2011年4月の伏線回収と答え合わせの旅 ~2026年5月・岩手県大槌町へ(後篇)

前篇から続く)
続いて向かったのは、大槌町赤崎地区。ここには、「ひょっこりひょうたん島」のモデルの一つと言われる「蓬莱島」がある。

しかし、赤崎地区は先の山林火災により避難指示が出たエリアで、青森県大隊が消火活動を行っている地域だ。

赤崎地区での青森県大隊

海を眺めるとかわいい島が浮かんでいるが、背後に目を向けると、林の一部が焼け焦げ、中腹には消防車両が見える。活動の邪魔にならないように早めに切り上げ、宿所へ向かった。

歩いて渡ることも可能な蓬莱島

宿泊したのは、浪板海岸地区にある「民宿サトウ」。
県外客はもとより、海外からのバックパッカーのような方も宿泊されるようだ。

ここでは、夕食と朝食を紹介しておく。
季節に合わせた食材がふんだんに使われるらしく、個人的には大満足だった。

この民宿を予約するときに確信していたのが、15年前に車を停めて撮影したのは、恐らくこの界隈だということ。今回の再訪でそれを確認し、自分の中で「答え合わせ」をして、あの時のことを想い返したいと考えていた。

茶碗蒸しが絶品だった夕食

ご飯3杯食らった朝食

スマートフォンに保存している15年前の画像を見るまでもなく、その「答え合わせ」は不要だと確信した。大槌町中心部から吉里吉里地区、そして浪板海岸地区へ車を走らせる途上で、15年前の記憶が一気に蘇ってきた。

15年前、僕は間違いなくこの地に立ち尽くし、言葉を失っていたのだ。

宿の主と夕食の際に会話。あまりにも詳細に山林火災のことをこちらから話したため、どうやら消防関係者と間違われてしまったようだ。そうではないと伝えながら15年前に話が及び、やがて話の流れでスマートフォンに保存していた画像を見せたところ、表情を曇らせた。

しまった…自分の「答え合わせ」とはいえ、相手にとってはトラウマとなっている琴線に触れてしまったと、心の底から猛省した。

そうだよ。自分の脚で確認するしかないのだよ。

翌朝、朝食の場に宿所の奥さんがやってきた。

今回の山林火災の恐怖を、保存していた画像を見せながら教えてくれた。

その恐怖というのは、実際に目の当たりにしないと絶対にわからない。

時折涙を滲ませながら教えてくれたその状況に、お見舞いの言葉を伝えるしかできなかった。

靄に包まれる民宿サトウ

朝食を終え、僕は「答え合わせ」に出かけることにした。
民宿の窓を開け、広がる光景。そして、遠くに見えるホテル。間違いない。
小雨が降っていたが、そんなのは関係なかった。

上段は2011年4月。下段が今回の光景。

僕が15年前に車から降りて撮影した場所は、この民宿の真ん前だった。

そして、玄関に車が突き刺さっていたホテルと思しき建物は、やはり「ホテルはまぎく」だった。ふり返ると、15年前と変わらない山がドーンと鎮座していた。

ホテルはまぎくにて。左段が2011年4月、右段は今回撮影。

偶然にも釜石へ向かう三陸鉄道の車両が走っていった。
15年前は、あちらこちらで線路が流されていたことをふと思い出した。

釜石方面に向かう三陸鉄道。15年前は見ることのなかった風景。

その後、大槌町在住のKさんに直接火災のお見舞いを伝えるため、吉里吉里地区へ。

15年前に境目を目撃していたエリアがこの界隈だということは、「答え合わせ」の過程の中で確信していた。

8年振りに再会したKさんとお話ししたのは5分程度だったが、この界隈でも避難を余儀なくされたこと、実際に山肌が燃え、火の手が上っていたことを教えてもらった。

今回の山林火災のお見舞いを伝え、またの再会を約束して別れた。
少し進んだ先で車を停め、一部が焼け焦げた山林に目を向けた。

この地域で生活される方々の安寧が一日も早く訪れることを願うしかなかった。

吉里吉里地区。山肌の一部が黒くなっていた。

僕の中での伏線回収はこれで幕引き。
「答え合わせ」も100点満点だった。

それでも被災地に寄せる想いはずっと持ち続けようと思う。被災地云々というよりも、美しい風景や美味しい食材を発掘し、地域の人たちと触れ合うって、本当に楽しいからね。

久慈市・喜多八食堂のうに丼(生ではない方)

塩ベースの磯ラーメンは絶品

 

2011年4月の伏線回収と答え合わせの旅 ~2026年5月・岩手県大槌町へ(前篇)

弘前市で生まれ育った者としてこれまで、大型連休は県内外からやってくる客人を迎え、もてなす側の立場だった。

2000年代に入ってから顕著となった気象変動により、日本国内の桜の開花時期は急速度で早まり、かつては大型連休がソメイヨシノの見頃のピークを迎えていた弘前公園も、その開花が早まっていった結果、大型連休は、ソメイヨシノの散り際か葉桜の時期となりつつある。

結果、大型連休期間中にうちへやって来る客人も減り、逆にこちらから県外へ足を運んでみたいと思い始めたのが、豪雪のピークを過ぎた2月下旬。

とはいえ人ごみは嫌だし渋滞にも巻き込まれたくない。それなら近場でも構わないと思い、再び三陸海岸を訪れてみることにした。

しかし2月下旬では動き出しが遅過ぎたのだろう。既に多くの宿は予約で埋まっており、ようやく見つけたのが大槌町にある民宿。善は急げと5月4日からの1泊2日で予約を入れた。

―――

遡ること15年前の2011年4月18日。被災地支援(2次物資拠点での支援物資の仕分け等)のため宮古市に派遣されていた青森県からの支援チーム数名は、午後からの業務が手薄になったこともあり、市職員に勧められるまま宮古市から公用車で大槌町へ向かっていた。

大槌町までの国道45号は、ほぼ沿線全てで土埃が舞い上がっていた。今になって思い返せば、あれは土埃ではなく海から上がってきた砂や泥が乾いたものだったのだろう。

途中で車を路側帯に停め、数枚の写真を撮影、更に少し先へ進み、ホテルと思われる建物に突き刺さった車両を撮影した。

その先では、難を逃れたエリアと津波によって破壊されたエリアの境目に言葉を失い、ほどなく大槌町中心部へ到達。機能を根こそぎ失われ、誰もいない役場を目の当たりにし、結局その場では何もできない無力さに打ちひしがれたまま宮古市へ戻った…。

―――

意識しているつもりはなかったが、昨年後半から三陸海岸に足を運ぶ頻度が急に増えた。そんな中で見つけた大槌町の民宿に今回宿泊することができるのも、何かの御縁か引き寄せなのだろうと勝手に思った。

5月4日、東北道~釜石道を経由し、遠野市などに立ち寄りながら、15時過ぎに釜石道から三陸道を北上。

幾つかトンネルを抜け、大槌町に入ると…。

―――

4月下旬は数年に1度あるかどうかの出来事が相次ぎ、心身共に結構なダメージを負い、実は大槌町への訪問を躊躇していた。

20日、三陸沖で発生した地震と津波、そして後発地震注意情報の発表。
21日から22日にかけて暴風警報発表
22日には県内で3年振りとなる鳥インフルエンザ発生
同日夜には岩手県大槌町で発生した山林火災で緊急消防援助隊出動

特に大槌町で発生した山林火災は、町民の3割に避難指示が出される状況となったが、それでも、東北各地から参集した緊急消防援助隊や災害派遣された自衛隊、更には地元の消防団の懸命な消火活動もあり、町面積の約8%を焼失して2日午後に鎮圧した。

地震・津波に山林火災の影響もあり、大槌町内では宿泊のキャンセルが相当数あったらしい。

この時期に訪問していいものかと思案しつつ、大槌町在住のKさんに聞いたところ「是非来て欲しい」とのこと。

そうですよ!こういう時だからこそ被災地を応援するって大切じゃないですか…。

―――

大槌町に入ると、確かに焼け焦げたようなにおいが微かに感じられる。

最初に目指したのは、旧大槌町役場跡地。

15年前、目にして絶句した役場の建物は既になく、跡地は綺麗に整備され、子供たちがバスケットボールに興じていた。あの時見た光景は跡形もなかった。

旧大槌町役場。 上段は現在。下段が2011年4月。

モニュメントとして設置された石碑の内容をしっかり目に焼き付けながら、静かに思いを馳せてその場を後にした。(後篇に続く)

熊本地震から10年 ~記憶と記録~この先に繋ぐために 

2016年4月に発生した熊本地震から、今年で10年という節目を迎えた。 

同じ地域で短期間に震度7を2度も観測するという、観測史上でも極めて異例かつ大きな災害だった。直接的な被害にとどまることなく、その後の避難生活や体調悪化などによる「災害関連死」も多数を占めたことも一つの特徴として取り上げられ、避難時における生活環境の確保がクローズアップされた。 

僕が支援に入った益城町をはじめ被災地では、道路をはじめとするインフラ整備や住宅再建が進み、見た目の復興は着実に進んできた。一方で、ここでもやはり「記憶の風化」という課題が浮き彫りになっているようだ。十年ひと昔。長いようであっという間の10年という月日は、時間軸においては微妙な距離感にあるのだと感じる。 

現地での経験が教えてくれたもの

発災から約2か月後、被災地の益城町で支援業務に携わった経験を以前このブログに投稿した。僕にとっては、初めての本格的な被災地支援だった。なるべく文字で伝えたいことを自分なりに整理したつもりであったが、被災地の現実は、やはり現地に足を下ろしてみないとわからないものだ。 

女子マラソンの先駆者はこの日に合わせて着用したTシャツに反応してくれた

避難所で目の当たりにした、日常を奪われた人々の暮らしと、少しでも前に進もうとする姿。 そんな被災者の方々と日々接しているうちに、僕の琴線は大きく揺さぶられた。 

現地では、目に見える被害だけでなく「生活基盤そのものが揺らぐ」印象を受けた。 
その日を境に、それまで当たり前だった生活環境が失われ、地域のつながりが断絶される。 

被災者にとって熊本地震は、生きている中での単なる一つの出来事ではなく、人生に暗く長い影を落とす出来事だったのは言うまでもない。 

そして、現地に滞在して強く感じたのは、烏滸がましくも「支援する側もまた学ばされる」ということ。災害は決して他人事ではなく、いつどこで誰の身に起きてもおかしくない現実であることを突き付けられた。

10年という時間で学んだこと

10年が経ち、被災地の復興は進んだ。しかしそれは、次に備えるための単なる通過点でもある。 

熊本では今も、地震の経験を活かした防災の取り組みが続いている。だが一方で、「備えをしていない」「意識が薄れている」といった声もあるらしく、災害の記憶をどう継承するかが大きな課題となっているようだ。 

災害は、忘れた頃にやってくる。だからこそ、「自分事として考える」ことが何より重要だということは、拙稿でも幾度か取り上げた。あのとき何が起きたのかを振り返り、自分ならどう行動するのか。日頃から考え続けることが、この先違う形でやってくるかも知れない被害を減らす唯一の方法だろう。

熊本への想いを少しだけ

熊本市には友人や知人がいる。地震のニュースを見ながら、無事を祈るしかなかったあの日の記憶は、今も忘れることができないし、現地に足を運び、最終日の熊本空港で知人と会うことができた時は、本当に嬉しかった。 

あれから10年が経ち、実は熊本を再訪するという「約束」が未だ果たされていない。 

益城町はどうなっただろう。熊本市はどうだ? 

復興した街を自分の目で見て、そこに暮らす人たちの「今」を感じたいと強く思い始めているのは、昨年、三陸沿岸部を数度にわたって再訪したことも一つの契機だろう。 

地域支援の一環で熊本県天草市の楽園珈琲さんから購入

もう一つ。 
「熊本マラソン」への出走は密かな目標となっている。 

復興した街を走ることは、自分自身の記憶をつなぐ行為になるのではないかと思う。そして、街の風景や人の温かさに触れながら走ることで、熊本という土地をより深く理解できる気がする。 走ることで応援を。そんな関わり方もあっていいのではないだろうか。 

完走した暁には、太平燕や熊本ラーメンを思う存分堪能してみたいし。

最後に

熊本地震から10年。 
人間という生き物は、時間の経過とともに都合の悪いことは忘れてしまうが、絶対に忘れないこともある。 

約10年前、熊本の地で触れたさまざまな教訓と、人と人とのつながりの大切さ。 
熊本に赴き、被災地支援を行ったことは、間違いなく今の自分の礎となっている。 

災害は、前触れもなくいつも突然やってくる。 
だからこそ「あの時」を、これからの「いつか」に活かしていくことを考える。 

それが、熊本地震発生から10年という節目にできる、自分なりのささやかな向き合い方なのかも知れない。 

東日本大震災から15年

2026年3月11日で東日本大震災から15年という節目を迎える。
3.11に寄せる思いは、これまでも幾度となく投稿しているが、改めて思いを新たにしたい。

〇2011年3月11日 午後2時46分
僕は6階建の庁舎1階にある職場内にいた。大きく長く続く揺れ。不気味に軋んだような音に、建物倒壊の恐怖を覚えた。咄嗟に頭をよぎる。家は大丈夫だろうか。家族は無事か?

職場内の電気が消え、機転を利かせた職員の携帯電話のワンセグ機能から得られる情報だけが頼みの綱だった。10メートルを超える巨大津波がやってくると声を震わせる。
言葉を失うとは、まさにあのことだった。

何とか無事に帰宅。光を失った街の頭上に、これまで見たことのないぐらい澄んだ星空が広がっていたことが記憶に甦る。

〇あれから15年
時は流れ、街の風景も人々の暮らしも大きく変わった。
だが、あの日の記憶は僕自分の心の中から決して消えることはない。

震災から年月が経った昨年、久し振りに三陸沿岸の被災地を訪れる機会を得た。

八戸市から沿岸を南下しながら、岩手県宮古市、釜石市、そして陸前高田市へ。
その1か月後には、業務の一環で宮城県石巻市にも足を運ぶことができた。

かつて住宅や商店が立ち並んでいた場所の多くは、防災公園や広い空地として整備されていた。整然とした景色だけを見れば、そこがかつて甚大な被害を受けた場所だとは想像しにくいかも知れない。

2015年4月18日 宮古市浄土ヶ浜にて

〇被災地を訪れて感じた「静かな重み」
その地に立つと不思議と感じるものがある。

そこにあったはずの人々の生活や営み、そして失われた多くの命。
「目には見えない重み」がそこにはあった。

石巻市南浜地区。震災の記憶を伝える復興祈念公園が整備されている。
そこでは、津波が川を遡上し被害を拡大させたことなど、当時の状況を知ることができる。

追悼の広場に立つと、自然と言葉が少なくなる。思いを胸に、静かに手を合わせるしかなかった。

〇着実に進む復興と、これからの課題
震災から15年、被災地の復興は着実に進んでいる。

嵩上げされた道路、壁のような防潮堤、新しい住宅地も作られた。
街並みは以前とは大きく変わり、新しい暮らしが始まっている。

しかし同時に、もう一つの課題も見えてくる。
それは、「震災の記憶をどう伝えていくのか」ということだ。

2011年4月 大槌町役場 言葉がない

被災地では語り部の活動や震災伝承施設の整備が進んだが、記憶を未来へ繋ぐ努力は、被災地以外で生活する我々も継続しなければならない。

〇災害は「いつか」ではなく「また確実に」起きる
東日本大震災以降も、国内では多くの災害が起きている。
熊本地震、北海道胆振東部地震、そして能登半島地震。

昨年12月には、青森県内でも震度6強の地震を観測した。

地震だけではない。大雨、暴風、火山、豪雪など、さまざまな災害が脅威として人々に迫る。
そうした災害に脅かされるたびに、防災の重要性を改めて思い知らされる。

日本は、地震や豪雨、台風をはじめとする自然災害とともに生きる国だ。
また確実に起きるその時のために、あらかじめ備える必要がある。

いざその時には、自らの命を守り抜くことはもちろん、助け合い、支え合いながら困難を乗り越えることも重要だ。

過去の災害から学ぶことはたくさんある。

改めて被災地を訪れ、そこから学び、日常の中で防災を考え続けることは、僕自身が今できることであり、未来の被害を少しでも減らすことに繋げる契機になるのではないか。

そして、防災を「他人事」ではなく「自分事」として捉えること。
このことだけは何とかして、皆さんにも感じて欲しいところだ。

〇15年の節目に思うこと
危機管理に配属されて10年が経とうとしている。
災害対応そして防災対策には絶対的な正解がない。
10年で何かをやり遂げたと胸を張れるわけではないが、先人の言葉に耳を傾け、失敗を含めた先例に理解を深め、学び、教訓を得ながら、自らをアップデートし続けたいと思っている。

2015年4月 三沢市沿岸部にある津波監視カメラ

15年という時間は長いようで、決して長くはない。

残念ながらこれから先、当時の体験を直接語れる人は少しずつ減っていく。
だからこそ、当時を知る僕たち一人ひとりが記憶を繋ぐ役割を担っていかなければならない。

東日本大震災は、決して過去の出来事の一つではない。
未来の命を守るための教訓として、今も僕たちに問いかけ続けている。

3月11日という日を迎えるたびに思う。
あの日を忘れないこと。
その記憶から学び続けること。

これこそが、震災で失われた多くの命に対して、僕たちができる最も大切なことなんじゃないかな、と思っている。

2026年事始め(後篇)~念願のこんぴら参り~

2日目。この日が今回の香川県訪問のハイライト。初めての香川県が県庁所在地の高松市ではなく、琴平町だというのも何かいい。その琴平町で、自治体職員を中心とした集まりである「四国OM(オフサイトミーティング)の勉強会が開催されるというので、それに参加するのが今回の目的だった。
開催は午後1時からなので、まずは朝、「こんぴら参り」をすると決めていた。自分の中では、香川県を訪れると決めた時点で絶対にこれだけは敢行したいと思っていた。なので、6時30分に起床(前日より3時間も遅い起床。笑)した時点で既に心が躍っていた。

到着した前日、香川県内なのに雪がちらつくという光景を目の当たりにし、雪を連れてきてしまったと凹んだが、朝はキリリと身が立つような冷たい空気が町を覆っていた。ちょうど午前8時、いよいよ宿を出発し、こんぴら参りをスタート。

こんぴら参り(1) 旧高松街道から参道を抜け、石段へ。象頭山に鎮座しているので象がいたり、海の神様なので船舶用スクリュープロペラが奉納されていたり。

目的地は1368段の石段の最奥にある厳魂神社(奥社)。香川県の地図全体は頭に叩き込まなかったが、金刀比羅宮の配置は頭の中に叩き込んでいたので、だいたい1時間もあれば辿り着けるだろう、という算段。喉の調子は相変わらずだし声も出ないが、走る格好だけは完ぺきだった。
表参道をとおり、いよいよ石段へと差し掛かる。まずは本宮を目指して一歩一歩足を運ぶ。

石段の両側に立つ土産物店や飲食店も気になるところだが、まずは先を目指す。
前日に降った雪か雨が石段を濡らし、少し走りづらいところもある。というよりも、大門が見えてきた300段にも到達しないうちに息切れを発動し、喉がヒーヒー言い始める。呼吸を整えるため歩きに変えたり途中でまた駆け上ったりを繰り返しつつ、途中あちこち寄り道しながら8時30分前に本宮到達。ちょうど授与所が開いたようなので、御朱印等を授かる。

こんぴら参り(2) 本宮から奥社へ。うっすらと雪が積もっている光景に、複雑な思いを抱いたのは事実。

さてと。一呼吸整えて、更に先にある奥社を目指す。本宮周辺には、御祈祷のためにやってきたと思しき造船会社の方々が大勢いたが、奥社へと続く石段は一気に人の数が減る。途中、うっすらと積もる雪を避けながら、8時50分に奥社へ達した。

達成感なのか澄んだ空気のせいなのか、気持ちが洗われる。パワースポットと言われるのもわかる気がした。ここでも御朱印とお守りを授かり、来た道を下る。

こんぴら参り(3) 復路は膝がガクガク。神馬の2頭とじっくり対峙できたのは良かった。

上りの石段はヒーヒー言いながら脚がパンパンになりそうだったが、下りの石段は滑るかも知れないという先入観が発動し、内心ビクビク膝ガクガク状態になりながら下った。

石段の69段目、金刀比羅宮境内で特別に商売を許されている「五人百姓」のうちの1軒である「池商店」に立ち寄り、「加美代(かみよ)飴」を購入していると、先週初めてお会いしたばかりの坂出市役所職員、藤田さんとバッタリ遭遇。

加美代飴。箱の中には小鎚が入っています。飴を割って幸せを分け合う、という意が込められているようです。

「後ほどお会いしましょう」と声を掛け合い、無事「こんぴら参り」を終えて宿所に戻った。
昼食にはまだ早いが朝食を取っていなかったので、その藤田さんに教えてもらった「むさし」でカレーうどんを食らう。流儀としては、うどんを食らった後に白米をぶち込んで食べる、というのが美味しいらしい。

「むさし」のカレーうどんとご飯。福神漬けが付いてきた。

うどんを食べ終えた後、残ったカレーにご飯をイン。これが美味い。

…確かにこれはうまい。というか、こんなカレーうどんを食したのは初めてかも知れない。
こういった「初経験」にまたしても心ときめきながら、次の目的地へ。

前夜の懇親会の場で、福田さんから日本最古の芝居小屋「旧金毘羅大芝居」(金丸座)が今回の会場のすぐ近くにあると聞いていたので、開場の前に訪れてみようと決めていた。

入館料500円を払い、中へと足を踏み入れる。入場して靴を脱ぐと、ガイドを務める年配の方に「もしよろしければご案内しますよ」と声を掛けられる。
ガイド料は無料なので、絶対にお話を聞いた方が良いです。

「旧金毘羅大芝居」(金丸座)。いやあ、素晴しい施設だった。ここはホントに行って良かった。

春には「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催され、錚々たる顔ぶれの歌舞伎役者が顔を揃えるという芝居小屋。造りもさることながら、その一つ一つの建築美にうっとりしながら、約40分間にわたって中を回った。

四国OM勉強会の会場は、この建物の至近距離、道路を挟んだ反対側にある琴平町公会堂。
こちらもまた木造日本建築の立派な建物で、中もまた、こういう建築物大好きな私が心躍らせるような、非常に立派な建物だった。

四国OMが開催された琴平町公会堂。素晴らしい建物で、熱のこもった勉強会が繰り広げられた。

13時から始まった勉強会は休憩を挟んで17時過ぎまで続いた。
琴平町の町長も参加した今回の勉強会、私はどちらかといえば部外者的立場なので傍観していようと思ったが、一緒に参加した皆さんの熱い思いに乗せられ、問題点や課題のあぶり出し、その解決方法に頭を捻った。

会場の後片付けも参加者みんなで実施。夕方から開催された参加者同士の交流の場となる懇親会にも参加させていただいたが、何せ声が出ない。

勉強会当日に誕生日を迎えた福田さん。喜色満面の笑みにみんなが癒される。

これに呼応するように体調も相当悪化し、頭もボーっとする中、失礼極まりないとんでもない失態を2度にわたり繰り返してしまったため、一次会で逃げ帰るように宿所へ戻った。

3日目。この日は青森へ帰るだけだが、どうも天気が怪しい。またしても寒波の影響で大雪となり、航空機が飛ぶかどうかもわからなくなってきた。高松空港からの帰りの便は、初日に50分遅れで高松空港に降り立った便の折り返し。琴平から坂出経由で岡山まで行き、山陽・東海道新幹線と東北新幹線を乗り継いで帰ることも頭をよぎったが、ひとまず空港に行ってみることにした。きっと行けば何とかなるだろう。

気を揉みながらかなり早めに空港へ向かったが、結局高松からの便はほぼ定刻に高松空港を離陸、機上の人に。
が、予想通り羽田からの乗継便が遅れたため、結局青森空港には30分遅れで到着、自宅に戻ったのは20時頃だった。

初の香川県は最初から最後まで気を揉み続けることとなったし、体調不良もあり忸怩たる思いをすることも多々あったけれど、琴平町の雰囲気がとても良くて、また訪れてみたいと素直に思った。

今回お目にかかれた皆さまには心から感謝申し上げるとともに、自分の不手際で聞き取りにくい声や突然の咳き込みなどにより御迷惑をお掛けしたこと、そして、失礼極まりない失態により不快にさせてしまった方々に、心の奥底深くからお詫び申し上げます。

皆さん、本当にありがとうございました。そして、本当に申し訳ありませんでした。
いつか絶対また香川に行くぞ。

結論。香川県内のうどんはどこでも美味しいっす。

釜玉うどんに鯛ちくわをトッピングで頂きました。

琴平町の醬油屋さんの店頭に貼ってあった。正体不明に心ときめく。