月別アーカイブ: 2017年10月

「夢」と「目標」と「現実」と

皆さんの夢は、何ですか。皆さんの目標は、何ですか。

最近、特に若い世代で「自分が思い描いていた夢や理想と違う」といって社会の歯車から外れる人が多いという話を耳にしまして、「夢」とか「理想」とかって、そんなに簡単に手に入るものじゃないし、そこに向かって努力や苦労を重ねてこそ理想に近づいたり、夢が叶うものなのになあ、とオッサンは思ってしまった次第です。

しかし実は、自分自身にこの問いを突き付けた時、情けないぐらいにその答えを明確に持ち合わせていないということに気がつきました。

いや、もしかしたらそれでもいいのかも知れません。夢や目標って、一朝一夕でどうのこうのなるようなものじゃないと思うのです。いわば「長期プラン」「人生設計」に関わってくること、といってもいいぐらい。

ただ、それを持ち合わせていない、という現実を目の当たりにして、果たして自分は、この世で一体何のために頑張っているんだろうか、と思ってしまったわけです。

昔、こんなことを聞かれませんでしたか。

「将来、何になりたい?」

恐らく、この問いに対する答えを一生懸命考えたのは、小学生若しくはその前かも知れません。

ケーキ屋さんになりたい。花屋さんになりたい。いやいやお巡りさん、お医者さん、看護婦さん、コックさん、パイロットになりたい、などなど…。

さて、この問いに対する答えは大概が「職業志望」みたいな感じ。それって、「夢」なのか「目標」なのか…。

まあ、そんなことどうでもいいんですよ、小さい頃は。
ところが年を重ね、色々社会の現実を垣間見るうちに、自分が思い描いていた「夢」らしきものが、現実を見据えた「目標」らしきものに置き換わっていくという。

僕の幼い頃は、何となく父親の卒業した高校に入学したいという朧げな「目標」はあったけれど、「夢」らしきものなんて何も持っていませんでした。

結局そのままずるずる成長することとなり、夢っぽいものすら何も抱かないまま、何となく成人を迎え、何となく今の職業に就いた、そんな感じでしょうか。

何か得意なものがあったわけでもなければ、他人から敬われたり激しく妬まれるといったものも持ち合わせていなかったし、漠然とした目標とまだ見ぬ夢を追いかけたままこの年齢にまでなってしまった、みたいな。

最近、この問いを自分自身にぶつけ、回答を得られなかった時、ふと今更ながらに思ったことは、「夢」と「目標」って相乗効果というかとても深い関係にあるんだな、ということに気づいたわけで。

端的に言うと、

・「夢」は、いつか叶うといいな、と思い描くもので、途方もなく成就することが不可能に近い場合もあるもの。

・「目標」は、いつか叶うかも知れない「夢」に向けて、ちょっとあるいは一生懸命努力すれば手が届きそうなところにあるもの。

こんな感じでしょうか。

「夢」として思い描いていたものは、将来「目標」に置き換わるかもしれないわけで、もっと簡単に言えば、自分が「夢」として思い描いているものを現実に叶えている人がいたり、自分の努力次第では、それは「夢」ではなくて「目標」となりうる、という。

例えば「宇宙旅行をしてみたい」と夢を描く少年。でも、現に日本人の宇宙飛行士が存在し、活躍しているという現実を見ると、それは「夢」ではなくやがて「目標」になる可能性がありますよね。ただし、その「夢」の実現に向けたそれなりの「目標」を立てなければならないだろうし、「宇宙旅行」に向けた環境がどうなるかによっても、それが「夢」のまま終わるのか「現実」になるのかはわからない、ということだってあると思います。

またそっちの話かよ、と呆れないでくださいね。
転じて僕自身、5年前に初めてフルマラソンに挑戦した時、完走すること自体を「目標」として定めていました。ここでいう「完走」というのは、一度も立ち止まることなく最後まで走り続ける、という意味での完走。ちょっと頑張ればこの目標は恐らく達成できるだろうと考えていましたし、そのために色々作戦やら計画やらを練って練って練りまくって挑んだのも事実。そしてその「目標」を見事達成した時に、「次は3時間30分を切ってみたい」という欲が生まれ、それが次の「目標」となりました。その目標が達成されればまた次の目標、といった感じで、どんどん目標を塗り替えていくといったところでしょうか。あの頃は3時間30分を切ることが一つのステータスみたいな感じになっていて、サブ3なんて夢のまた夢、自分には全く関係のないレベルと信じていました。

あれから5年が経ち、自分の持ちタイムが3時間ひとケタというところまでやってきた今日、朧気ながらサブ3なんていうものが夢ではなく目標の一つとして浮かんできそうなところまで来たのかな、なんて思っていますが、そんなにうまくいかないというのも現実。

僕としては一つ一つ確実に目的を達成していく方がやりがいがある、と思っているので、来シーズンではなく、50歳までにサブ3を一度でもいいので達成する、というのが僕にとって最大かつ一番の大きな「目標」です。

「夢」は…そうですね、今はそっと胸に秘めておこうと思います、はい。(と口を濁しつつ、実は何も考えていないというオチ)

避難所の運営を少しだけ考える ~「学校安全教室指導者研修」から~

今日は珍しくマジメに仕事めいたお話を。

青森県内にある小学校の管理者を対象とした「学校安全教室指導者研修」が行われ、僭越ながら私、研修のサポートを行ってきました。

折しも、兵庫県明石市で火災が発生、6時間以上も延焼が続き、20軒を超える建物が全焼したとのこと。急遽近所の小学校が避難所として開設されたというニュースを知ったのは、まさにこの投稿の校正を行っている最中でした。

恐らくこのブログをご覧頂いている方の多くは、何か大きな災害等が発生した際に、「避難所に避難する立場」ではあっても、「避難所を運営する立場」になる機会は、よほどのことがなければないことであり、むしろないに越したことはない、といったところでしょうか。(「ない」「ない」の連発ですいません。)

しかし、いざという時には避難者という立場と、避難所を運営する立場では全く状況が異なる他、避難する場所がどこなのかによっては、運営(又はそれをサポート)する立場に回るということが全くないと言い切れない部分があります。

今回は、もしも皆さんが「避難所を運営する立場」になった時に、どういった行動を取るのが適切なのかを少し考えてみたいと思います。…というよりも、僕自身の研修内容の「振り返り」であり「備忘録」です。どうもすいません。

ちなみに、今回は避難所運営のイントロダクションについてターゲットを絞って考える研修となりましたが、あくまでも一般論的なもの。災害の規模や発生した時期、更には場所等によって状況が全く異なるので、「これが正解」というのはなく、ケース・バイ・ケースになると思います。よって、「こういった場合はどうすればいいんでしょうね」と僕に聞かれても、「それは皆さんで考えて下さいね。」という、実につれないお答えしかできないと思いますので、あらかじめご了承下さい。

さて、今回の研修は県の教育委員会が主催したもので、県の防災担当にもサポートをお願いしたいということから職場の数名に声がかかりました。サポートに回った5名は全員、熊本地震の際に震度7を2度観測した益城町内で、避難所運営の支援を行ったメンバー。

多少なりとも学校における避難所運営がどのように行われているのかを、身をもって体感してきたメンバーです。その時の活動記録は、こちら

ちなみに今回の研修内容は、静岡県が作成した避難所運営ゲーム(HUG)を参考にしたとのことでした。

実はこのHUG、いつか経験したいと思いながらも未だに経験したことがないんですよね。別の図上訓練は、何度か経験しているんですが…。

言うまでもなく僕は避難所運営のプロフェッショナルでもなければ、深い造詣や知識も持ち合わせていません。

よって、あくまでも研修をサポートしながら、研修に参加していた皆さんがお話ししていた内容について聞き耳を立て、自分の中で咀嚼した内容にとどまってしまうと思いますが、少しでも皆さんが考えるきっかけになれば幸いです。

それじゃ、ちょっと内容に触れてみましょう。

ここで一つの想定をしたいと思います。(研修の想定とは少し異なっています。)

「○月○日午後1時20分、マグニチュード8.0の地震が発生、××町で震度6強を観測。」

・この日の天気は雨。午後1時の気温は15度。

・××町立△△小学校では、体育館横のプールのフェンスが一部倒壊したが、3階建ての校舎をはじめ、それ以外の被害はなかった。

・発生から5分後には児童300名全員の無事を確認、家族への引渡しも開始。現在150名が2階の教室で待機。

・津波警報が発令されたが、高台にあるため津波到達の可能性はない。

・電気、上下水道は地震の影響で寸断された状態。

・地震の直後から、近隣の住民をはじめ約100名が学校に避難し始めている。

・雨天のため、車で避難してくる人も多い。

・△△小学校内に校長を本部長とする災害対策本部組織を立ち上げ、教員間での情報収集を開始。

・非常用発電装置や仮設トイレ、救援物資などの備蓄機材等は学校にはない。

・保健室はあるが救護所はない。

・自主防災組織はまだ立ち上がっておらず、衛星電話を持った役場職員2名が到着したばかり。

 

さて、この状況を踏まえ、以下の状況に対してどのように対応すべきか、考えてみましょう。

 

(1)避難者が続々と集まっていることも踏まえ、当面の間、小学校を開放することを決定しました。まず、どこを開放しますか。

一義的には「体育館」と考えそうなのですが、体育館の前に開放すべきなのは「校庭」なのだそうです。これは、自家用車で避難してくる人の駐車スペースを提供する、という趣旨から。ちょっと虚を突かれました。

ただし。

校庭を全面開放するのは危険です。救急車や自衛隊、支援物資の輸送など、「公助」のための車輌が今後やってくると思われます。これらの車輌が駐車できるスペースは、当然動線も含めて確実に確保しておく必要があります。

人間の心理として少しでも入り口の近くに停めたい、という意識が働くものですが、避難者の駐車スペースは、むしろ入り口からちょっと離れた場所に確保する方が賢明なのかも知れません。当然、職員用駐車場を避難者向けに開放することは御法度。学校が再開した際に、立ち行かなくなります。

(2)校舎内で、避難者が立入禁止とすべき場所を考えたいと思います。どこを立入禁止にしますか。

職員室は言うまでもなく立入禁止です。これは、職員室が執務を行う部屋だからという観点ではなく、児童等の個人情報が保管されているからです。そういう趣旨では、事務室や校長室等も、関係者以外立入禁止とすべきでしょう。また、危険物が置かれている可能性のある理科室や燃料保管庫、備品の多い図書室や図工室も同様に立入禁止としました。

そして、非常に心苦しいところではありますが、ライフライン(上下水道)がストップしているということもあり、校内のトイレも立入(使用)禁止に。

避難者が続々と集まっている現状に鑑み、仮設トイレの速やかな設置を、役場職員を通じて強く要請しました。

(3)続々と集まってくる避難者について、何を、どのように把握しますか。

いよいよ体育館を「避難所」として開放することとしました。

その際、避難してきた方には次の情報を必ず「受付」に提示することを求めました。

◎氏名、年齢、住所(居住地区)、連絡先(携帯電話の番号)、血液型、障害の有無、同行者(同行者にも同じ情報を求めています)、避難の方法(車輌の有無)

○家屋の損壊状況(全壊、半壊、一部損壊等)、服用薬及び既往症の有無、緊急の連絡先(避難していない家族等の連絡先)、勤務先、勤務形態(勤務時間、休みの日など)

ただし、避難してきた人全員にその場でこれらの情報全てを聴取するのは困難であったことから、○の内容を含んだ内容については後日「避難者カード」を作成し、備え付けの箱に必ず投函するよう求め、今回は◎のみを求めることとしました。

また、体育館での混乱(不公平感)を避けるため、当面は1人当たり2メートル×2メートルの区画のみ与えることとし、体育館のステージ上は搬入されてくる救援物資の保管と仕分けなどを行うため、関係者以外立入禁止としました。

(4)避難者といっても種々様々ですが、高齢者や乳幼児連れ、障害者の他、「特に配慮を要する避難者」はどういう方が想定されますか。

心身障害者や妊婦さん、LGBTの方には一定の配慮が必要になりますし、観光客がいるかも知れません。また、外国人の避難者がいた場合は、言語はもちろん、宗教上の禁忌事項(食事など)にも配慮が必要となると思われます。

避難所では、お子さんの動向にも配慮が必要となってきます。大人同士であれば見ず知らずの人であってもそれなりに会話ができると思いますが、避難所に連れてこられたお子さんは、知らない大人に囲まれて心細さがどんどん増しているはずです。お子さんの不安感や緊張感を刺激することなく、なるべく年齢の近いお子さん(一番いいのは同級生)に接触させるなど、大人から子供への気遣い、心配りも忘れずに。

…といった内容が研修の中で議論されましたが、これはあくまでも一端であり、いざとなると、これ以外にも想定されないような様々な事案が同時多発的に起こります。一例を挙げると、避難者に紛れた不審者や部外者の侵入をどう防ぐか。こういったことを一人で悶々と考えるのではなく、あらかじめ想定されるケースを皆さんで議論したうえで、相応の運営指針等を策定することも選択肢の一つと考えます。

また、これは何も学校に限ったことではなく、公民館や集会所といったところでも同様のことが言えますので、これを運営する皆さんや地域住民の間であらかじめ議論する機会があってもいいと思います。

そして、自主防災組織やNPOといった支援活動を行う団体や組織とも、万が一に備えてあらかじめ意思の疎通を図っておくことが大切ではないでしょうか。(そういった団体や組織に参画することで、運営に関わる立場となることもあるわけで。)

今回は「避難所を運営する側」の立場から少し考えてみましたが、先に触れたとおり、数々湧き上がる「問い」に対する「これが正解」という答えはないと思います。強いて言えば、「皆さんの命を守るのが使命です」というのが「正解」でしょうか。

最終的に避難所の運営を行うのは学校でも役所でもなく、あくまでも避難者同士で行うことが必要となってきます。逆に「避難する側」の皆さんもこういった認識や心構えをあらかじめ備え持っておくことで、避難所における一定の秩序が計られるかも知れません。

しつこいですが、こういったことは起こらないのが一番なんですけどね。

ランナーズダイアリーのこと。

30歳を迎えるに当たり、生まれて初めて10キロ走に挑戦した地元の大会(今のアップルマラソンの前身の大会)での一コマ。正真正銘この日が僕のランニング歴のスタート。この頃はまだ考えが浅く、自分がフルマラソンを走るような市民ランナーになるなんて思ってもいなかったわけで、メリハリのある身体(盛り上がった大胸筋とか、背筋とか)に憧れなんぞを抱いていたのですが…。

ゲストランナーは、シドニー五輪で金メダルを獲得したばかりの高橋尚子選手と小出監督。背後の人だかりは、その二人を一目見ようとする皆さんです。

まだ振り返るにはあまりにも早すぎると思いつつ、2017年を振り返ってみると、1月の勝田全国マラソンで自己ベストを4分更新、そして8月の北海道マラソンではそこから更に5分半更新し、この1年だけで自己ベストを10分近く縮めたことに。いよいよ3時間切りも目前か?というところでの田沢湖マラソンで、文字通り冷や水を浴びせられることとなり、2017年のシーズンが静かに幕を下ろした、といった感じ。

ある方から、1年で2度もベストを更新するって、凄いことだと思うよ!と言われたのですが、確かに言われてみるとそうだったなあ、ぐらいにしか感じなくなりました。以前であれば一つの大会結果に一喜一憂していましたが、あまりクヨクヨすることがなくなったような気がします。もっとも、いい結果だったときは思い切り雄弁になりますけどね。…まあ、これはやむを得ない。

とはいえ2017年で僕のマラソン人生が終わったわけではないし、ここから2018年に向け、どういった形で繋げていけばいいのか、改めて次の作戦を練り始めています。一番の収穫はタイム云々よりも、ケガをすることなく乗り切ることができたこと。これに尽きる、といったところでしょうか。

この9月まで使っていたランナーズダイアリー。Number Doの特別付録として毎年提供されていたもので、2016→2017版は高橋尚子さんが監修したもの。さすがのランナー目線といいましょうか、今までで一番使いやすく、なぜか記録を怠ってしまった7月を除くと、自分でもビックリするぐらいかなり書き込んでいました。

巻頭には「トリセツ」が書かれていて、ポイントは『あとで読み返して役立つ「自分だけの練習手帳」』とのこと。

確かに読み返してみると、ああ、この時期でもこれぐらい走っていたんだなあ、と自分でも驚くぐらい克明に記録が記されていて、確かにこれは「あとで読み返して役立つ」というのはウソじゃないんだな、と思わせるようなものとなりました。そしてそれは、僭越ながらこのブログも然り。

2017→2018版を楽しみにしていたところ、どうやら今年からこの特別付録がなくなったらしく、何だかものすごく残念極まりない気分に苛まれております。

ネット上では自分の大会の出場記録や練習結果を登録する(自動的にタイムがアップされる)サイトがいろいろあります(ランニングに限らず、です)が、皆さんがいちいちそれを読み返しているかというと、実際はなかなかやらないことなのではないかと思います。その点、自分の手書きで練習記録を残すということは、あとで振り返るのにはうってつけのもので、個人的にはものすごく重宝していたのです。もしかしたら、こうやって記録を残していたことが結果に繋がったんだろうか…いや、それはないとは思うんですけどね。

ただ一つ言えることは、練習一つの距離や時間、内容をさらっと記録しておくだけでも、後で読み返してみると「成長」の過程が見える、といったところでしょうか。中には「え?こんなムチャしたっけ?」といった内容もあったりして、それはそれで面白いものです。

さて、その記録を手書きで残すものがなくなったのはちょっと痛いな、と思ったのですが、ないんだったらあるもので代用すればいいだけの話か。

ということで、久しぶりにリフィールを引っ張り出し、ヒョイヒョイと殴り書き。

どうですか、これ。「状況整理メモ」ってやつなんですけどね、実は今まで一度も書き込んだことがないという…。これからの課題や要点を、いわゆる5W2H形式でまとめ、進行管理をするというもの。左のページ下には大会の予定を書きこんでみたり、右のページには1か月毎の総括をメモしていけばいいかな、みたいなイメージで。

こういうのって、書き込んだ時点で何となく達成感が沸いて三日未満坊主になるということが僕の場合しょっちゅうなので、継続は力なり、ということを自分自身の肝に銘じたいと思います。

ちなみに、「ほぼ日手帳」のサイトの中に「ダウンロードシティ」というのがあるのですが、ここにある「ジョギングの記録」というのが、先ほど紹介したランナーズダイアリーのフォーマットにかなり近いです。

まあ、別に形にこだわらなくとも、記録を取る方法はいくらでもあるんですけどね。

2018年に向けて、どんな記録が刻まれていくのかな。まだ2017年は2か月以上残していますが、今から少し楽しみになってきました。

さてと、シューズの底も大分すり減ってしまったので、そろそろ新しいシューズに履き替えますかね。

2017年の最終レースは、無欲で楽しく。 – チャレンジヒルクライム岩木山ランニング大会2017

10月15日午前3時30分起床。年を取ると朝がどんどん早くなるものなのですよ。
…って、違います。2017年の最終レースとなる、チャレンジヒルクライム岩木山ランニング大会2017に出場するため、普段より1時間30分も早起きしました。

この大会への参加は2年ぶり3度目。昨年は同日に開催された秋田県能代市の「きみまち二ツ井マラソン」に出場、生まれて初めてスポーツで表彰されるという、自分自身にとって「歴史的快挙」を達成したのですが、今年はそちらへの出場を見送り、岩木山で開催されるこの大会に参加することにしました。

一番の理由は、これが今年最後の大会だから。昨年までは11月にもう1レースあったのですが、今年は諸々の事情で回避。ということで、2017年の締めくくりのレース、ということになります。

小さなケガに泣いた昨年とは異なり、大過なくレースに出場できたのも、岩木山をはじめとする各地で練習を重ねることができたおかげ。大げさかもしれませんが、いわば今日は岩木山に対する「御礼クライム」といったところでしょうか。まあ、もともと記録を狙うようなガチンコの大会じゃないし、どちらかといえばイベント的な色の濃い大会なので、個人的にはファンランのような感覚で。

…といっても、ファンランというほど甘いコースじゃないんですけどね。

スタート地点は、岩木山麓にある嶽(だけ)温泉郷。標高450mのこの地点から1キロほど西へ進み、普段は人や自転車の通行ができない有料道路「津軽岩木スカイライン」を駆け上がり、69個のカーブの先にある岩木山8合目地点がゴールとなります。ここの標高が1247mなので高低差は797m、スタート直後の下りを経て、その後は800m以上をひたすら駆け上がるというド変態コース。しかも競技開始は早朝5時30分、有料道路が開通する午前8時前にはバス遠足のようにみんなで下山するという楽しい大会なのであります。

この過酷というかアホみたいな大会にエントリーした物好き…いや、果敢なチャレンジャーは約50名。当日不参加の方も数名いたようですが、最終的には47名が5時頃にはスタート地点に集まっていたようです。(ちなみに1名は、10分遅れでスタートしたことをゴールした後で知りました。)

ようやく夜が明け始めた午前5時30分、静かに競技開始…。旅館で寝泊まりしている方もたくさんいますから、我々だけうるさくすることはできないのであります。

とはいえ何のテーマも持たず漫然と走ることだけはしちゃならないということで、一つ目標を密かに定めていました。前回は完全に紅葉鑑賞ランに徹してしまい、10個目のカーブあたりから既に歩行を開始していましたが、今回はまずはほぼ真ん中(38カーブ目付近だったかな)にある給水所まで絶対足を止めないこと、給水所で一呼吸置いたあとも、50カーブ目までは走ること。だったら最後まで走れよ!と言われそうですが、そこはほら、何といっても僕ですから(←謎)。

ペースを上げることなく、キロ5分を大幅に下回るペース、下手をすれば6分も切っていないんじゃないかというぐらいのスローペースで津軽岩木スカイラインへ。ここから先、ゴールまで下りは少しもありません。ずーっと上りっぱなし。平均傾斜が8.1%、最大傾斜が11.8%ですってよ。カーブの一つ一つにナンバリングがされているのですが、それを気にし始めると集中力が散漫するので、あまり見ないようにしつつ…。

しかし、進んでも進んでも先にあるのはカーブのみ。前を走るランナーと時折視界に入ってくる紅葉、そして下界(笑)に広がるの景色が、数少ない気晴らしに。
やがて給水ポイントに到着。ここで羽織っていたジャンパーを腰に巻き付けます。水を一杯だけ飲んで、もう一度気合を入れ直して上を目指します。
そしてこの先、悪魔のささやきを何度聞いたことか…。
結局52カーブ目で足が止まり、そこからはウォークとジョグに切り替え。まあ、今日はこれぐらいにしてやるじゃ。
55カーブ目では、調子に乗って撮影。そう、Go!Go!ですよ。

60カーブ目手前で、この日の女子1位となったタバケイちゃんに追いつかれるも全く気にならず、どうぞどうぞ先に行ってください。


(背後に足音を感じて振り返るとタバケイちゃん。カメラを向けるとナイス笑顔でポーズ。全然余裕あるなあ…。)

でも、ゴールを終えて下山してきたタカギくんに「後ろからカワラダさんに差されますよ~!」と言われたらなぜかペースが上がったという…(カワラダさん、ごめんなさい。笑)
68カーブ目、毎回撮影をしてくださるホンマさんの姿を確認し、一生懸命顔を作るも、もはやひきつって笑顔にならず。そしてとうとう迎える69カーブ目を直前にした途端、今までには芽生えてこなかった感情が…。

(69カーブ目手前、先にゴールした人やスタッフの皆さんが、その下を走るランナーに声援を送っています。素敵な光景です。)

あー…2017年の大会も、あんなに嫌だと思った岩木スカイラインのカーブも、これで終わっちゃうんだ…。

嬉しいのかしんみりなのかよくわからない、複雑な感情を抱いたまま、ゴール。
1時間12分ぐらいだったみたいだけれど、もはやタイムなんてどうでもよくて。


(オレンジ色のラインがゴール)

8合目はやはり寒く(肌寒いとかいうレベルじゃないっす)、この日参加した仲間たちと写真を撮影し合い、笑い合いながら、無事大会終了となりました。

(弘前公園RCのメンバーで集合写真を撮影しようということになり、撮影しようとするスギさんを撮影するダイスケくん…を撮影する自分を撮影していたのは、タバケイちゃん。ややこしい!!)

岩木山、今年もお世話になりました。無事大会を走り納めることができました。本当にありがとうございました。


(ぼんやり浮かぶ岩木山の影)

Stravaのマップも、きれいにルートを刻んでくれています。スプリットはかなり乱れているけどな。

…がしかし、この日のお礼参りはこれで終わらず。
まずは嶽温泉郷ではなく、約1キロ離れた隣の湯段温泉に向かいます。40年近く前に一度、ボーイスカウトの夜間歩行の際に、朝方入浴したことがあるという記憶が残っているぐらいなので、それ以来でしょうか、誰も入っていない温泉で一人足を伸ばします。(ちなみに大会出場者には温泉無料券が配付されましたが、こちらの湯段温泉は対象外なので、350円払います。)

以前は共同温泉があった(40年近く前はそこに入浴した記憶あり)のですが、今はなくなってしまったようです。

僕の格好を見るなり「今日、何かあったの?」と聞いてくる女将。大会のことを説明すると「うわあ…。寒かったでしょう。ゆっくり温まっていって下さい。今、泊まりのお客さんも入っていないから。」うう…。何て優しいんでしょう!

嶽温泉郷とはすぐ近くなのに泉質が全く違うんですよね。源泉温度が42度なので、加水も加熱もいらないらしいです。

その後最終目的地というか、帰路の途中にある岩木山神社に立ち寄り、今年最後の大会まで無事に走り終えることができたことの御礼。

皆さん神社にお参りって言いますけれど、自分がどこの誰なのか伝えてますか。自分に都合の良い願掛けばかりしていませんか。祈願成就したら、ちゃんと御礼参りしていますか。

…いやごめんなさい、ついこの間までは自分がそうだったものですから、ハイ。


(成人になって間もない頃に、鍛冶町のど真ん中でこれと同じ構図になった記憶あり。)

ということで2017年の大会出場はこれにて終了!
シーズン本番はこれからですが、僕はこの後、冬眠の準備を開始します!

ようやく日の目、しかし…。 – Listen Without Prejudice + MTV Unplugged / George Michael #georgemichael #listenwithoutprejudice

今も昔も青森県という「ド田舎」に住んでいる私、とりわけ若かりし頃は強烈なぐらい都会への憧憬というものを抱いておりました。

青森県を「ド田舎」…と揶揄しましたが、未だに「左遷されたところ」として取り上げられたり「日本語が通じない」と言われたり、最近は「地下がない」と嘲笑されたり…って、お前ら、青森に来たことないだろう!!

こんな感じで忸怩たる思いも幾度となく味わうこととなりましたが、住めば都といいましょうか、今となってはむしろ、青森で良かったという優越感を抱くようになっているぐらいでございまして、ハイ。だって、仕事でホタル見たり、雨上がりの歩道を飛び跳ねる小さな小さなアオガエルの一団に遭遇したり。ド田舎なんじゃなくて、天然の自然を満喫できるんだからね!

ちなみに、若かりし頃に抱いていた都会への憧憬、僕の中では「タワレコ」「地下鉄」「東急ハンズ」が、いわば「三大巨頭」みたいなものでした。

初めてタワレコを訪れたのは高校1年、京都への修学旅行の時でした。

自由行動のついでに畏友ダッチと二人で別行動、タワレコでDaryl HallとRobbie Nevilのアルバム(レコード)を2枚購入。(ちなみにダッチはSheila EのCDを購入。)

ちなみにそのダッチは、札幌市でソムリエとして店を一軒構えています。

おかげさまで」というお店、もし良かったら行ってみてください。

それはともかく、あのロゴの入った黄色の袋を抱えて地元弘前に帰ったことに、変な優越感みたいなものが湧いていたのは、今となっては何だったんでしょうね。

輸入盤独特の香り、そして国内盤より低廉な価格も、魅力だったのかも知れません。その後も仙台や東京を訪れた際には必ず「タワレコ」を訪れ、国内では入手し辛い色んなアイテムなんぞを物色していたのですが、時代の変遷とともに、足繁く通うこともなくなっていきました。…青森県内にもタワレコができたし、東急ハンズはトラックストアが展開されたし。…地下鉄はないけどね。

学生時代、秋田市内のPARCOにタワレコがあることを知ったときは、衝撃を受けました。ああ、青森は完全に置き去りだ、と…。

北秋田市に住む従姉が秋田市内に行く機会があることを知り、わざわざCDを購入するようお願いしたこともありました、そういえば。

ちなみにお願いしたのは、偶然にもGeorge Michaelの「FAITH」と、PWLの申し子といわれたRick Astleyのデビュー作でした。懐かしい。(ちなみにRick Astleyは先に聴いた従姉がとても気に入ってしまったことを覚えています。まあ、もう忘れていると思うけど。)

さて、George Michaelの「LISTEN WITHOUT PREJUDICE vol.1」。

これも、たまたま上京した際にタワレコで購入した一枚。衝撃的なソロデビューを飾った「FAITH」の次の作品ということで、店頭に並んでいるのを発見したときは、そりゃもう嬉々として手に取り、喜び勇んでレジへ。確か、発売されてすぐだったのかな。まだ国内盤が店に並んでいなかったハズです。

早速聴いてみると…。

…?

…あ、あれ?

な、なんか思っていた内容と違うぞ?

僕はてっきり「FAITH」の路線を踏襲したようなアルバムをイメージしていたために、肩透かしを食らったような、そんな印象を抱いてしまったのであります。

という記事をこのブログで掲載したのが昨年11月。この「LISTEN WITHOUT PREJUDICE vol.1」の25周年記念盤が発売されますよ、というアナウンスを受けて投稿したものでした。

ところが、暮れも押し迫った年末、世界中がクリスマスに浮かれる12月25日、突然の訃報が飛び込み、当初今年1月に発売が予定されていた記念盤も「発売日未定」となってしまいました。

突然の訃報に接したこと自体がかなり衝撃的だったのに、この25周年記念盤の発売日が未定になったことは、僕からすれば傷に塩を盛られたようなものでした。

ここに来て、お蔵入りになってしまうんだろうか。青春の一ページに思いを馳せることも許されないのだろうか。

発売日未定となった作品の予約をキャンセルすべきか逡巡したまま、季節も巡っていきました。

そんな中、9月上旬に突如発表された「Fantasy Feat. Nile Rodgers」 。

「Listen Without Prejudice vol.1」に収録されなかったこの曲は、実は25年前にアルバムの先行トラックとしてシングル化の構想があったようなのですが、いずれも実現せぬまま、後にカップリング曲として発表されることとなりました。

しかしながら、今回発表される25周年記念盤の発売に合わせ、ナイル・ロジャースにこの楽曲のリテイクを依頼し、この楽曲の発表をもってキック・オフとする予定だったのだそうです。

にもかかわらず、本人の急逝と作品の発売延期により、またしてもお蔵入りか…と思ったところへの発売決定の知らせ。ただし、「Listen Without Prejudice Vol.1」の25周年記念盤としてではなく、「Listen Without Prejudice + MTV Unplugged」というちょっと形を変えての発売。そしてそれに合わせ、この「Fantasy Feat. Nile Rodgers」も発表された、という。

そしてその直後に「発売日決定」のアナウンス。予約キャンセルしないで、本当に良かった!

ただですね…ホント何をやってるんだ!の4枚組デラックス・エディションの国内盤。

こういうことをするからアーティストと喧嘩になるんじゃないんですか?と思うような内容。これってアーティストじゃなくとも怒りたくなりますよ。

何で怒っているかといいますと…。

公式ホームページでは次のようなアナウンスがされています。

【デラックス・エディション収録内容】

DISC1(CD)|オリジナル・アルバム:2015年デジタル・リマスター <BSCD2仕様>

DISC2(CD)|MTVアンプラグド 公式初CD化:2015年デジタル・リマスター <BSCD2仕様>

DISC3(CD)|レア・トラックス:2015年デジタル・リマスター <BSCD2仕様>

DISC4(DVD)|ドキュメンタリー&ミュージック・ビデオ<日本語字幕付>

DVDに字幕が付くのはありがたい一方、何と肝心の「Fantasy Feat. Nile Rodgers」が収録されていないのだそうです!(ダウンロードコードが封入。)

そして、この曲の代わりにDISC2「MTV Unplugged」の11曲目に収録されているのは、Elton Johnとのデュエットナンバー「Don’t Let The Sun Go Down On Me」。

11.僕の瞳に小さな太陽(with エルトン・ジョン)※from the Elton John Album『Duets』 日本盤ボーナス・トラック

ちなみに2枚組のスタンダードエディションには、DISC2の11曲目に「Fantasy Feat. Nile Rodgers」が収録されているのだそう。この差異は、一体何?

そもそもElton Johnとのデュエットナンバーって、このアルバムとは全く関係ない曲ですよね。「日本盤ボーナス・トラック」という触れ込みになっていますが、全然ボーナスなんかじゃないし、むしろ邪魔なぐらいなんですけど!

しかし、何でこの曲を収録したんだろう?まさか、「MTV Unplugged」だからライブ音源も収録しちゃえ、ってこと?それとも…。

本来収録されるべき曲ではないこの曲が収録されたことによって、作品そのものがまるっきり別のものとなり、他方、本来収録されるべき曲が収録されていないことで、作品の質や価値が評価に値しなくなる可能性があるということを、レコード会社は理解しているのでしょうか…。

日本盤って、こういうのが多いですよね。「日本盤のみボーナス・トラック!」という触れ込みを掲げ、蛇足とも言えそうなボーナス・トラックを収録したせいで、アルバムの雰囲気がガラリと変わってしまったり、アルバムのトータルバランスを崩したり、アルバムそのものの質を下げてしまうことが。確かに昔はこれが「いい!」と思っていました。「日本盤のみのボーナス・トラック」を収録することで、何となくお得感を出すというか、海外盤との差別化を図るというか、色々理由や事情はあるのでしょうけれど、この曲って本当に必要なんだろうか、ということもしばしばあります。

極端な話をするならば封入された「解説」だって、もしかしたらいらないんじゃないか、と思うこともあるぐらい。だって、とことん解説に徹しているのならばともかく、作品に対する感想なんていうのは結局のところ、筆者の主観じゃないですか。直接制作に携わった人やアーティストの言葉なら話は別ですが。

有識者や音楽評論家の解説なんていうのは、このご時世、ブログで充分だと思うんですけれどね。(あ、このブログはそういう類ではありません、念のため。そもそも私、評論家でもなければそういう深い知識も見聞も持ち合わせていませんので。)

これもこの作品に限ったことではないのでしょうけれど、DISC 3の内容も「レア・トラックス」と謳っている割には結構寄せ集めっぽい感じが否めず、実際、既に他のアルバムに収録され、発表されている楽曲が多数収録されています。少なくとも未発表曲に関しては、収録されていません。

ちなみに今回新たに発表されたテイクは別として、「Fantasy」に関しては発表された当時の楽曲が既に「FAITH」のコレクターズ・エディションにも収録されているという。

それが今回また収録されるのも「?」ですし、そもそもそれで「レア・トラックス」って、一体どうなっているんでしょう。

まあ、確かに今となっては手に入れにくい音源が多数なので、「レア」であることには違いないのでしょうけれど、このDISC 3自体がデラックス・エディションのボーナス盤みたいなものと考えれば、致し方ないことなのかな。

だとしても、折角のコンセプトをムダにするような余計なボーナス・トラックは、正直言って本編には収録して欲しくないですね。

ということで、4枚組デラックス・エディションに関しては、何だかちょっと残念な作品になってしまったなあ、というぐらい衝撃的な内容。だって、本作品最大のハイライトが削がれているわけですからね。

そういうことじゃないんだよな…と、草葉の陰で歯軋りしながら地団駄を踏んでいるジョージの姿が目に浮かぶようです。さて、それはともかくこの作品、無事に手許に届くのでしょうか。そっちの方が心配です。