ここ数年、「年賀状じまい」と称して「今回をもって年賀状をやめます」と注記が書かれた年賀状が増え、年賀状の枚数がみるみる減った。確かに、僕自身も30年以上会っていない人との年賀状のやりとりが今も続く。年賀状のやりとり以外のお付き合いがほとんどなく、年賀状がお互いの生存確認、社交辞令みたいなものになっているという実態もある。
これまで年始の風習として存在していた年賀状。だが、これに代わる多種多様なツールが登場した結果として、どんどん廃れていくというのはやむを得ないところだろう。しかしよく考えてみると、僅か85円で「紙切れ一枚」の年賀はがきを全国津々浦々に届けてくれるというシステムには、感謝もしなければならないような気がする。ここ数年間は毎年のよう年賀状をやめようと頭をよぎるのだが、結局のところ、届いた年賀状に対して何らかの形で返信し続けるという習慣を、簡単に断ち切ることはきっとできないのだろうと思っている。
閑話休題。
1月29日で54歳になった。これまでの紆余曲折を色々思い返すと、よくもまあ54歳まで生きてきたなぁ、と思う。そしてこの先あと何度「誕生日おめでとう」と言われるのか考えると、ちょっと身構えてしまうところもあり、ここ数年は「誕生日おめでとう」を素直に受け入れられなくなりつつある。
年齢が一つ増えるということは、あと何年なのかはわからないが、自分の「人生メーター」の残数が一つ減る、ということを意味する。
そんな中で、とある思いがふつふつと湧いてきた。
「年賀状じまい」ならぬ、「誕生日じまい」を仕掛けてみよう、と。
Facebookでは、当日のお祝いコメントやメッセージを抑止するため、前日に「誕生日じまい」と称してコメントやメッセージを控えるようお願いした。…しかし、結果としていくら予防線を張ったところで、やっぱりコメントやメッセージを送ってくる人を抑え込むことはできなかった。
もちろん、お祝いコメントやメッセージを頂くのはありがたいことだし、現に直接「おめでとう」と言われる機会もあった。(このことについては、この場を借りて御礼申し上げます。どうもありがとう。)
そもそも何でこんなことを考えたかというと、理由がある。
数年前のこと、1月29日に日付が変わってすぐに届いたお祝いメッセージ音に叩き起こされ、その後も時間に関係なく夜まで脈々と送信されてくるメッセージやコメントの一つ一つに、寸暇を惜しんで返信する作業が辛かった。もちろんゆっくり返事をするという選択肢もあっただろうが、それは自分の中でヨシとしなかった。
さらに、こんな年齢になってもなお「誕生日おめでとう」と言われることへの居心地の悪さが、今回の「仕掛け」の発端だったのだ。
見た目が老けている、考え方が年寄り臭いといわれてから30年以上が経過した。
どうやら見た目だけは年相応になったようだが、気持ちは青二才、中二病真っ只中だ。
この年齢になると、誕生日は他人から祝って頂くのではなく自分から御礼を伝えるタイミングではないだろうか。「おめでとう」と言われる前に、こちらから「今までありがとう。そして、これからもよろしく。」と伝えなければならない人がたくさんいる。
そんな思いもあり、誕生日当日は早々に勤務を終え、まずは身近な人たちに「ありがとう」を伝えた。
しかしこれで終わりではなく、まだ伝えられていない人がたくさんいるので、この場を借りて声を大にして叫びます。
皆さん今まで本当にありがとうございます。
残されたこの先も、色んなことを思い切り楽しみたいと思います。
こんな偏屈なワタクシですが、これからもどうぞこれからもよろしくお願いします。