日別アーカイブ: 2015-05-20

いろいろ諸々ありまして、はい。


5月の連休に突入しようかという金曜日の夕方、母と妻から連絡が入った。
「義父、危篤。」

義父は、昨年11月から食事が喉を通らなくなったということで市内の病院に入院していたことは知っていたのだが、「連休まで持たないかも知れない」と妻から聞かされたのが4月半ばのこと。まさかそんなに悪い状態になっていたとは知らなかったし、実際、同居していた義母もそれほど状態が深刻だとは思っていなかったらしい。事実、妻ですらそういった状態になっているとは思っておらず、実は入院以来一度も見舞いに行っていなかった。

宮古市に行く前日、4月16日の夜に慌てて見舞いに向かうと、11月以降ほとんど食事を摂ることができなくなってしまったという義父の身体はやせ細り、体重は30キロ程度まで落ちたそうだ。そういえば、4月から職場が変わったことすら教えていなかった。新しい名刺を渡すと義父は、嬉しそうにそれを眺め、か細くなった声で僕に言った。
「大変だな。頑張れ。」
いや、大変なのは僕より義父さんじゃないか…。この時ばかりは思わず涙が出そうになった。
それ以来、こまめに病院に顔を出すようにしていたが、日に日に「その日」が迫っていることを感ぜずにはいられなかった。


5月1日17時過ぎ。母と妻から相次いで届いた連絡に慌てて仕事を放り投げ、入院先である弘前市内の病院へタクシーで向かった。
まだ日の明るいうちに病室に駆け込むと、義父は穏やかな表情で僕を迎えた。
「忙しいのに悪いな。仕事は大丈夫なのか?」

傍らでは、妻と義妹が目を真っ赤に腫らしていた。義母が落胆した声で言った。
「義父さん、もういいんだって。疲れたんだって…。」
「義父さん、それは困るよ。もうちょっとだけ頑張ろうよ。」
病室に空虚な言葉が響いた。
その後も、義父と少しだけ会話を交わし、疲れても困るだろうから、と病室を後にした。何とも言えぬ思いが胸の中で大きな荒波に揉まれるように攪拌されていた。

結局その日を最後に義父とはまともに会話ができなくなり、それから5日後の未明、義父は無言の帰宅を果たした。1日の夕方に、義父が家族全員を呼び集めたのも、「その日」が近いことを悟ってのことだった。

僕自身、「その日」が近いことを覚悟していたし、仕事の上でもプライベートでもいろいろ予定をキャンセルすることはやむを得ないことと割り切っていた。もっとも、5日に予定していた岡村靖幸のコンサートにせよ10日に八戸市で行われた「うみねこマラソン」も、誰にも相談することなく僕一人で参加を決めたこと。何かあるときは一人で勝手に決めるなよ、という義父からのメッセージだったのかも知れない。4月26日のハーフマラソンで足を負傷したこともあり、そちらの練習はほぼ全くと言っていいほどできなかったが、そんなことにうつつを抜かしている場合じゃないぞ、という義父からの暗示だったのかも知れない。
結局今年のゴールデンウィークは、妻の実家で過ごす時間がとても長くなったけれど、残された女性陣だけでは手に負えない(判断しかねる)こともあったりして、今はこれで良かったんだと思っている。実際、何かあったら俺に任せるように、と義父が遺言を残していたらしいし。
ともあれひとまず無事に納骨を終え、今は少しずつ落ち着きを取り戻している。

…そんなことで、非常にバタバタした日々を過ごしていたところではありますが、徐々に元のペースに戻したいと思います…が、まずは職場環境に慣れ親しむのが先決。
正直、未だに浮いています、私。このままずっと浮遊し続けるのでしょうか…。