災害は忘れたくともやってくる

以前は「災害は忘れた頃にやってくる」と言われていたが、最近は毎年のように大きな災害が発生し、いつどこでどんな災害が起きたかを忘れてしまうほど災害が多様化、そして激甚化している。

平成の災害史、いや、日本の災害史に名を残すこととなった東日本大震災から間もなく10年。いよいよ1か月を切った中で突然やってきた地震も、かなり強烈だった。

2月13日。僕はこの日、1月下旬から続いていた20連勤にようやく区切りを迎え、久し振りの休みを味わっていた。しばらく手を付けていなかった料理を作り、そして、久し振りに外を走った。

足取りも身体も重かったが、晴天の下で外の空気を吸うことが久し振りで、実に心地よかった。頭にのしかかっていた錘が取れ、帰宅する頃にはゼーゼーハーハーではあったが、何だか清々しい気分だった。

さあ、こうなるとビールが恋しくなる。宅飲みではあるが、自分でこしらえたスペアリブをつまみにしながら、黒ビールとドラフトビールを飲んだだけでは足りず、スピリッツ系の飲み物にも手を出していた。

結構な感じで酔っ払ったが、明日はまた午後から出勤しなければならない。
久し振りに走ったことで少し酒が回るのが早かったようだ。23時前には寝床に就こうとおもむろに支度を始めた。
数分後。職場のスマートフォンがけたたましく鳴った。激しいアラーム音。地震だ!

直後に家全体がミシミシと音を立て、ガタガタと揺れ始めた。結構強い。そして、長い…。
立て続けに地震発生を知らせるメールが何通も届く。更に、県内で震度4以上が観測されたときの自動配信の電話が鳴った。
職場に向かわなければならない。が、既に飲酒している状況下で、この時間では電車という選択肢もない。

「いいよ。私、青森まで送っていくよ。」

妻が言い放った一言に、救われる思いだった。青森市外の職員は自宅待機とのアナウンスがあったが、立場上、僕にそれが許されることではないことを悟っていた。
一瞬タクシーを使うことも頭をよぎったが、それでは自己負担があまりにも大きすぎる。
県内の最大震度は4。県内での被害は恐らくほとんどないだろう。
出勤するのは、北海道・東北ブロックの幹事県として、震度6強を観測した宮城県、福島県に対する応援が必要かどうかを検討する必要があったからだ。

23時半頃の外は気温が氷点下になっていたが、雪が降っておらず、2月の厳冬期にも関わらず、道路がほとんど乾いていたことは不幸中の幸いだった。
結局、職場に到着したのは0時40分頃で、ほとんどの課員が登庁を終えていた。さあ、長い一日が始まる、と思ったが、実際のところは既に初動体制が取られており、概ねすべきことには手が付けられていた。

偶然といえばそれまでだが、前日の12日、国民保護に係るテロ事案を想定した図上訓練を行ったばかりで、体制移行はもとより配置された職員の動きというか、情報収集等の体制がかなりスムーズだった。

結局、宮城県には山形県が、福島県には新潟県が情報連絡員を派遣することとなった。山形県は夜中に宮城県入りしたが、新潟県は福島県に向けて朝の出発となるとのこと。
そして、幹事県たる本県からも福島県へ先遣隊を送り込む準備が進められていた。ただ、東北道は福島県の白河ICから岩手県の平泉前沢ICまでの間が通行止めとなっていた。仮に福島県へ向けて出発しても、経路の約半分は一般道を通行しなければならないだろう。

この間、常磐道の土砂崩れに車が巻き込まれたとか、90代の女性が転倒して心肺停止で運ばれたとか、後に誤報と判明する情報がいくつか飛び込んできた。

震度6強が複数の市町村で観測され、震度5強以上も広範囲で観測されている。恐らく夜が明ければ亡くなった方や被害に遭われた方が判明してくることだろう。規模の大きな地震ではあったが、震源が深く、津波が発生しなかったことだけは、不幸中の幸いだった。

あっという間に時間は過ぎ、早朝4時近くになっていた。テレビでは、気象庁による会見が何度もリピートされている。深夜の時間帯に発生したこともあり、被害に関する新しい情報をなかなか得にくいのだろう。睡魔もピークに達してきたので、椅子にもたれて少し仮眠を取ろう…。
しかし、被害に関する情報が入って来なくとも、周囲で応援の準備は着々と進んでいく。眠いし寝たいのだが眠れないというジレンマに陥ったまま、朝を迎えた。

宮城県や福島県から情報を得ながら、本県としてどうするかの判断が迫られていた。宮城県は早々に「他県の応援は不要」の判断を下したが、福島県がなかなか煮え切らないという現状に、我々も気を揉んでいた。

結局、11時30分に開催された全国知事会の対策本部会議の場において、福島県知事が「広域応援の段階ではないが、今後も注意したい」と発言したことを受け、本県からの先遣隊の派遣を見送ることとなった。

そして、本県の応援本部を設置したまま、人員を縮小体制とすることが決まったのは、12時ちょうどのことだった。

しかし、これが未明から対応していた僕が解放されるタイミングではなかった。同時並行で、新型コロナウイルスの危機対策本部も立ち上がっていたからだ。ついでに言えば、豪雪に係る警戒本部も立ち上がっている。

全ての情報収集を終えたのは18時を過ぎてからだった。1時頃から業務を開始して、途中で2時間程度の仮眠を挟みながら、既に17時間が経過していた。

ただし、この時間で実務に取り組んでいたのは上司と僕だけ。何かがあれば、他の人員がサポートする態勢も整っていた。

東日本大震災からもうすぐ10年を迎えるというタイミングで発生した地震。広い範囲で震度6強を観測しながらも、奇跡的に亡くなった方がいなかったのは、被災地の皆さんの中に、そういった心構えが多少なりともあったからかも知れないし、復興の過程において対策が講じられていたからかも知れない。

今回の地震は、「東日本大震災の余震」と位置づけられた。一定の範囲で発生する地震は、今も「余震」として扱われるのだ。
それはともかく他の方々も述べているように、地球の歴史を鑑みると10年なんてあっという間だ。箍を緩めてはならない。対策を怠るな。そして、気を抜くな、抜いたらやられるぞ、という戒め。
もう一度身の回りを見つめ直そう。

まずは各地の人的被害が最小限で本当によかった。…と舌の根も乾かぬうちに、今度は爆弾低気圧。15日には青森県でも2年数ヶ月ぶりの高潮警報発表。いやはや、身の回りを見つめ直す機会はまだまだ続きそうだ。先が思いやられるわ…。