月別アーカイブ: 2024年3月

新たな始まりのための幕引き

怒涛の令和5年度が幕を下ろす。いや、ここ数年は毎年が怒涛だったかも知れない。
平穏無事に一年を過ごすことは理想ではあるけれど、無風の一年ほどつまらないこともないだろう。

僕の所属する課は、2つの課が同じ部屋に同居しており、仕切りもない。7年間に渡り、部屋の端から反対側へと向かって3度席替え(異動)してきた。そして令和6年4月からは、違う部屋にある課へ異動することが決まり、これで危機管理局内の執務室は、局次長室を除きすべて「制圧」することとなる(…といっても同じフロアに3つしかないが)。

2年前。災害対策本部、そしてコロナ対策本部を所管するグループのマネージャーから離れるとき、「少しは楽になるかな」と淡い期待を抱いたが、それは脆くも崩れ去った。事務職なのに、とある橋梁架替工事の業務を抱えることとなり、ルートの選定、構造の検討等を行った。1か月が経過した直後、大型連休が明ける頃には県内各地で相次いで林野火災が発生、その結果、防災航空隊との関係が強固となった。夏には大雨災害が発生し、県内消防の応援協定が初めて発動。
8名いたはずの職員が、色々な事情が重なって3名欠けることになり、人繰りに苦慮したことも。マネージャーとは名ばかりで、プレーヤーを兼務すること数知れず。この2年間、前職より楽だと思ったことは一度もなかった。

2022年、8年ぶりに青森県で開催された緊急消防援助隊北海道東北ブロック合同総合訓練に集結した、赤い車。

その一方で、本県での開催が8年ぶりとなるブロック訓練に当たったり、自分自身がコロナに感染したり、こっそり沖縄に行ってきたり、消防大学校で1週間自己研鑽に努めたりと、人生経験を積むきっかけも頂いたし、悪いことばかりではなかった。

役人人生も30年を過ぎれば、色々ある。
将来になって過去を振り返った時に、「いやあ、あの時は大変だったなあ」と笑えればいいけれど、この2年については笑えないことも色々あって、実のところ正直振り返ることができる自信がない(少なくとも今は振り返りたくない、ということだ)。

コロナ本部で対応した職員に配布された感謝状。この約2か月後にコロナ感染。

4月からは、同じ危機管理局内とはいえ、これまでとは全く異なる毛色の業務に従事する。
考えてみると47都道府県すべてで取り組んでいる業務ではなく、県内でもこの業務に従事するのは限られた自治体のみ。裏を返せば、選ばれた人しか従事できない業務だということも言えるわけで。

この年齢になれば、楽な仕事なんて一つもないんだから、置かれた状況を少し楽しむぐらいの気概を持って明日を迎えようと思う。

皆さま、令和6年度もよろしくお願いします。

2024.3.11

2011年4月某日。宮古市新里地区の宿営先で迎えた朝。

東日本大震災から13年。

10年ひと昔とは言うが、実際10年以上経過していく中で、忘れてしまったこと、忘れてはならないこと、色々あるだろう。

特に今年は元旦早々から能登半島地震が発生し、半島そして過疎地で起こる災害対応がいかに困難であるかという現実に直面したことは、大きな衝撃だった。

能登半島地震から3か月。

2024年初日に発生した大災害。連日にわたり被災地の様子が詳細に伝えられたのは約1か月間ぐらいだっただろうか。あとは、節目となる月初めに一気に増える報道と、毎日お昼のニュースで現地から伝えられる状況をちらりと見るぐらい。現地の情報は徐々に減っているような気がする(ただしそれは、いい方向にも捉えられるわけだけれど)。

もちろんそれでも、被災地は毎日、復旧・復興・再生に向けて必死に動き続けているはずだ。被災地に対して、頑張ろうとか頑張れとかいうのは、僕は禁句だと思ってる。所詮「頑張れ」なんて言葉は、他人事。みんなもう充分頑張り過ぎているんだから、もう頑張らなくていいよ、と声を掛けてあげたいけど、頑張らない代わりにお前は何をしてあげられるんだ?と言われると、返す言葉に詰まる。

能登半島地震から3か月。

「想定外だった。」

いつか災害が起こると頭の中ではわかっていても、人々にとっては、突然起こる災害そのものが想定外。「まさか」「うそだろ?」が現実に起こるということ、災害は時間も場所も選ばず発生するということを東日本大震災以降、何度も突き付けられた。誰も自分の身に災いが降りかかるなんて考えたくないですよね。でも、それが起きた時にどうするか。冷静さを保てるかといえば、全く自信がない。

東日本大震災から13年。

3.11に近づくと、防災に関する記事や報道がどんどん増える。「防災モード」「伝承モード」への切り替わり。もちろん伝えることは大切なこと。そして被災地に想いを馳せることも大切なこと。しかし3.12が過ぎると、再び何事もなかったかのように「平常モード」へと切り替わっていく。記録は残っていても、記憶は薄れていく。そうやって風化していくのが怖い。

東日本大震災から13年。

生まれたばかりの子供は、中学校に入学する。小学生だった子供は、社会人になる。あの時陣頭指揮を執っていた人たちは第一線から退き、後進に道を譲る。どこでどんな生活を送ろうとも、流れる時間はみな平等、同じ数だけ歳を重ねるのだ。

東日本大震災から13年。

東日本大震災の後も、各地で大きな地震が発生した。北海道胆振東部の時も、熊本地震の時も、そして能登半島地震でもだが、「東日本大震災の教訓は生かされたか?」という問いかけがなされる。

まるで教科書にでも書かれているような「東日本大震災の教訓」という言い回し。言うのは簡単だが、教訓って一体なんだ。被災していない外の人たちが、易々と口にしてもいいのだろうか。それを知っているのは、やはり東日本大震災の被災者に他ならないのではないか、と。

自然には逆らうな。自分の身は自分で守れ。過信するな。周りを気にせず、まずは逃れろ。

被災者でもない外野の一人として言えるのは、それぐらいしかないが、正しいかどうかはわからない。災害対応に関しては、本当に正解がわからない。

東日本大震災から13年の節目。

あの日のこと、覚えてる?覚えてるよね?忘れられないよね?忘れてないよね?あの時、こうしなければならない、ああしなければならないと、色々考えたよね?

どうですか。その思いに、今も変わりはありませんか。

東日本大震災から13年の節目。

…なんて偉そうなことを言っているけれど、じゃあお前はどうなんだ?と言われると、正直、言葉がない(だからこうやってつらつらと言い訳みたいな言葉を並べているわけで)。

そういえば、青森県庁北棟1階で毎年開催されるパネル展の紹介、そして、東京都汐留ジオサイトで開催されている「東日本大震災風化防止イベント ~復興・その先へ 2024~」を紹介することをすっかり忘れていた。パネル展、風化防止イベントともに本日(3/11)まで。イベントにおける青森DAY(3/9)の紹介を失念したことは痛恨の極みだが、最終日は岩手県DAYを開催しているので、お近くの皆さん、空き時間がありましたら足を運んでみてください。

東日本大震災から13年。そしてこれからも。

ということで、ちょっと辛辣な言葉も並べてしまったかも知れない。ここまで読んで気分を害したなら、それは本当にごめんなさい。

でも、もう一つ言わせて。
みんな平静を装っているけれど、誰にも言えない、言いたくない色んな闇を心の中に抱えながら生きている。

何も我慢する必要はない。

皆さん、時には人知れずそっと、時には人目も憚らず思い切り、涙を流してもいいんじゃないかと思います。

熊本地震で支援に入った益城町の名物「いきなり団子」がたまたま弘前で販売されていました。とても嬉しい。