投稿者「のんべ」のアーカイブ

のんべ について

1971(昭和46)年 青森県生まれ。弘前市在住の青森県職員。 プリンスとビールと豆腐とラーメンを愛する。安いカメラでいかに安っぽくない写真を撮影するかに興味あり。 ブログの内容の多くは、以前から大好きな「音楽」、いつの間にか趣味となった「走ること」がメインです。

54歳の「誕生日じまい」

ここ数年、「年賀状じまい」と称して「今回をもって年賀状をやめます」と注記が書かれた年賀状が増え、年賀状の枚数がみるみる減った。確かに、僕自身も30年以上会っていない人との年賀状のやりとりが今も続く。年賀状のやりとり以外のお付き合いがほとんどなく、年賀状がお互いの生存確認、社交辞令みたいなものになっているという実態もある。

これまで年始の風習として存在していた年賀状。だが、これに代わる多種多様なツールが登場した結果として、どんどん廃れていくというのはやむを得ないところだろう。しかしよく考えてみると、僅か85円で「紙切れ一枚」の年賀はがきを全国津々浦々に届けてくれるというシステムには、感謝もしなければならないような気がする。ここ数年間は毎年のよう年賀状をやめようと頭をよぎるのだが、結局のところ、届いた年賀状に対して何らかの形で返信し続けるという習慣を、簡単に断ち切ることはきっとできないのだろうと思っている。

閑話休題。
1月29日で54歳になった。これまでの紆余曲折を色々思い返すと、よくもまあ54歳まで生きてきたなぁ、と思う。そしてこの先あと何度「誕生日おめでとう」と言われるのか考えると、ちょっと身構えてしまうところもあり、ここ数年は「誕生日おめでとう」を素直に受け入れられなくなりつつある。
年齢が一つ増えるということは、あと何年なのかはわからないが、自分の「人生メーター」の残数が一つ減る、ということを意味する。

そんな中で、とある思いがふつふつと湧いてきた。
「年賀状じまい」ならぬ、「誕生日じまい」を仕掛けてみよう、と。

Facebookでは、当日のお祝いコメントやメッセージを抑止するため、前日に「誕生日じまい」と称してコメントやメッセージを控えるようお願いした。…しかし、結果としていくら予防線を張ったところで、やっぱりコメントやメッセージを送ってくる人を抑え込むことはできなかった。
もちろん、お祝いコメントやメッセージを頂くのはありがたいことだし、現に直接「おめでとう」と言われる機会もあった。(このことについては、この場を借りて御礼申し上げます。どうもありがとう。)

そもそも何でこんなことを考えたかというと、理由がある。
数年前のこと、1月29日に日付が変わってすぐに届いたお祝いメッセージ音に叩き起こされ、その後も時間に関係なく夜まで脈々と送信されてくるメッセージやコメントの一つ一つに、寸暇を惜しんで返信する作業が辛かった。もちろんゆっくり返事をするという選択肢もあっただろうが、それは自分の中でヨシとしなかった。
さらに、こんな年齢になってもなお「誕生日おめでとう」と言われることへの居心地の悪さが、今回の「仕掛け」の発端だったのだ。

見た目が老けている、考え方が年寄り臭いといわれてから30年以上が経過した。
どうやら見た目だけは年相応になったようだが、気持ちは青二才、中二病真っ只中だ。

この年齢になると、誕生日は他人から祝って頂くのではなく自分から御礼を伝えるタイミングではないだろうか。「おめでとう」と言われる前に、こちらから「今までありがとう。そして、これからもよろしく。」と伝えなければならない人がたくさんいる。

そんな思いもあり、誕生日当日は早々に勤務を終え、まずは身近な人たちに「ありがとう」を伝えた。
しかしこれで終わりではなく、まだ伝えられていない人がたくさんいるので、この場を借りて声を大にして叫びます。

皆さん今まで本当にありがとうございます。
残されたこの先も、色んなことを思い切り楽しみたいと思います。
こんな偏屈なワタクシですが、これからもどうぞこれからもよろしくお願いします。

1月17日に掲げたミッションの結果報告

1月17日から19日まで、JR東日本の「大人の休日倶楽部パス」を購入して上京。連続する5日間有効で、JR東日本全線のほか、一部の第三セクター路線(元平行在来線)にも乗車でき、さらに新幹線は計6回座席指定を受けることが可能で、金額は18,800円。
約1年8か月前に消防大学校でともに研鑽に励んだ同志数名(千葉県及び和歌山県在住)と再会する計画を立て、12月に実行する予定だったのだが、ワタクシの大腸ポリープ切除という余計なイベント発生のため、日程の見直しをせざるを得なくなった、というのが事の顛末。再度日程調整したところ、1月18日がもっとも都合が良い、ということになり、それに合わせて生まれて初めて「オトキューパス」を購入した、というわけ。

1月18日13時頃に雷門前に集合、ホッピー通りから脇道に入った「金華園」にて宴会がスタート。実はこの店、同じメンバーで1年8か月前にも訪問しており、あの時も色んな話題やネタで盛り上がった。50代のオッサンたちが、とても文字起こしできそうにない話題で盛り上がる盛り上がる…まだ昼下がりなのに…。17時頃(!)に金華園をあとにし、浅草寺界隈を散策(浅草ロック座は外観だけで終わった)したあと、「ニュー浅草本店」に入店。閉店時間の21時まで、政治、世相からあちらの話まで、またしても文字起こしできない話題で盛り上がることに…。

浅草寺とスカイツリー(1)

浅草寺とスカイツリー(2)

夜の浅草寺も味わい深い。

スカイツリーと夏木マリ風のオブジェ。

インターバルがあったとはいえ、おそらく7時間は飲んでいたのではないか。21時30分頃、またの再会を約束して別れた。それでも翌朝、二日酔いもなくすぐ行動に移すことができたのは、きっと「いい酒は朝が知っている」というヤツだろう。

3人揃えば…とてもじゃないけどここでは書けません。

しかし今回は、これにとどまらず自分のやりたいことをとことんやり尽くした、そんな感じ。
17日、移動中の新幹線の車内で幾つかミッションを掲げ、このブログにも投稿していたので、どうなったのか御報告です。 続きを読む

好きなことができることに感謝する日

平成7年1月17日午前5時46分。兵庫県南部地震、いわゆる阪神淡路大震災が発生。
阪神淡路大震災を契機に、ボランティア活動の重要性が認識されるようになり、1月17日が「防災とボランティアの日」として、そして1月15日から21日までが「防災とボランティア週間」として制定された。
阪神淡路大震災による発災から30年。もう30年も経ったのか、という想いとともに、この間に自分の中で生じた心境の変化をぼんやりと考えている。奉仕の心は小学校時代から携わったボーイスカウトの頃に培ったつもりだが、大人になってからは「全体の奉仕者」としての振る舞いが求められることとなり、寸暇を惜しんでボランティア活動に取り組むことなんてなかった。ただし東日本大震災以降、ボランティアとしてではなく「業務」の一環として被災地支援に出向く機会が増えたのだけれど。

令和7年1月17日午後0時46分。僕は今、東京へ向かう東北新幹線の車内にいる。昨年暮れに続き、またしても雪にハラハラさせられながらの上京。弘前市内は昨日から今朝までとんでもない量の降雪(12時間で35センチの降雪量を観測。ただし、感覚的には40センチは越えていたような気がする。)があり、今季の最大積雪深を更新したようだ(午前8時時点で126センチ)。大雪警報も発表され、奥羽線をはじめとする在来線は軒並み運転見合わせとなった。ゲリラ豪雨というのは局所的かつ突発的に発生する大雨のことを指すようだが、年末年始の雪は、ゲリラ豪雪というよりも波状攻撃、局所の集中攻撃といった感じだった。「線状降水帯」ならぬ「線状降雪帯」という言葉が、少しづつ市民権を得始めているのもちょっと怖い。

雪の心配もさることながら、地震への警戒、そして明らかに変わりつつある自然現象の状況にも注意を払わなければならない。30年前、所詮は他人事のように捉えていた様々な災害が、他人事としてではなく支援する立場にいる一人として、時には自分事として捉えるようになるなんて想像もできなかったことだ。(ただし昭和58年5月の日本海中部地震を経験し、平成6年12月28日に発生した三陸はるか沖地震では自分も「被災者」だったことは一応書きとどめておく。)

――― 1月11日、今年最初の災害当番のため8時30分から18時まで出勤した。12年ぶりとなる県の豪雪対策本部が設置されたことを受けての当番対応だった。しかし今年度は、当番に当たる回数が例年より多い気がする。もっとも、以前の職場に在籍していた頃は、当番であろうとなかろうとお構い無し、曜日と時間の感覚がなくなるぐらい多忙を極めていたことを思い返せば、こんなのは全然大したことはないはずなのだが、その職場を離れ、業務の一線から一歩引いた途端、その感覚が錆びていった気がする。 ―――

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2025年の始まりに

のんべ
のんべ
スリラーのゾンビとかけて、年末年始の雪と解く。
そのココロは。
いくら除けても湧いてくる。

遅ればせながら明けましておめでとうございます。
2025年がスタートして4日目。

1月1日朝6時45分。大雪のためか、弘前八幡宮を初詣に訪れる人の姿はほとんどなく。

昨年暮れから降雪が続く青森県内。弘前、青森、五所川原の津軽地方が寒波の集中攻撃を受けている感じ。
今年の年末年始は、先月27日にポリープ切除の検査結果を確認するための通院があったため(ちなみに結果はシロ)、勤めて初めて仕事納めの日に休暇を取った。結果、10連休の恩恵を授かることとなったが、この間何をしていたかというと、ひたすら雪片付けに明け暮れていたという記憶しか残っていないのがなんとも虚しい。

1月4日朝8時。1週間のうちに2度屋根に上って雪を下ろしたのは初めてかも知れない。

実際、年末に屋根に上って雪を下ろすことなんてこれまでなかったし、連日のように10センチ以上、多いときは30センチも降雪があることなんて、これまでちょっと経験した記憶がない。
普段通勤で利用しているJR奥羽線は、ほぼ毎日「大雪」のため津軽新城駅~弘前駅間で運転見合わせ、大館駅~弘前駅間に至っては、「倒木多数」「設備損傷」のため復旧のメドすらたっていないという。弘前市がいよいよ陸の孤島、日本のガラパゴス、豪雪の孤立シティを名乗る日がやって来たのかも知れない。

1月3日朝6時。除雪(雪寄せ)はやってくるが、排雪(雪壁撤去)は追いつかず。

2024年の降雪量が異常に少なかった分、今年が逆に異常な降雪量、積雪深といったところだろうか。この降雪の状況をみても、気象の振れ幅が明らかに変わっているといった印象を受ける。これがもしも雨だったらと思うと、ちょっとゾッとするところもある。
実際、今日(1/4)の午前11時時点で弘前市の積雪量は114cm。観測史上1月最高の積雪量となったそうだ。

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2024年の振り返り

《七転八倒》今年は最初から最後までドタバタの一年間だった。清水寺で揮毫された今年の漢字は「金」。金とはなかなか御縁のない個人的な今年の漢字は「乱」。
そんな波乱万丈な今年1年を、ざっと振り返ってみようと思う。これ、自分自身の回顧録であり、備忘録です。すいません。

【1月・一意専心】元旦に発生した能登半島地震を受け、被災地支援業務のため富山県射水市へ。3度目の富山県、立山連峰は一度も拝むことができなかったが、これまで知らなかった富山県を色々知ることができた。任務を終えて帰青した直後の29日に53歳の誕生日を迎えたが、所詮は毎年当たり前に繰り返される+1の足し算。

【2月・二六時中】母の生まれ故郷・(旧)合川町(北秋田市)での開催された林弘樹監督作品「惑う」の上映会に出向く。会場に母を連れて行かなかったことを悔いたが、久し振りの再会もあり、心の洗濯に。

1月2月。富山県射水市にて能登半島地震の支援業務を行い、北秋田市にて懐かしい面々と再会。

【3月・三寒四温】恐らく人生最後となる新型コロナウイルス感染症のワクチン接種。振り返ると、コロナに振り回された数年間。失ったものが多過ぎて、得たものは何もなかった。でも、あの数年間は自分の糧にするしかない。中旬には定例異動の内示。所属は変わるが、4月からも同じフロアで9年目を迎えることに。ただ、2年間で大した成果や実績を挙げたという気分には程遠く、モヤモヤを残したまま異動となった。

【4月・四面楚歌】昨年5月に引き続き、The Street Slidersのライブを日比谷野音で鑑賞。色々気になるところはあったが、ライブ自体はとても良い内容だった。23日、高校生の頃から尊敬そして敬愛する弘前の音楽番長がパーソナリティを務める、地元コミュニティFMの番組にゲスト参加、プリンスを1時間にわたって紹介。選曲まで任され、ホントに楽しかった。
そして4月最終日、3月まで一緒だった元同僚の突然の訃報に接し、激しく動揺そして狼狽。

3月4月。弘前市で名画を放映し続けてきた映画館が閉館。日比谷野音を初めて訪れたあとは、プリンスをテーマにラジオで放談。楽しかったなあ。

【5月・五里霧中】別れがあれば出会いもある。お初にお目に掛かります、お久し振りです!が多かったこの月。19日は八戸市で開催された「うみねこマラソン(ハーフ)」に、約10年振りに参加。が、自己ワーストのタイムで走り終えた後、明らかに熱中症と思われる症状に見舞われ、フラフラになりながら電車を乗り継いで帰宅。その3日後、初めて警察官から一時停止違反の反則切符を切られた。35年にわたり維持してきた無事故無違反が遂に途絶えた。

【6月・六根清浄】4月から相次ぐショックも癒えぬまま、仕事に追われる。肉体的というよりも、精神的な疲労や苦痛が絶えない。4月以降、3か月連続で下北半島の自治体を訪問。結局8月を除いて11月まで訪問することとなった。

5月6月。久し振りのうみねこマラソンは、まだ元気だった頃。こんなに輝く宝石みたいなサクランボは初めて見た。26年、青森県で国スポ障スポ開催です。

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