日別アーカイブ: 2016-02-27

「ヤマシン」のこと

僕の人生の中で、最初の「闇」の時期は、社会人になって3年目に突然やって来た。
その辛い時期から抜け出そうとしていたときに、友が旅立った。
僕は、その友の旅立ちを見送ることすらできなかった。
そして今日、その友と、約23年ぶりとなる再会をようやく果たした。
今晩は、今まで誰にもほとんど話すことなく、自分の中で封印していた、約20年前の頃のお話を赤裸々と。
でも、赤裸々過ぎて毎度のことながらちょっと長いよ。(約1か月かけて推敲したら、原稿用紙22枚分以上、約9,000字に膨れちゃった。)

~~~
これまでも何度も口にしているのだけれど、高校時代を過ごした3年間は僕の人生の礎を築いた、といっても過言ではないぐらい充実した3年間だった。学校環境、級友をはじめ同期の仲間、先輩後輩、恩師の方々、全てに恵まれた。

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高校3年秋の三者面談で、地元大学ですら入学するのが難しいと言われるぐらい僕の成績は落ちこんでいた(というかずーっと低空飛行を続けていた)が、逆にそのことが発奮材料となり、一気に巻き返しを図った結果、何とか無事に弘前大学人文学部経済学科に現役で入学することができた。

当時のクラスメイトからは、「何でオレらが落ちてお前が合格するんだ!」と言われた(中には僕が合格したことが悔しくて泣いていた人もいた)ぐらいなので、いかに僕の高校時代の成績が酷いものだったのかは、想像するに難くないだろう。
一度目の人生の運を使ってしまった。

結局、小学校から大学まで、自宅から半径2キロ以内で収まるところに通うこととなった。まあ、そのことが自堕落な生活を送る諸悪の根源になったのかも知れないが、事実、大学進学後も学業はそっちのけで、やれバイトだパチンコだ飲み会だと、まるで放蕩者のような生活を送っていた。

ここで、今日の主人公に登場してもらおう。
高校3年の時に同じクラスだった「ヤマシン」。
黒縁のメガネに色白で、華奢。どちらかと言えば地味な存在で、お世辞にも目立つタイプではなかった。言わば、スポーツマンタイプとは真逆の、「オタク系」のキャラクター。高校3年の時に県の将棋大会で優勝を果たし、一躍スポットライトを浴びたこともあったが、そのことを自慢げにひけらかすことはせず、むしろ謙遜する、そんな「いいヤツ」だった。
高校時代はそんなに親しいワケではなかったのだが、大学に進学してみると、彼も同じ学科に入学していた。180人ほどいた新入生は名字の五十音順で3つのクラスに分類され、ヤマシンと僕は同じ「E3」に属することとなった。なにせ地元の大学、高校同期の連中が数多いる中にあっての数少ない同級生ということで、講義のコマとコマの間の休み時間には、一緒の時間を過ごすことが多くなった。お互い、大学に進学したからといって性格が劇的に変わるはずもなく、彼は相変わらず奥手なタイプというか受動的というか、自ら積極的に何かをするというワケでもなく、むしろ非社交的。飲み会に誘ってもほとんど来ることはなく、ホイホイとどこにでも顔を出すお調子者みたいな僕とは相反するようなタイプの人間だった。マジメといえばマジメだったのかも知れないが、お互いに1年次から教養部の単位を取りこぼすなど、彼も僕も成績優秀というワケではなかった。

◆◆◆
2年次の後期になると、3年次からの所属ゼミの選択に向けた履修案内があった。どういうわけか僕は「経営史」を選択することにしていた。確か、教官の人柄に惚れてのことだったような気がする。
そして、各ゼミの履修案内を聞いた直後にヤマシンが、「のんべ、何のゼミ選択するの?」と聞いてきた。

「経営史にするつもり。ヤマシンはどうすんの?」
「うーん…どうしようか悩んでる。」

そんなヤマシンが選択したのも、結局「経営史」だった。大して気にはしていなかったが、もしかして、オレがこのゼミを選択するって言ったからなのかな…なんてことをその時は考えた。

3年次になり、ゼミがスタート。前期はほとんど毎週ゼミにやってきたヤマシンの姿を、後期に入る頃からあまり学内で見かけなくなった。僕自身、積極的に付き合っていた友だちが県外や市外から来た人達メインだったグループ(このグループには、ヤマシンも顔をちょこちょこ出していた)から、県内出身者のグループに変わったりして、徐々にヤマシンとの付き合いも疎遠になっていった。大学にいれば誰かに会う、ということも徐々に減り始める一方、求人票の貼られたブースに行くと誰かがいるという状況に、いよいよ就職活動に向けてみんなが少しずつ動き始めたことを悟るようになった。

僕はといえば、大学を卒業した後で何をしたいとか何をしようとかいった夢も希望もあるわけではなく、相変わらずバイトとパチンコとデートに明け暮れる日々。学業面もパッとせず、順風満帆で有意義な学生生活を送っていたとは言い難かった。

やがて、3年次のゼミ生の中からゼミ長を決めることとなった。その日のゼミには、確か3年次の学生と4年次のゼミ長らが出席していたものの、そこにヤマシンをはじめとする数名の姿がなかった。
「今日来ていないヤツにゼミ長をやらせよう!欠席裁判だ!」と鼻息を荒くするく輩もいたが、この先1年をともに過ごすゼミ生同士、後で軋轢が生じるのもイヤだし、とにかく不毛な議論を早く終わらせたいという思いが先行し、思わず自らゼミ長に立候補してしまった。他のゼミ生にしてみれば誰もこんな面倒臭い役割を担いたいなんて考えないだろう。言わばダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ!」の状態であっさりと僕がゼミ長になることに決まった。
しかし、いよいよ就職に向けた活動が本格化する中にあって、ゼミなんていわば前半戦のみ、実際蓋を開けてみると、各ゼミ生の就職活動の状況報告ばかりが行われるようになった。

更にその直後、担当教官から衝撃の事実が伝えられた。
何と、担当教官は我々が4年次となった年の後半(10月)から渡米することが決まったため、卒論の提出を求めない、というのだ。確かに他にも、卒論不要のゼミがあるらしいという噂を聞いたことがあった(今となってはそれが本当だったのかどうなのか、知る術もない)が、まさかこのゼミが卒論不要となるとは…。衝撃というよりも、正直言ってニヤニヤするしかなかった。と同時に、3年次のゼミ生の受け入れもしないことが明らかとなった。つまり、後輩不在の寂しいゼミになることが決まった。

ゼミが終わったあと、教官に呼ばれた。
「マカナエくん、悪いんだけどさ、後でみんなの電話番号教えるから、今日来ていない人たちに連絡してもらえないかな。」

当時はまだ携帯電話が普及していない世の中、連絡を取るのはもっぱら固定電話が主流。幸い、ゼミ生の中に欠席者といつでも連絡を取れる人がいたため、その方の分についてはお任せすることとし、僕はヤマシンの自宅に電話を入れた。

「はい、もしもし××です。」
ヤマシンのお母さんと思しき人だ。
「私、弘大で同じゼミに所属しているマカナエと申しますが、ヤマシンくんはおられますか。」
「はい、少々お待ち下さい。」
(しんちゃん!しんちゃーん!マカナエさんから電話!)
「…もしもし。」
いつもの低い声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「あ、マカナエなんだけど。あのさ…」と用件を伝える。
「あ、それからさ、先生がたまにゼミに顔を出せって。」
「…うん。わかった。…ところで、のんべ就職どうすんの?」
「…いや?まだ何も考えてないけど?」
「…ああ、そう。じゃあ、また。」

その後もヤマシンとゼミで顔を合わせたのは数える程度でしかなかったが、ひとまず大学には時々来ていたらしい。
もっともこの頃は、ヤマシンよりもむしろ、留年が決定した後にほとんど大学で姿を見なくなったマサキがどうしているのかを気にしていたんだけど….。

◆◆◆
そして、いよいよ就職活動が本格化し、早々に内定を獲得する輩も現れた。一方、首都圏に「出稼ぎ」と称して長期間滞在し、面接のための「旅費」を稼ぐ不届き者もいた。ちょうどバブル崩壊の兆しが見え始めた時期で、厳しい就職戦線が予想された。
僕はといえば相変わらず何の仕事に就くかも考えていなかったし、大学4年となった直後に「東京に行って就職活動してくる」とウソを言って上京、プリンスのコンサートを観て帰った後に親の大目玉を食らったり、とにかく何とかなるさ、と実に呑気に構えていたものだった。
「そんなに就職先が見つからないなら、公務員試験でも受けてみれば?」という父の一言で一念発起、無謀にも4年次になったばかりの4月から突如公務員試験の勉強を始めた。それも、過去問を購入しての、対象を重点的に絞った勉強。こんな付け刃みたいな勉強だけで公務員になんかなれるはずがないと端から決めつけていた。
既に卒業に必要な専門の単位を取得する目途は立っていたが、実は卒業までには教養の単位が2つ足りなかった。恥ずかしいとか何とか言っているわけにも行かず、教養部の一番大きな教室の最前列で2単位を取るだけのために大学に出向いていた。
結局、尻に火が付かなきゃ行動しないという性格は、今も昔も変わらないらしい。

青森県庁と弘前市役所の採用試験が一週ずれていたため、とりあえず双方の採用試験試験に臨むことにした。合格なんかするわけないと思っていたので、ジーンズにサンダル履きというかなりふざけた出で立ちで受験会場に向かった。
試験会場には、ヤマシンも来ていた。
「おう。ヤマシン、どうだった?」
「うーん、どんだべ…。」
目を泳がせながら歯切れの悪い回答に終始するヤマシン。んだよなあ、大学でほとんど見かけなかったお前が公務員になったら、きっとみんなビックリするよな。ま、それはオレも同じなんだけどな、ハハハ…と内心思いながら、何とか一つだけ内定を頂いていた地元の会社へと徐々に思いを募らせ始めていた。(しかし、その会社は約10年後に倒産。)

◆◆◆
7月下旬。郵便局の配達人が簡易書留を持ってきた。見慣れた字は、僕が書いた自分自身の宛名だった。
…えっ!…えっ?これって…!

慌てて開封すると、青森県の採用試験一次に合格した旨の通知が封入されていた。あまりの突然のことに動揺を隠せない僕。
程なく、急に雲行きが怪しくなり、雷鳴が轟き、ザーッと雨が降り始めた。
そこへ一本の電話。
「おばあちゃんが…死んじゃった。」
当時付き合っていた彼女からの突然の電話だった。僕は、嬉しいんだか悲しいんだかよくわからないまま、封筒を握りしめて母と泣いた。
二度目の人生の運を使ったような気がした。

数日後、珍しくヤマシンから電話があった。
「あ、のんべ。オレだけど。県の一次、合格だった。」
「おお!やったじゃん!オレも合格したよ!」
合格とは意外な電話ではあったが、多分彼も僕が合格したことを聞いて同じことを思っているに違いない。
「どうする?」
「…いや、どうするって…まだ決めてないんだけど、今のところ県の採用試験一本に絞ろうかなって考えてる。二次試験もあるしさ。」
「そっか、んだよね。うん、せばまだ。(※津軽弁で「じゃあ、またね」の意)」
そんな奇妙な内容の電話に、ちょっと首をかしげた。
…が、確かヤマシンからかかってきた電話は、これが最後だった。

結局、強運に恵まれたのか実力なのかは定かではないが、これまた一次試験を突破した弘前市職員ではなく青森県職員を目指すことを決意した僕。青森市にある面接会場では、意外な顔ぶれとも会うこととなったが、結局ヤマシンには会わなかった。
「ヤマシン、市役所に絞ったかな…。」

あまり気にはしていなかったが、それから数か月後、僕は無事に青森県職員の合格通知を受け取った。
あとは卒業に向けて教養の単位を取得すれば、それでいい。
相変わらず4年次の身分ながら1年次の多い教養学部に足を運んでいたが、単位の取得は絶対大丈夫だと確信していた。そして、予定通り無事に単位の取得が終わり、無事大学の卒業が決まった。
しかし、4年次の後期ともなると既にみんなが方々に散らばり始め、一堂に会するという機会もほとんどなくなった。誰がどこへの就職が決まったという情報は風の便りに聞く程度であったが、正直言ってあまり興味はなかった。むしろ、これから公務員として身を律して行かなければならないという気持ちが徐々に強くなっていった。

◆◆◆
迎えた大学の卒業式(学位授与式)。数ヶ月ぶりに顔を合わせる輩ばかり。
「どこに就職決まった?」
「そうか!県外に行っちゃうのか!」
僕が青森県職員に採用されたという話は、さほどの驚きをもって迎えられたわけではなかった。

「…ところで、ヤマシン見ないね。」
「あれ?ホントだ。」
久しぶりにヤマシンの名前を耳にした。そういえば、彼がその後どうしたか、全然聞いていなかった。確か単位は全て取得していたはずなので、卒業できるはずだったけれど…。
大して気にもせずに卒業式に臨み、平成5年3月、何とか無事に大学を卒業した。
平成5年4月、青森県職員として採用され、青森市内で行われた辞令交付式に臨んだあと、僕は衝撃の事実を耳にすることとなる。
それは、新採用で同じ部に配属となった高校の同級生Tからの話で知ることとなった。

「ヤマシン、去年秋から入院しているらしいよ。」
「…え!?何で?初耳なんだけど。」
「何かさ、県の採用試験で二次の面接の前に健康診断やったでしょ。あれで引っかかったらしいんだよ。」
「どっか悪いの?」
「うん。…どうも白血病らしいんだ。」

白血病という言葉を耳にしたとき、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
白血病…不治の病ではないのかも知れないが、決して楽観視できる病でもない。しかも、同じ試験を受けたヤマシンが入院していたことを知らなかったなんて…。

「ヤマシンが、白血病…。」
正直、自分がピンピンしてこの場にいることに対する罪悪感すら感じた。
しかしそれから新人1年目、2年目と過ごしていくうちに、また僕は「ヤマシン」のことを忘れかけていた。

◆◆◆
やがて新採用から3年目を迎えたとき、僕自身が心身の不調に見舞われることとなった。
差し障りがあるので詳細を語ることはできないが、3年目となった4月以降、職場は変わらずとも周囲の環境が180度変わった。そしてこのことで、職場にいること自体が、自分の中でただただ苦痛だった。正直言って、辛かった。何が楽しくてこんな仕事をしているんだろう、と思うようになった。これまでも何度か仕事を投げ出したい、辞めたいという思いがよぎったが、この時が一番その思いを強くした。やがて、心身のバランスを大きく崩した。が、ここで崩れては「負け」を認めるようなものだと、そのことを隠して頑なに出勤し続けた。
そんな中にあって、僕は前述の彼女との結婚を決意した。交際して7年が経とうとしていた。4月にはきっと異動になる。それも大方の予想では、県南地方の八戸市への異動となる。その前に、何とか婚約だけはしておきたかった。

3月、みんなの予想通り八戸市にある勤務公所への異動内示が発令、4月に着任。その月の28日に、弘前市内で結婚披露宴を行った。が、肝心の妻は僕にはついてくることはなく、結婚早々別居で単身赴任という奇妙な新婚生活がスタート。週末に自宅のある弘前市と八戸市を往復するという生活を送っていた。僕の精神状態はどん底で蠢いているような状況ではあったが、そのことを新たな職場でもひた隠しして、医者から処方された薬を投薬する生活を続けた。今思えば、よくもまああんな状態で仕事を続けられたものだ。

やがて別居生活も4か月が過ぎ、8月に突入。弘前のねぷたまつり、青森のねぶたまつりが始まり、県内がまつりムードに包まれ始めた頃、僕はまたしても衝撃を受けることとなった。

何気なく職場で見た新聞の朝刊に、思わず目を疑った。
黒縁の広告の中に、ヤマシンの名前を発見したのだ。
ヤマシンが…死んだ?

住所、名前、享年。どれを拾っても、ヤマシンに間違いなかった。
ヤマシンが…死んだ…。

最初にヤマシンが入院していることを教えてくれたTに慌てて電話をする。Tは、ヤマシンの自宅のすぐそばに住んでいて、小学校から高校まで一緒だった。
「そうなんだよ。ヤマシン、亡くなったんだよ…。」
暗い声で話すT。

しかし、通夜の日も葬式の日も、僕はどうしても抜け出すことのできない説明会が八戸市で行われることになっていた。
Tは、弘前市で行われるヤマシンのお通夜に参列するとのことだったので、僕の分の香典も代わりに届けてくれるようお願いして、受話器を置いた。

その日は、激しい動揺で何も手に付かなかった。文字通り走馬燈のように、ヤマシンとの思い出がフラッシュバックしていた。
そんなに深い付き合いではなかったが、少なくとも高校3年から大学を卒業するまで彼と一緒に過ごしたことは、事実なのだ。
ヤマシン、お別れに行けなくて本当にゴメン。オレさ、ヤマシンの分も頑張るから…。夕日が沈みかけた北西の空に手を合わせる。それは、八戸市から弘前市に向けた、せめてもの弔いの気持ちだった。

しかし僕は、その後も彼の自宅を訪れることができなかった。ひょっとしたら同じ職場に勤務していたかも知れないヤマシンのことを考えると、彼の親御さんや身内の方々にどう接していいのか、何をどうお話ししていいのかわからず、行かなければならないと考えるだけで足が重くなった。ヤマシンやご家族に対する、自分が県職員としての立場であることの後ろめたさ。そんなオレが果たして彼に、そして彼のご家族に合わせる顔なんかあるのだろうか。時が経過すればするほど、その葛藤はどんどん膨らんでいった。
…今思えば、単なる思い過ごしだったのかも知れないが。

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…そして気がつくと、約20年の月日が経過。
ヤマシンのことをふと思い出すのは、2月が彼の誕生月だということを思い出したとき、そして、8月の弘前ねぷたが始まったとき。高校時代の同級生で和尚になったシンスケと時々顔を合わせる。シンスケも彼のことは忘れていない(ヤマシンの命日の前後に墓参りに行くことも少なくないらしい)そうだが、ヤマシンの名前が出てくるのは、高校同期のメンバーが集まったときでも頻度は少なくなっていった。

そんな中、先日、偶然にもヤマシンの身内の方と接する機会があった。あまりに突然過ぎる出来事で、僕は初対面だったその方に対して、一方的に「すいません、本当にすいません…」と半泣きになりながら謝った。それは、ヤマシンのお通夜やお葬式に行けなかったことの非礼、そして、その後一度たりとも仏前に手を合わせるためにご自宅を伺うことすらしなかったことに対する、懺悔にも似た謝罪だった。

「いいんです。気にしないで下さい。覚えてもらえているだけでもありがたいですから…。」
その言葉に、また涙が溢れた。僕の心の中にずっと引っかかり続けていた棘が、ちょっと動いたような心境だった。

そしてこの日、身内の方と一つ約束をしたことがあった。
近日中に必ずヤマシンのご自宅を訪問し、仏前に手を合わせること。
それは、僕自身の気持ちを整理するという意味でも、絶対に避けて通れないことなのだと確信した。

しかし、いざ本人を前にして何を話そうか、悩んだ。もしかしたら、この間みたいに涙が止まらなくなって話にならないかも知れない。楽しみな反面、あのボソボソっとした低い声で、「のんべ、今頃何しに来たのよ。」とヤマシンから怒られそうな気もして、正直言って怖かった。

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しかも、今週月曜日には、ヤマシンと小学校時代から一緒で、僕自身もヤマシンとほぼ同時期に一緒の時間を過ごした高校時代の同級生・ミキオの訃報に接したばかり。(奇しくも卒業アルバムに写った二人が、亡くなってしまった…。)

何もこのタイミングで…とも思ったが、同級生が旅立つということに対する動揺と悲しみは、今も昔もそのズシリと響く重みに全く変わりなかった。
しかし、家も近所同士、小学校からずっと一緒で高校時代も仲の良かった二人が病に倒れ、そして旅立ってしまったことを思うと、僕の心中は全く穏やかではなかったが、今回のこの約束だけは絶対に反古にするわけにはいかず、ヤマシンの自宅へと出向いた。

ご両親と初めてお目にかかった。ご挨拶もそこそこに、仏壇へと向かう。
久しぶりに対峙した写真のヤマシンは、僕が知らない丸坊主姿だった。発病してから撮影したとのことだった。何となくその表情が、「来るのが遅いんだよ!」と怒っているようにも見えた。やっぱりね…
「ホント久しぶりだね。」…彼に話しかけるように、ゆっくりと手を合わせる。静かな時間が流れていった。

…その後、ご両親とお話をさせていただいた。発病から壮絶な闘病生活、そして迎えた最期。幾度となく僕は、言葉を失った。一方、たぶん同級生の誰もが知らないような話も…まあ、どんな話をしたかについては、あくまで当事者の話なのでここでは触れないでおこう。

こちらからも、これまで綴った内容をかいつまんでお話しさせていただいた。涙は、出なかった。そしてお話ししながら、長い間ずっと心の中で燻っていたモヤモヤ、釣り針の返しが刺さったような胸の奥の引っかかりが、ようやく外れたような気がした。
帰り際、もうヤマシンの遺影に一度手を合わせた。
写真の向こうのヤマシンが、なんとなくほくそ笑んだように見えた。それはまるで、23年前まで当たり前のように見ていた、あの頃と同じような表情だった。

若い頃、彼が抱いていた野望や願いは、今となっては知る術もないのだが、ひょっとしたら同じ仕事に就いていたかも知れないということは、今の仕事をしながら時々心に思い起こしている。
さすがに僕は二人分の仕事をこなすほど能力に長けた人間ではないけれど、せめて与えられた仕事をきちんとこなすことが、少しでも彼に対する弔いになればいいな、なんて都合のいいことを考えてみたりすることもあるのも事実だ。

人生って色んなタイミングで歯車がガッチリ噛み合ったり、全く噛み合わなくて空回りしたり色々あるんだけど、それもこれも宿命だ運命だ、という一言で片付けるには、25年という生涯だとあまりに短すぎだよね。

それにしてもシンちゃん、本当に久しぶりだったな。この世に別れを告げてもう20年経つのか…。そっちはどう?また一人そっちに行っちゃったなあ。
まあ、遅かれ早かれみんなそっちに行くことになるからさ、少しの間みんなでうちらを迎え入れる準備でもして待っててちょうだい。
今まで足を運べなくてホントごめん。遅くなって、申し訳なかった。また会おうな!

合掌