【伊豆下田旅行記】W台風一過、奇跡の食い倒れ - 鰻と金目鯛に鼻を鳴らした日

角松敏生ライブの翌日は、大人の休日俱楽部パス対象エリアの端っこ、下田へ向かうことにしていた。

先のレポートでも触れたとおり、出発前は直前に発生した地震と避けることのできない災害対応、更には台風のダブル接近、ライブ翌朝の余震と葛藤…いろんな感情と想いが渦巻いたが、総じてみるといい旅だった。

■ 薄氷を履むが如し【心地よい疲労感。しかし…】

6月25日の地震そして出発当日のW台風をかいくぐり、最初の目的地である横浜に到着した土曜日の夜は、横浜アリーナで開催された「角松敏生 45周年記念公演」へ。直前までの仕事の緊張を忘れさせてくれる素晴らしい時間であったが、翌朝になっても災害対応の疲れとライブの興奮が入り混じった心地よい疲労感が残っていた。しかし…

■ 6月28日早朝5時半の余震【渦巻く「後ろめたさ」】

28日早朝5時半頃、ベッドの中でスマホがイヤな音を発した。25日の地震の余震が発生、青森県内で最大震度5弱を観測したのだ。横浜市内のホテルでも、わずかな揺れを感じた。心地よい疲労感がイヤな疲労感に変わった。今年の神様はどこまでも冷淡だ。

状況を確認したところ、幸いにも被害はなかったが、職場の仲間たちが再び対応に追われていた。一方で自分は今、災害対応に従事することもなく、私的旅行に出かけようとしている。悶々とした思いと「後ろめたさ」が圧し掛かってきた。でも、ここで思いを断ち切らないと誰も休めなくなる。

複雑な思いを胸に抱いたまま横浜駅から特急「踊り子3号」に乗車、一路伊豆急下田駅へと向かった。伊豆半島は火山島が本州に衝突してできた地形だ。半島全体に温泉が散らばっており、駅に到着するたびに湯けむりが上っているのが見えた。12時12分、伊豆急下田駅に到着すると、今にも雨が降り出しそうな空が広がり、普段なら賑わっているだろう駅前も、観光客は非常にまばらだった。

■ 極上鰻に舌鼓【モヤモヤを吹き飛ばす「小川家」の鰻重】

何とも言えぬ重い空気感を抱えたまま、徒歩で鰻の名店「小川家」へ。
結論から言えば、これまで自分が食してきた鰻の中でも間違いなく3本の指に入る美味しさだった。

うな重(竹)。個人的には松の上。

運ばれてきたそれを口に運んだ瞬間、香ばしさと芳醇な香りが拡がる。圧倒的な美味しさに五感が満たされ、悶々としていた思いが吹き飛んだ。

メニューは極めてシンプル。

店内は座席数が少なく、メニューも「うな重(竹)」に潔く絞り込まれている。

歴史を感じる営業案内の左下にインスタの二次元コード

表の看板には「柳川」ともあるが、メニューには存在しない。完全予約制で、訪問する時間に合わせて焼き上げるという。最上級のそれを最高の状態で提供するという、職人のプライドと気質が感じられた。

趣のある佇まい。右側の看板には「柳川」の文字も。

■ 雨の下田海中水族館への徒歩ルートには危険も

うな重で心身を整えた後は、徒歩で「下田海中水族館」を目指す。
小川家から水族館までは約800mだが、強い雨の中を歩く中、リスクにも気づくこととなった。

1. 一寸先は小路だらけ:下田市内は道幅が狭い道路が入り組む。
2.地図だけではわからないアップダウン:水族館の手前には、結構な上り下りがある。
3. 無歩道の暗いトンネル:手前にトンネルがあるのを確認、中は暗く歩道が整備されていない模様。

雨で視界が悪い中、車との距離も近く、歩くのは正直危険だと感じ、たまたまやってきたバスに1区間だけ乗車した。

水族館に到着した頃には更に雨脚が強くなり、この先の安全も考慮して滞在時間を大幅に短縮。ちょっとだけ楽しみにしていたショーを見る暇もなく、無念の撤退となった。

「伊豆名物いかめんち」の幟。むむむ?

こちらのものとは全く異なるビジュアルだった。

下田駅~海中水族館はバスが便利。片道230円。天気の良い日はともかく、雨の日や足腰に不安がある方は無理せずバスを利用することをお薦めする。ただし、運行本数が少ないので事前にリサーチを。

■ 大人向けの「ホテル伊豆急」【2種類の温泉で疲労回復、そして地元の海の幸を堪能】

水族館から駅へ(バスで)戻った後は、宿泊先である「ホテル伊豆急」の送迎バスでホテルへ。
雨の徒歩移動で身体も冷え、前夜からの疲れもピークに達していたので、ホテル内の温泉で癒すことに。

このホテルには、敷地内から湧き出る独自の源泉「白浜温泉(弱アルカリ性硫酸塩泉)」と、下田の名湯「蓮台寺温泉(単純温泉)」という2種類の温泉がある。異なる泉質のお湯に交互に浸かりながら、蓄積していた色んな疲れを抜き、そして心身を労わった。

軽く惰眠を貪ったあとは夕食会場へ。決まった料理以外に券が3枚渡され、好きな料理やデザートを3品選べるというシステムになっている。そして、ここで登場した「金目鯛の煮つけ」が絶品だった。これはビールも進むってものです。

金目鯛は着座後に火を入れて蒸し煮。

伊豆の地ビール

更に翌朝の朝食会場では、「鯵の干物」が目の前でパチパチと網焼きにされており、香ばしい香りが漂っていた。これに加え、地元で獲れた新鮮なシラスや、わかめのしゃぶしゃぶなど、下田ならではの海産物も用意されており、朝から大満足の贅沢な食事を堪能することができた。

ビュッフェスタイルの朝食は和食メインでチョイス。鯵の干物は2枚食べました。

雨は上がったようだ。旅の最終日に天候が回復するのは今に始まったことではない。
部屋からの景色は今一つであったが、温泉と料理のおかげで良質な滞在時間を過ごすことができた。

天気が良ければ島々が望めるらしい

伊豆急下田駅から特急「踊り子2号」に乗車し一路東京へ。そこから新幹線を乗り継ぎ、弘前に戻ったのは18時過ぎだった。

押寿司は小腹が空いた際の車内食として購入

下田市は黒船とペリー、そして金目鯛の推しが強い

■ 旅のまとめ

今回、弘前から伊豆急下田までの移動を支えてくれたのが「大人の休日倶楽部パス」。これを利用したため、弘前から横浜を経由した伊豆急下田までの往復の交通費は一律2万円(※バス代と宿泊費は別)で済んだ。通常運賃と比べたら圧倒的なコスパだった。

直前の震度6強、当日のW台風に滞在中の余震と、本当に紆余曲折あったが、「ダメなら新潟、長野方面へ旅程プランを切り替える」という準備をしていたこともあり、出発さえすれば何とかなるという確信があった。そういう意味では、奇跡的にほぼ全ての行程を予定通り進めることができたというだけでも、非常に満足度の高い旅となった。
出発直前まで神様は冷淡だったが、旅の最後はニヤリと笑ってくれたようだ。
次回は出発の段階から高笑いできますように。

【#角松敏生 #45周年】職人の神髄を垣間見た約6時間

2026年6月27日、横浜アリーナで開催された「TOSHIKI KADOMATSU 45th Anniversary Live」を鑑賞してきた。

WOWOWでの40周年公演の放映や昨年のライブを目の当たりにして、この45周年公演は是が非でも足を運びたいと虎視眈々と狙っていたが、その願いが叶った。
休憩を挟んで約6時間、21時30分過ぎの終演までほとんど飽きることのなかった濃厚なステージは、行けないかも知れないという不安も相まって感涙ものだった。その当日の感動を記録として。

地震にW台風の接近、そして横浜駅はB’zのファンでごった返す

横浜への遠征の最終準備を進めていた6月25日の7時30分、最大震度6強の地震が発生。嗚呼、終わった…。絶望感に打ちひしがれる中、津波に関する注意情報が発表されなかった。首の皮一枚繋がったと思った。
そして、週末の態勢を当番体制にまで縮小することが決まった。奇跡だ…(涙)。

しかし、数日前から日本列島に2つの台風が近づいており、「果たして無事に辿り着けるのか?いや、そもそもライブは開催するのか?」と気を揉み続けていた。
出発当日、そのW台風が相次いで関東地方に最接近または上陸の恐れがあり、事前の予報ではかなりの荒天が予想されていた。そんな易々と目的達成させるわけにはいかないらしい。

時間単位で気象状況に気を揉みつつ、大人の休日倶楽部パスの恩恵を受け、当日は新青森駅を9時頃に出発。それでも東北新幹線は定時で運行され、12時30分頃に東京駅に到着。この時点で最初の台風は既に日本の東へと抜けていたものの、スマホの画面には次の台風の接近を知らせるニュース。戦々恐々としながら東海道線に乗り換え、13時15分頃に横浜駅へ降り立った。

ようやく到着した横浜駅だが、構内は異様な熱気と人で溢れていた。
それもそのはず、この日は同じ横浜にあるKアリーナでB’zの公演(LIVE-GYM 2026)が予定されていたのだ。駅ですれ違う方々の年齢層を見ると、いずれも50代前後と比較的高めに見える。いや、横浜アリーナを目指すファンの年齢層はもっとアレか(笑)。
台風の不安を抱えつつ、タイプの異なる同世代のアーティストを追いかけるそれぞれのファンが全国から集結している状況に、ちょっと微笑ましくなった。

新横浜駅から横浜アリーナへと向かう道中は強い雨が降りしきる。次の台風が接近しつつあることを十分感じさせるような空模様だが、「何とかここまで来られた」という安堵感が勝っていた。

初めての横浜アリーナは傘の花が咲く

前から4列目ほぼ中央から目の当たりにした臨場感

実は人生初めての横浜アリーナ。座席はなんと前から4列目の中央寄りという最高のポジション。ファンクラブに入会していた同行者の強運に頭が上がらなかった。ステージ上の所作やバンドの細かな息遣いまでがダイレクトに伝わってきそうな、この規模の会場では経験したことのない臨場感だった。

唯一贅沢な不満を言わせてもらうなら、ステージの目の前を行き来するクレーンカメラが何度も視界に被り、少々目障りだったこと(笑)。とはいえ、それを差し引いても最高の特等席だった。

密かに心待ちにしていた第2部「MILAD」

今回の3部構成の中で僕が密かにそして最も期待を寄せていたのが、第2部だった。
近年、並々ならぬ情熱を注いできた総合エンターテインメント「MILAD(MUSICLIVE,ACT&DANCE)」の世界。今回、その集大成としてどう展開されるのか。
その期待は幕が開けた瞬間から昇華し、そして終始圧倒されることになった。

若者の表現力と躍動感に落涙

第2部のステージが始まってから僕は終始感銘を受け、涙腺が緩みっぱなし。
ステージ上で繰り広げられる若いダンサーやアクターたちの圧倒的な躍動感。更に、彼らのエネルギーと音楽とがステージ上で完璧に融合し、物凄い熱量となって迫ってくる。
中には「この時間が退屈だ」と席を外すファンがいたことも知っているが、個人的には、ミュージカルとも異なるこのステージ上での演者の一挙手一投足から、完全に目が離せなくなっていた。ステージの幕引きは「東京少年少女」の客演。

演者がステージに現れ、イントロが響き始めた瞬間、いよいよ胸に込み上げるものを抑えきれず、涙が止まらなくなった。あの一体感を目の当たりにし、心を揺さぶった感動は、言葉では言い表せないほど美しく、僕の中に鬱積していた何かを洗い流すようで、久しぶりに魂が震えるような感激を味わった。

第3部は何とアンコール込みで21曲披露!疲労度合いも半端なく…

第3部は「今、歌いたい曲」ということで、アンコール含めて何と21曲を披露。さまざまなゲストが登場したが、圧巻だったのは「ILE AIYE~WAになっておどろう」で登場したブラジル太鼓集団の「ナタカトキオ」。彼らのパフォーマンスが凄すぎて、その演舞を固唾を飲んで見守っていた。
当初の予告通り、21時30分過ぎに全ての幕を下ろした。恐らく最後の最後に披露するはずだった「あの曲」は、時間の都合で演奏できなかったんじゃないだろうか、とか思ったり。

ここに辿り着きライブを堪能できたことに感謝

最後に

第1部、凍結前までのアルバムA面1曲目の披露、第2部で繰り広げられた「MILAD」という深い芸術性と感動、そして第3部で「今、歌いたい曲」を披露するというスタンスと、最後に会場内を大量に飛び交った紙飛行機での大団円。約6時間という長丁場を全く感じさせない、素晴らしいステージ構成だった。

興奮冷めやらぬまま終演後に会場の外へ出ると、あれだけ降っていた雨は上がっていた。我々が会場で熱を上げているうちに、2つ目の台風が既に通過したらしい。

結果的に、直前の地震から始まりW台風の最接近や直撃という、最悪の事態を奇跡的に避けることができた。記憶に残り、記録として残したくなる、最高の45周年公演だった。

角松敏生というアーティストの過去・現在・これからで目の当たりにした感じ。あの場所にいられたことに(特に職場関係者には)心から感謝したい。
素晴らしいステージを魅せてくれたすべての出演者の皆さん、最高の時間をありがとうございました。50周年の公演も楽しみにしています(笑)。
(敬称略)

※ 8月から3回にわたって今回の公演がWOWOWで放映されるそうです。

#Princeと#Michael Jackson のこと

先日、映画『Michael』を鑑賞した。考えてみれば映画館に足を運んだのは、Princeのドキュメンタリー映画『Beautiful Strange』以来だった。もともと映画を観る習慣があまりない僕だが、この作品は映画館に足を運んでも観る価値があると判断したのだ。

劇場にて。一緒に並ぶのはやめた。

作品自体の感想は多くのレビューで語られているので割愛するが、何より印象的だったのはMichael Jacksonを演じた2人の圧倒的な再現度。本人がいるかのような所作や表情に引き込まれた。「音の良い映画館で観るべき作品」という評判にも納得である。ただ、描かれていたのが「半生」であり、アルバム『BAD』以降については続編が製作されるような匂わせもあった。

僕がPrinceの熱心なファンであることは、このブログでも幾度となく綴ってきたが、80年代のポップミュージックを代表するもう一人の巨人、Michael Jacksonについては取り上げたことがあまりなかった。


(映画のサウンドトラック。ジャケ写の佇まいがMichaelそのもの)

理由はいくつかある。実は、PrinceもMichaelも全盛期を過ぎてから本格的に聴き始めたこと(『Thriller』も『Purple Rain』も大ヒットしていたことは知っていたが、実はリアルタイムでアルバムを聴いていない)。そしてMichaelはPrinceと比べると作品数そのものが少なく、触れる機会が限られていたことも大きい。それでも2004年発売の『The Ultimate Collection』は発売日に購入したし、アルバムも数枚保有している。

PrinceとMichaelには数多くの共通点がある。

* 常に時代の先を行く、あるいは時代を象徴する音楽を生み出したこと
* 黒人アーティストとして業界の常識を変えた先駆者であったこと
* 一方で黒人か白人かの人種差別を歌で取り上げていること(例えばPrinceであれば「Controversy」、Michaelであれば「Black or White」などなど)
* 他のアーティストに計り知れない影響を与えたこと
* 幼少期の家庭環境が決して恵まれていたとは言えなかったこと

挙げればきりがないが、この二人が80年代以降の音楽史を塗り替えた存在であったことは間違いない。

残念ながら僕はMichaelのステージを生で観る機会に恵まれなかった。しかし映画『This Is It』や『The Ultimate Collection』に同梱されたDVD『Live in Bucharest』を通じて、その圧倒的なパフォーマンスを観ることはできた。特に彼が手掛けたショートフィルムは、単なるミュージックビデオの枠を超えた映像作品であり、新作が発表されるたびに驚かされ、心を躍らせた記憶がある。

1980年代、この二人は常に比較の対象だったように思う。
世間のイメージは単純で、Michaelは光(あるいは陽、更には善)、Princeは影(あるいは隠、更には悪)。Michaelは王道(あるいは健全)、Princeは異端(あるいは卑猥)。そんな構図で語られることが多かったように思う。しかし実際は、両者は全く異なる個性を持ちながら、独自の方法で頂点に立ち、地位を確立したアーティストだったといっていいだろう。

興味深いのは、お互いの存在を強く意識していたにもかかわらず、本格的な共演がほとんど実現しなかったことだ。

有名なのはMichaelの『Bad』で予定されていた共演の見送りである。PrinceがMichaelとの共演を避けたようにも見えるが、その背景には単純なライバル意識だけでは説明できない複雑な感情があったのかも知れない。

一方で、今回の映画『Michael』では、Michael自身がPrinceを意識していることが窺える場面も描かれていた。世間では「PrinceがMichaelを意識していた」と語られることが多いが、実際にはMichaelにとってもPrinceは無視できない存在だったのだと思う。

二人が同じステージに立った数少ない例として語り継がれているのが、1983年のJames Brownのライブだ。Michaelが華麗なパフォーマンスを披露した後、Princeがステージに呼び込まれ、結果として何とも喩え難い展開になったことは有名である。改めて観るとあの場面は、二人の違いを象徴する出来事だったし、PrinceがMichaelと距離を置くトリガーだったのかも知れない。


(最後のオチはPrinceファンとしてはとても複雑です。笑)

また、両者を結ぶ重要な存在として忘れてはならないのがJimmy JamとTerry Lewisだ。彼らはPrinceが手掛けたThe Timeのオリジナルメンバーであり、The Time脱退(というかクビになった)後は敏腕プロデュースチームとしてJanet Jacksonの『Control』『Rhythm Nation 1814』をプロデュース、さらにはMichaelとJanetのデュエットナンバー『Scream』にも関わった。

『Scream』のレコーディング時、MichaelはJanetのボーカル録音場所を尋ね、「ミネアポリスだ」と知ると、自分もそこで録音したいと言ったという逸話が残っている。(出典元:amass
Princeの本拠地として知られるミネアポリスの名を耳にしたとき、Michaelの中にどのような思いが芽生えたのか想像すると興味深い。

PrinceもMichaelも、すでにこの世にはいない。
しかし、PrinceのファンにはMichaelのファンが多く、その逆もまた然りだと思っている。音楽性は異なっていても、同じ時代を過ごし、互いを刺激し合いながら歴史を作った二人だからこそ、今も彼らを語りたくなるのだろう。僕は、彼らが第一線で活躍する時代に彼らの音楽に触れることができて本当に良かったと思っている。

ライバルであり、同じ時代を駆け抜け、そして20世紀のポピュラー音楽史を代表する二人の天才。その関係性はこれからも、僕ら多くの音楽ファンを惹きつけ続けるはずだ。


(今月のrockin’on誌は必読。40ページにわたるMichaelの特集に、Princeに関するドキュメントも掲載)

うみねこ爆弾を避けながら #八戸うみねこマラソン

5月16日、八戸市で開催された「八戸うみねこマラソン」に参加してきた。
地元で開催される「弘前・白神アップルマラソン」にはここ3年参加していないのに、こちらの大会は3年連続。その理由は簡単。大会前日の飲み会が楽しいからだ。あはは。

今年も前日に八戸入り、以前職場で苦楽を共にした元同僚らとの懇談。すっかり調子に乗り、翌日大会があるにも関わらず23時過ぎまで飲み続けた結果、翌朝は久しぶりの二日酔いだった。

3年前のハーフに出場した時、ゴール後に熱中症のような症状に見舞われ、フラフラになったまま弘前まで電車を乗り継いで戻ったという恐怖体験から、ハーフに対する禍々しい思いが芽生え、昨年から10㎞の出場に切り替えた。

まともな練習もしておらず、体力も気力も明らかに低下している自覚もあったので、10㎞だったら何とかなるだろう…なんて甘く考えていたけれど、結果的には見事に足元を掬われることとなった。10㎞でも舐めたらあかんのですよ。

会場となる八戸港の館鼻岸壁周辺は、この大会に子供からそれ相応の年配者まで出場することもあり、例年大混雑する。7時過ぎには宿所を出発し、7時半過ぎには岸壁の一角に駐車場所を確保、そこから1時間ほど車内で惰眠を貪っていた。何せ自分が出場する10㎞のスタート時刻は10時42分。3時間近くも時間があるのだ。

酒は抜けていたものの、頭痛と気怠さは残ったまま。脱水症状にならないように、水分補給だけは怠らなかった。
それほど風もなく穏やかな天気で、走るにはちょうど良さそうだ。

9時に3㎞コースの号砲が打ち鳴らされ、10時にはハーフの選手たちがスタートしていった。

気合いを入れて大会に参加していた以前とは異なり、気負うものもなければ緊張感もない。

昨晩一緒に酒を飲んだ八戸消防の某氏が、今年も応援に来てくれた。

頂いた冷たいゼリー飲料を口にしながら10時のスタートを一緒に見送り、談笑していた。
ところが、10時のスタート直後から急に風向きが変わったのを感じた。海からの東風が徐々に強くなってきたのだ。

スタート地点に一人で向かう。同じランニングクラブのメンバー若干名が参加しているはずだけれど、結局誰とも会わなかった。

10kmスタート直前

10時42分、スタートの号砲が鳴った。
なぜこんな中途半端な時間に設定されているのかは、わからない。
さっきまで談笑していた某氏に手を振りスタートラインを超える。
旧知のチームのメンバーが目ざとく僕を発見、声援を送ってくれた。本当にありがたい。

まだ余裕をブチかましていたスタート前

最初の1㎞こそ5分半を要したが、2㎞までは4分40秒までペースを上げた。大して苦しくもなく、このままのペースでしばらく押していけるかな、と思ったところに落とし穴が待ち構えていた。世の中そんなにうまく行くはずがない。3km過ぎで右脚のふくらはぎが悲鳴を上げたのだ。
…といっても予兆はあった。

以前から左膝に不調を感じていて、それを庇いながら走った結果、右脚に思った以上の負荷がかかっていたのだ。脚が攣る感覚ではなく、ピキッと剥がれるような感覚。突然の出来事に、慌ててペースを落とすしかなかった。騙し騙し5分ちょっとのペースで走り続けたが、それも1㎞と持たず。

5㎞付近の給水所で完全に足を止め、痛みを確認する。
いっそここで競技中止、DNFという選択肢もあったのだが…。

江の島が見えてきて俺の家も近いと唄っていたのはサザンオールスターズ。
こっちは蕪島が見えてきて俺のゴールが一番遠いところにいるのだ…。

だったら歩こうが走ろうがゴールを目指して進むしかない。タイムや順位なんてどうでもよかった。
往路があるということは復路がある。往路で声援を受けたということは復路でも声援を受ける。

なんとも情けない姿を晒しつつ、痛みを感じないポイントを探りながら、残り2㎞で意地を出した。

最初で最後の力走はゴール手前で…腰が完全に落ちている

残り1㎞で最速のペース。何をやっているのか…。
自己ワーストの55分ちょっとでゴール。
右脚を引きずり、覇気を失ったまま会場を後にした。

当日のペースと心拍数の波形

ということで、何でこうなったのか原因は明白。

・練習不足 ・体重過多 ・酒量過多

これしかない。ちなみに次のレースは全くの白紙。これからじっくり考えよう。

完走証は頂いたけれど…

最後に。この大会の直前に旅立ってしまった同じクラブのSさんへ。
僕はもう少し年齢に抗ってみようと思います。
ありがとうございました。いつかまた、ね。

合掌

2011年4月の伏線回収と答え合わせの旅 ~2026年5月・岩手県大槌町へ(後篇)

前篇から続く)
続いて向かったのは、大槌町赤崎地区。ここには、「ひょっこりひょうたん島」のモデルの一つと言われる「蓬莱島」がある。

しかし、赤崎地区は先の山林火災により避難指示が出たエリアで、青森県大隊が消火活動を行っている地域だ。

赤崎地区での青森県大隊

海を眺めるとかわいい島が浮かんでいるが、背後に目を向けると、林の一部が焼け焦げ、中腹には消防車両が見える。活動の邪魔にならないように早めに切り上げ、宿所へ向かった。

歩いて渡ることも可能な蓬莱島

宿泊したのは、浪板海岸地区にある「民宿サトウ」。
県外客はもとより、海外からのバックパッカーのような方も宿泊されるようだ。

ここでは、夕食と朝食を紹介しておく。
季節に合わせた食材がふんだんに使われるらしく、個人的には大満足だった。

この民宿を予約するときに確信していたのが、15年前に車を停めて撮影したのは、恐らくこの界隈だということ。今回の再訪でそれを確認し、自分の中で「答え合わせ」をして、あの時のことを想い返したいと考えていた。

茶碗蒸しが絶品だった夕食

ご飯3杯食らった朝食

スマートフォンに保存している15年前の画像を見るまでもなく、その「答え合わせ」は不要だと確信した。大槌町中心部から吉里吉里地区、そして浪板海岸地区へ車を走らせる途上で、15年前の記憶が一気に蘇ってきた。

15年前、僕は間違いなくこの地に立ち尽くし、言葉を失っていたのだ。

宿の主と夕食の際に会話。あまりにも詳細に山林火災のことをこちらから話したため、どうやら消防関係者と間違われてしまったようだ。そうではないと伝えながら15年前に話が及び、やがて話の流れでスマートフォンに保存していた画像を見せたところ、表情を曇らせた。

しまった…自分の「答え合わせ」とはいえ、相手にとってはトラウマとなっている琴線に触れてしまったと、心の底から猛省した。

そうだよ。自分の脚で確認するしかないのだよ。

翌朝、朝食の場に宿所の奥さんがやってきた。

今回の山林火災の恐怖を、保存していた画像を見せながら教えてくれた。

その恐怖というのは、実際に目の当たりにしないと絶対にわからない。

時折涙を滲ませながら教えてくれたその状況に、お見舞いの言葉を伝えるしかできなかった。

靄に包まれる民宿サトウ

朝食を終え、僕は「答え合わせ」に出かけることにした。
民宿の窓を開け、広がる光景。そして、遠くに見えるホテル。間違いない。
小雨が降っていたが、そんなのは関係なかった。

上段は2011年4月。下段が今回の光景。

僕が15年前に車から降りて撮影した場所は、この民宿の真ん前だった。

そして、玄関に車が突き刺さっていたホテルと思しき建物は、やはり「ホテルはまぎく」だった。ふり返ると、15年前と変わらない山がドーンと鎮座していた。

ホテルはまぎくにて。左段が2011年4月、右段は今回撮影。

偶然にも釜石へ向かう三陸鉄道の車両が走っていった。
15年前は、あちらこちらで線路が流されていたことをふと思い出した。

釜石方面に向かう三陸鉄道。15年前は見ることのなかった風景。

その後、大槌町在住のKさんに直接火災のお見舞いを伝えるため、吉里吉里地区へ。

15年前に境目を目撃していたエリアがこの界隈だということは、「答え合わせ」の過程の中で確信していた。

8年振りに再会したKさんとお話ししたのは5分程度だったが、この界隈でも避難を余儀なくされたこと、実際に山肌が燃え、火の手が上っていたことを教えてもらった。

今回の山林火災のお見舞いを伝え、またの再会を約束して別れた。
少し進んだ先で車を停め、一部が焼け焦げた山林に目を向けた。

この地域で生活される方々の安寧が一日も早く訪れることを願うしかなかった。

吉里吉里地区。山肌の一部が黒くなっていた。

僕の中での伏線回収はこれで幕引き。
「答え合わせ」も100点満点だった。

それでも被災地に寄せる想いはずっと持ち続けようと思う。被災地云々というよりも、美しい風景や美味しい食材を発掘し、地域の人たちと触れ合うって、本当に楽しいからね。

久慈市・喜多八食堂のうに丼(生ではない方)

塩ベースの磯ラーメンは絶品