9日夜、弘前市内の野球関係者が集まり、父を偲ぶ会を開催してくれた。
会場の都合もあり、当日集まったのは約50名。錚々たる顔ぶれがずらりと並ぶ中、我々家族は一番高い席へと案内された。その前には、父の遺影がはにかんでいた。
発起人のM先生による挨拶の後、父が一番慕い、そして父を一番慕ったK先生が挨拶と献杯、ではなく乾杯の音頭を取った。K先生が敢えて献杯ではなく乾杯としたのは、「父が死んだとは思っていない」という思いからだという。既に同じテーブルに座る母、妻、そして妹は涙腺スイッチが壊れたようで、ハンカチが手放せない様子だった。僕はといえば、何かこの会場に父の姿がないことへの違和感と、父がいるのではないかという期待感から、終始ボーっとしながら話に耳を傾けていた。
乾杯の後、急遽家族を代表して挨拶することになった。マイクの前に立つと、たくさんの見覚えある顔ぶれがこちらを見ている。でも、父はいない。そのことが何だかとても不思議というか違和感があるというか、この場に父がいないことへの悔しさがこみ上げてきて、思わず言葉にならないほど号泣しそうになった。
ところがどうしたことか、一言挨拶したとたん、何かスゥッと力が抜けたような錯覚に襲われた。あとは勢いのまま、生前父が放った失言の数々を詫び、父がここにいるような気がすること、いや、ここにいるんだということ、父は死んだが、皆さんの心の中で生かして頂きたいということ、母が継続して事業を行うことなどを一通りお話しさせていただいた。
席に戻ると妻が「挨拶考えてたの?」と聞いてきた。こういう場面があることは織り込み済みだったので、多少は考えていたが、ほとんどは思いつきだ。
どうやら僕は、スラスラとまではいかないものの、かなりベラベラ話をしていたらしい。
ただ、社交辞令とは思うが「いい挨拶だった」というお褒めの言葉を何人かから頂いたので、それなりのことは話せたのだろう。実のところ、何を話したのかはあまり覚えていないのだ。
その後も、父と親交の深かった人たちが、父の功績を称えながら思い出話を語ってくれた。
県内で初開催となった日展のこと、高校時代の野球部のこと、選挙のこと、議員になってからの父のこと、…先輩や仲間が語る思い出話には、僕の知らない父がたくさん現れた。
恐らく、いろんな思いを馳せながら、父のことを思い出してくれたことだろう。
僕を除く家族はスピーチが始まるや終始ハンカチを握りしめている状態だったのだが、僕はどういう訳か、涙はほとんど流れなかった。
偲ぶ会が終わった後、父の遺影に近づき語りかける人、「マガ…」と呟いたまま放心状態の人、ひたすら手を合わせる人など、たくさんの人が今となっては無口になってしまった生前の父に哀悼を寄せていた。そしてその後、多くの人から声をかけられ、そのほとんどは、「がんばれ」「お母さんを大事にしろよ」という言葉ばかりだった。気遣って下さる言葉の一つ一つが胸に沁みた。乾杯の音頭を取ったK先生は、僕の手をぎゅっと握りしめ、「まだ、頑張るベシな…。」と言ったまま、目を伏せて黙り込んでしまった。
こんな憔悴したK先生を見たのは、初めてだった。これだけ大勢の方々が父のために集まってくれたこと、そして心の底から父の死を悼んでいることを改めて知り、知られざる父の偉大さ、そして父の背中には、もはやいつまで経っても届くことはできないことを思い知らされた。
気がつくと父が亡くなって8ヶ月が経った。
ようやく僕の中で、父の鎮魂、そして浄化が始まったようだ。