月別アーカイブ: 2011年2月

春の到来、かな?


春の到来を告げるイベント、東京マラソンが今年も行われました。猫ひろしのタレントとは思えない驚異的なタイムにもビックリしましたが、日本人男性のトップは学生選抜で箱根駅伝にも出場したことのある埼玉県庁の方でした。おめでとうございます。
私も数年前から体力の維持とダイエット(体脂肪の減少)のために週末限定のなんちゃってランナーを気取っていますが、昨年は出張がてら遂に皇居デビューも果たしたあげく、弘前市で行われたアップルマラソン10キロの部に10年ぶりに出場し、自己新の記録を残す事が出来ました。
冬場は歩道をはじめ路面にも雪が残るため、せいぜい散歩程度に留めていたのですが、だいぶ路面の雪も融け始め、意を決して今日、久しぶりに外を走ってきました。これまでのnike+に加えて今期から新たにnike+ gpsをiPod touchにインストール、その試運転を兼ねたものでした。雪が融けたとはいえ、一部の歩道にはまだ雪が残っていて、走りやすいというには程遠い路面状態でした。ついでにいえばnike+ gpsの走行距離がかなり甘く計測されていて、実走距離より1キロ近く多めになっていました。
今年の目標はコンスタントに10キロ走ること、アップルマラソンで10キロ・40歳以上の部で20位以内に入ることにしておきましょう。
願わくばハーフマラソン、といきたいところですが、まだ今期走り始めということでそこまでは考えないことにします。
いつかホノルルではなく、サイパンのマラソンに出てみたいものですね。


手紙


ひょんなきっかけで約13年ぶりに再会することになった女性に向けて、自筆の手紙を書いた。

パソコンやケータイでのメールが席巻する中、キーボードで入力すれば何も汚い字じゃなくても綺麗に入力・印刷されるし、誤字脱字の確率も自筆と比べて格段に下がることだろう。
しかし、自筆でなければ伝わらない思いがあると、僕は確信している。

どういうわけか僕は、その女性と会うと決まった日から、自筆の手紙を書かなければならないという衝動に駆られていた。何故自筆に至ったかという経緯は胸に秘めておこうと思うが、その方と共通していることが一つだけ。

それは、この3年のうちに大事な人を失った、ということだ。

誤解を解くための弁明、というわけではないが、その女性とは約13年前、同じ職場で机を並べて仕事をしていたという関係にある。ちなみに年齢は、うちの亡き父と同い年だったと記憶している。

その後は、年賀状のやりとりだけの関係にあったのだが、いつも気に留めて頂いたようで、うちの父が突然亡くなった時、お心遣いをわざわざ職場に届けて下さった。

その1年後、今度はその方から欠礼の葉書を頂いたのだが、時機を逸してしまったという後ろめたさもあり、こちらからの心遣いは何もしないという非礼っぷりだった。

そのことがずっと心のわだかまりとして引っかかっていたところ、ご縁というのは不思議なもので、今の職場にその方の娘さんが勤務するようになった。

娘さんに聞いたところその方は、自宅で介護を続けていたお母様を亡くして憔悴しきっていたところに、(別居状態ではあったが)ご主人も亡くするという不幸が続いたとのこと。

こちらとしては何とか非礼を詫びるきっかけと、少しでも元気を取り戻して欲しいという思いだけで、直接お会いする機運を見計らっていた。

娘さんには「お母さんとデートさせろ(笑)。」としつこく迫っていたのだが、先般ご本人から直接電話を頂き、ようやくお目に掛かるきっかけを得た。

その方に宛てた手紙の内容は敢えて書く必要もないのかも知れないが、その方に対する励ましのつもりが、いつしか自分を奮い立たせる内容に変節してしまったような気がする。要約するとこんな感じだ。

・生き様はどうであれ、僕にとって父は生涯誇りであり続けること。
・人の死は無情であるが、同時に無常でもあること。
・人は生まれながらにしてやがて「肉体の死」を迎えるという唯一の「絶対」があること。
・いくら嘆き悲しもうとも、「肉体の死」を迎えた人たちが家の玄関をノックすることは二度と無いこと。
・しかしその一方で、その人たちが心のドアをノックすることはいつでもあるわけで、そのきっかけを与えるのは我々の思いにあるということ。
・他人からの「頑張れ」という励ましほど無責任でプレッシャーになる言葉はないということ。
・だから無理に頑張らない程度に適当に今の人生を楽しもう、ということ。

つい先ほど再会し、「家に帰ってから読んで下さいね。」と渡した手紙には、これまでの非礼を詫びるとともに、御霊前にお花を供えて頂くためのギフト券もこっそり忍ばせておいた。

手紙を書き始めて仕上がるまで約30分。何かが乗り移ったかのように、黙々と万年筆を走らせた。僕の心の中にあった思いは、汚い字に乗せて伝わっただろうか。伝わってくれればいいのだが。


自分のイヤなところ


自分の好きなところはどこですか?と聞かれると「うーん…」と唸ってしまうが、自分のイヤなところはどこですか?と聞かれると、枚挙に暇がないような気がする。

節目節目で迎える面接において、想定問答としては必須とも言うべき「自分の長所・短所」を考えたとき、結局自分を賞賛することへの抵抗(恥じらい)から、短所ばかりが浮かび上がってくるのと似たようなものだ。自己分析・自己表現ができるか、ということにも繋がるのだろうが、そういう意味でも僕はかなり自己分析・自己表現が劣っている、ということなのだろう。

先般の審議会の議事録起こしのため、ボイスレコーダーを再生したところ、自分の口調が強烈なぐらい父に似てきていることに気づいた。

と同時に、その審議会の場において一人だけ、自分でも赤面するぐらい訛りがきつくなっていることに気づいた。さらに、自分で確信が持てないところになると、どうしようもないぐらい早口でまくし立てている。

会議の場で説明するスピーカーとしては、最悪のモデル。これが宴会の司会になると急に滑舌が良くなるんだから、どうしようもない。

かれこれ40年、早口でわかりにくい、という批評はいろんなところで聞かされてきたので、昨今は電話でも打合せの場でも極力ゆっくり話しているつもりなのだが、気がつくとメトロノームのテンポがどんどん速くなっているらしい。

しかし何より自分のこの訛り具合にはちょっと衝撃を覚えた。そういえば妻と付き合い始めた当初、妻の友人がこぞって「のんべ君は訛りがきつい!」という事を言っていたことを聞いたことがある。それはそれでショックだったのだが、如何せん生活環境がそういう場所なんだから、こればかりはいくら矯正しようにも矯正することができないと割り切っていた。

しかし、さすがに仕事に就くようになってから気をつけるようにしていたのだが、改めて自分の話している口調を聞いてみると、僕の訛りは弘前市民としては結構キツい部類に入るのかも知れない。

まぁ、これを治すとすれば、僕の場合まず先に歯の治療をしなければならないような気がするんだけど…(謎)。

ところで皆さん、自分の好きなところ、長所、三つ挙げることができますか?
僕はやっぱり「うーん…。」でした(笑)。