骨を行った墓に出向き、祖母に花と水を手向け、手を合わせる。

帰宅すると、法要に参列した親戚が既に酒を酌み交わし始めていた。
葬儀後の会食ではほとんど話題にも上らなかった、祖母のあれこれの話に花が咲く。人の輪の中にいるのが大好きだった祖母。もしも妹の結婚披露宴に参列したならば、きっと亡父と同じぐらい喜んでいただろうな、とか思ったり…。

妹の披露宴の模様、取りあえず全ての衣装を着た写真をピックアップし、数枚持参。恐らくどこかで楽しみにしていただろう祖母の遺影の前に置き、しばらく妹の晴れ姿を祖母の目にも焼き付けてもらった。

その後親戚の人たちに写真を見せると、異口同音に「綺麗だ!可愛い!」といっていたが、何よりも驚いたのは、「育ちゃん(妹の愛称)、随分若いね!」と口々にしていたことだった。

…おい、妹よ。見た目より若いっていわれたの、いつ以来だ?(笑)

さて、これで慶弔ともに一区切りついたようだ。

そういえば、妹の結婚式の翌日に父方の兄妹が自宅に立ち寄ってくれたんだけど、その時に一番下の叔母さんが放った一言が凄く気になった。
「そういえばのんちゃん(僕のこと)さぁ、結婚式の時に思ったんだけどさ、今までひろちゃん(うちの亡父、宏のこと)に全然似てないと思ったけど、何か急に似てきててビックリしたわ…。」

何を指してのことなのかわからないので返事に困ったが、取りあえず「え?ガニ股になったってこと?」とだけ言っておいた。

似てきたのかな…。