日別アーカイブ: 2011-03-04

前例主義

役所というのは、とかく前例主義を踏襲する傾向が強い。中にいればわかることだが、とにかく「昨年はこうだった、以前もこうだった。」と、前例を盾にして物事を進めようとするケースがよくある。

僕の場合、今取り組んでいる仕事(特例民法法人の移行に関する業務)が、ほとんど前例のない仕事であるため、場合によってはこちらが「前例」を作り出すということもある。

言うまでもないが怖いのは、この前例が誤った方向性を導き出さないかということだ。
なので、結果としてこちら側としても審査に慎重を期することとなるし、当然国や他の都道府県の動向を見極め、どのような「前例」があるのかを探る。そして、前例の内容を一定の「指針」とすることもあるのも事実だ。ただ、現時点でその「前例」や「指針」が正しいものかどうかは、正直わからない。
ただ、少なくとも「前例」いかんに関わらず、法令に照らし適正と見なされれば、それ相応の判断が下される、ということだけは明らかだ。
今後事業の実施状況等が検証されて行くにつれて、この「前例」や「指針」が正しいかどうか、明らかになることだろう。

「前例主義」は何も役所だけに限ったことではない。例えば過去の最高裁の判例が一つのリーディングケースとなって、高裁や地裁の判断の指針となっていること一つみれば、なるほどと溜飲を下げて頂けるのではないかと思う。
民間企業でも恒常的に行われている業務というのは、結局「前例」があるから恒常的に行われているのだ、ということになるだろう。

京大のカンニング事件。結局カンニングを行った受験者が「犯人」として逮捕されて、事件は収束の方向に向かいはじめているようだ。

マスコミはこれに託けて、「犯人の素性」を暴こうと、別に知らなくてもいいような遍歴までも明らかにしている。いくら社会を騒がせたとはいえ、今回の犯人が「未成年」であることを鑑みると、ここまで暴露するのはいかがなものかと思う。むしろこちらの方が辟易するぐらい生々しい内容だ。もはやこうなると、報道の規制などあったものではない。恐らく地元では既に誰なのかが明らかにされ、そしてネット上で実名が暴露されているのだろうか。
ある意味これも過去の「前例」があってのことだろうが、こういう記事は好ましいものではない。

「目立たない生徒」「真面目」=バスケ部で地区大会優勝―入試問題投稿・山形(時事通信 3月3日(木)19時11分配信)

「目立たない生徒だった。まさかという思い」。入試問題投稿事件で逮捕された男子予備校生(19)が昨年卒業した山形県立高校の校長は3日、驚いた様子でこう話した。
県教育委員会から2日、同校にこの予備校生の受験大学を調べるよう指示があり、家族に確認したところ、京都大や早稲田大など投稿が発覚した4大学と一致した。
校長は「写真を見て思い出した。英語よりも数学が苦手だったが、3年の後半から成績が上がり始め、教諭の間でも話題になったことがある」と振り返った。ただ、「京大を受験するとは思っていなかった」と話した。現役時には早大と明治大を受験したが失敗。今年、母親から「早大に受かった」と同校に連絡があったという。
(以下詳細に渡る記述。略)

…とまぁ、こちらとしてはインタビューに答えている学校校長の素性が知りたいぐらいだ。一体何を考えてベラベラ話しているのか。これが教育者としてしかるべき対応なのか。

閑話休題。
しかしこのように「犯人」が叩かれる一方で、果たして大学側は「被害者面」していていいのだろうか、と思ってしまう。

大体、試験中の監督が一体どのように行われていたのかが全く明らかになっていない。他の大学では、事件が明らかになってから、慌てて試験監督の増員やら携帯電話の取扱やらに注意を払っているようだが、何を今更、といった感も否めない。

いろいろ原因を探っていけばキリがないし、また例のごとく最後に帰着するのは「結局のところ社会が悪い」というありがちな結論になりそうな気がするので、深く掘り下げることはしない。

ただ一つだけハッキリしたことがある。「カンニングは犯罪だ」という前例が出来上がったことである。大学の試験中にカンニングを行ったものは大学の「業務」を妨害する「犯罪者」であり、試験の監督(その「業務」)がいかに杜撰であろうとも、大学側は「被害者」だという「前例」、構図を作り上げた、ということだ。

だから、不謹慎を承知で言わせて頂くならば、カンニングを考えている人たちは心して取り組んだ方がよい。場合によっては逮捕され、自分の過去の生い立ちから素性まで、まるで死にかけた動物に群がるハイエナのようなマスコミに晒されるということを、頭の片隅に入れておくがよい。

今回の事件と「犯罪者の逮捕」を受けて、京大総長は、「監督態勢は万全だった。それをかいくぐったのであれば、新たな対応を考えていく」と述べたそうだ。

万全の中でもカンニングが行われたという事実と、どう向き合うのか、全く明らかになっていない。「起こってしまったものは仕方ない」という開き直りのようにも取れる。結局のところ、「新たな対応」を考えなければならない時点で必ずしも万全ではなかった、ということではないのか。

最後に。事件の舞台となった京大の現役学生がこのような発言をしていることに注目。

「日本中を騒がせていた人物が捕まってよかった。今後、大学はいろいろ対策をとるだろうが、もっとすごいカンニングの手口は出てくると思う」。

この発言の包含する意味を考える。暗に「大学がいくら手立てを講じても、カンニングしようと思えばいくらでもできるんだよ。」というようにも受け取れるのだが、それは考えすぎだろうか。

たかがカンニング、されどカンニング。「魔が差しましたごめんなさい。」では済まされない窮屈な世の中になってしまったということか。あ、結局社会のせいにしてるし。