月別アーカイブ: 2013年1月

さようなら、41歳。こんにちは、42歳。


私事ではありますが、今日1月29日で42歳となりました。

さすがにこの年代になると、誕生日を迎えてもそんなに嬉しさがこみ上げてくるわけでもなく、むしろ馬齢を重ねていくことへの寂しさの方が強い、というのが正直なところ。でも、色んな方から「おめでとう」と声を掛けていただくのはやっぱりちょっと嬉しいものですね。特にFacebookのタイムラインが「おめでとう」のメッセージで溢れかえっているのは、圧巻でした。幼なじみに畏友、同級生、きょうだい、よくお目にかかる方々、数回しかお会いしたことのない方、まだ一度もお会いしたことのない方…去年も凄いと思ったけど、今年はそれ以上に凄かった!皆さん、本当にありがとうございます。

未だ戸惑ってばかりの42歳。41年間も駆けずり回ってきたのに、実は全然軸が定まっていないし、相変わらず地に足が着いていないような日々。
走るってことは、一瞬の空中浮遊の連続だけど、駆けずり回ると走るでは、ちょっと意味が違いますね。…あ、これって浮き足立っているってことかしら?

さてこの年代は、一番脂の乗った時期だということをよく耳にします。いろんなことをバリバリこなす年代だって…。

でも、一歩引いて自分はどうかと見てみたときに、正直言って「バリバリ」というよりは「フニャフニャ」。
特にここ最近は、僕の周囲の同年代の人たちの活躍が本当にめざましく、何か自分は蚊帳の外というか、そういう後ろめたさがあったりするのも事実。

過去は振り返らないといいつつ、自分が輝いていた頃の過去にすがろうとしている自分。ああ、情けない…。

そういった意味では、脂の乗った時期とはいいながら実情は全然違っていて、それはまさに自分の衰え始めた身体のことだけを指すのかも知れません。事実、冬場に入ってかなり脂が乗ってますから…早い話が、メタボってヤツです。

20年前、前例踏襲を基本とする仕事に就き、仕事を進めていく中で、そればかりが全てではない、前例がないものは自分が作ればいいし、道は自ずと開けてくる、いや、自分で切り開くものだ…なんてことをいい気になって考えたこともありました。しかし、いざ蓋を開けてみると、実際は引かれたレールの上に安住しているんじゃないか、道を開くなんて詭弁じゃないか…なんてことを自戒の念を込めて思うことがあります。
ただ、業務によっては、まるで前例のない業務というものもあります。そういう意味では、3年前から取り組んでいる現在の業務というのは、それほど前例にとらわれることがない(というか前例がなかった)こともあって、僕の中ではかなり「やりがいのある」仕事だと感じています。無駄に馬齢を重ねているとはいえ、こればかりは待ったなしで更に磨きをかけることが求められますので、いつでも地面を蹴り出すことができるように、蹄鉄だけは常に磨いておきたいと思います。

42歳ということは、もう人生の折り返し地点をとっくに過ぎてしまったのかも知れませんし、実は42.195歳がゴールかも知れません。でも、こればかりは誰にもわからないんですよね。

父の人生に準えちゃいけないと思いつつも、父に準えてしまうと、もう3分の2か…なんてことをついつい考えてしまうわけです。
そんな父は僕にとって憧れでありつつ、反面教師でもありました。一生かかっても追いつき追い越すことのできない存在。せめてそんな父よりは長生きしたいところです。その年齢までは、あと20年近くもあるけど(笑)。

父の見倣わなければならないところ、見倣わなくてもいいところ、その取捨選択をしつつ、いい加減「マガのセガレ」という肩書きを下ろせるよう、ちょっとだけ頑張ってみます。

…ああ、すいません。また父の話をしてしまいました。

こういうことを自分で言うのも変な話なのですが、僕って相当いい加減なのかも知れません。いい加減というか、適当。でも、高田純次にはなれるはずもないし、そんなの誰も求めてない。自分の存在が何なのかさえ、わからず震えている42歳。理想の人間像すら浮かばない42歳。もう一度自分自身と対峙して、自分をしっかりと見つめ直さなければならないのかも知れません。
相変わらずまとまりのないこんな私ではありますが、どうぞ今後ともご指導ご鞭撻を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

で。今年は後厄なんですが、お祓いは行きません。前厄のお祓いもしてないので。
…まずは免許の更新に行かないと(笑)。

…って、やっぱりまとまってないな。


実名報道と、プライバシーと。


今日は、これまで公にしていなかったことをネタにしようと思う。凄く重い内容なので、正座して閲覧して下さい(ウソ)。

アルジェリアで起きた人質殺害事件。
当初、人質の氏名は政府が非公開としながらも、一部マスコミの「暴走」により、政府も日揮も氏名を公表せざるを得なくなった、といった感がある。

NAVERまとめにこの件に関する色んな見解が詳しく掲載されているので、こちらを参照して頂きたい。

賛否両論あるところではあるが、僕個人としては実名報道には反対だ。
実名報道の後、親族の方々がネットに投稿したり、テレビのインタビューに応じたりする姿を見かけたが、親族(遺族)としては「頼むからそっとしておいて欲しい」というのが正直なところではないかと思うし、その気持ちが僕にはちょっとだけわかる。

事件を風化させないためだ、弔いのためだ、というマスコミの方々の意見も目にしたが、じゃあ過去に起きた事件で実名報道された数々の重大事件の被害者の氏名を、誰が記憶しているだろうか。

弔いといえば聞こえはいいが、別に実名を出さなくとも弔いの方法はいくらでもあるだろう。

要は報道がワイドショー化した結果、どの社よりも先に実名を報道することに躍起になっているだけではないのだろうか。「実名報道」することがスクープみたいになっていただけなのではないか。
ただ、一つだけ言えること。実名が明らかになろうがなるまいが、マスコミは遺族の元へと押しかけてくるものなのだ。そして、事件が一定の収束を見る頃には、まるで何事もなかったかのように、素通り。そこに残されるのは、マスコミに躍らされたという空虚感。

今回の実名報道を巡っては幾つかの記事を拝見させて頂いたが、個人的には佐々木俊尚さんが投稿した「アルジェリア人質殺害事件とメディアスクラム」という記事が一番しっくり来るような気がした。
 
ちなみに、僕の親族や知り合いに今回の被害者が含まれているわけではない。
なぜここまでこのことを考えているのかといえば、5年前、父が亡くなったときに僕は、恐らく今回の遺族が経験している苦しみに似た経験をしているからだ。

—–

平成20年9月7日、父は誰にも何も言わず、突然この世に別れを告げた。
現職市議のスキャンダラスな死というショッキングなニュースはあっという間に弘前市内を駆け巡り、父の亡骸とともに自宅に帰るや否や、マスコミからの電話や自宅訪問が殺到した。

今でもハッキリ覚えているのだが、あの日、家に電話を掛けて来たのは新聞社だけだった。父の死を知った人たちは、電話ではなく家に直接駆けつけたからだ。新聞社の人たちは開口一番、悔やみの言葉どころか、ただ「事実関係を知りたい、第一発見者は誰だ、どういう状態で見つかったのか。」といったことを聞いてくるばかり。
こちらの心情なんぞまるでお構いなしだった。
正直、この時ほど「頼むからほっといてくれ」と思ったことはなかった。なので、「今、それどころではないので。」とやんわりとはぐらかし、受話器を置いた。

確かに報道する立場からすれば、「真実」を伝えなければならないという使命感に駆られてのことなのかも知れない。

しかし、スチールカメラをぶら下げて、弔問客に紛れて靴を脱ぎながら、「すいませーん、ちょっとお話よろしいでしょうか…。」とやって来たマスコミ関係者に、遂に僕はぶち切れた。
「お前ら一体何なんだ!今お前らの相手をしている余裕なんてない!帰れ!」

…しかし、彼は帰っていなかった。家の玄関から離れた県道脇に佇み、やって来た弔問客から色々情報を得ていたのだ。

でも、悲しいかなその中で一番腹が立ったのが、親戚の対応だった。その後、マスコミへの箝口令を敷いたはずだったのに、掛かってきたマスコミからの電話に、実にご丁寧な対応をしていたのだ。
「どこから電話?」
「いや、…○○新聞から。」
「…ん?で、何を話したの?」
「…。」

翌朝の各紙朝刊には、父の死が大々的に報じられていた。中でも、○○新聞の記事が、一番的を射た内容だった。

僕は一切口を開いていないのに、誰から聞いたのか、記事には事実と全く異なることも書かれていたが、もはや反論する気にもならなかった。
面白可笑しく書きたければ書けばいい。所詮田舎での出来事だ、みんなすぐに忘れるよ。
そう慰められたが、弔問客が手に手に持ってくる新聞記事を見ながら、僕のはらわたはずっと煮えくり返っていた。それは、僕に話を聞きたいと言った数多くの記者の中で、最初に「このたびはお悔やみ申し上げます。」と言った人が、たった一人しかいなかったからだ。
別にお悔やみの言葉を聞きたいということではない。礼儀すらわきまえない記者の無礼な態度がどうしても許せなかったのだ。

そんな新聞記事に躍らされ、怒鳴り込んでくる弔問客もいたが、もはやマスコミもそんな弔問客も、相手にする気にならなかった。心身ともに、本当に疲れていたのだ。

「もう、いいだろう?父はもう、帰ってこないんだから。そっとしておいて下さい。頼むから。」
その時の切実なる思いだ。
直後に、あの気丈な妻が心労で倒れたことも、余談ではあるが触れておこう。

あれから4年4か月が経ち、我が家には見かけ上の平穏が訪れているが、あの日、奈落の底まで落とされた時の忸怩たる思いは、今回の実名報道を巡る是非でまたフラッシュバックしたように蘇ってきている。

僕の中では、あの時の出来事が一種のトラウマとなり、マスコミ不信に繋がっていることを今だから明らかにしよう。

僕らにとっては、それぐらい辛い出来事だったのに、遺族への配慮などまるでなかったあの時の記者の方々は、今どこでどんな取材をしているのだろう。

…もっとも、そんなことを是非知りたいなんて微塵にも思っていないが。今回の被害者の実名と同じぐらいに。


10年と3か月と11日


このブログを始めるようになってから11年目に突入していたことにふと気づいた。

元来飽きやすい性格で、こういった類のものも長続きしないだろうと思っていたら、11年目。ちなみに、2003年10月11日からエントリーが始まっていて、この日のことは今でも覚えている。
「朝帰り」というタイトルで、夜釣りの帰り、東の空から昇る太陽を車内から撮影した画像のみ投稿していた。(結構型のよいクロソイが釣れたんだよな。)

この日から投稿が始まり、正確には10年と3か月と11日が経過したことになるのだが、ホントは数か月前から投稿が始まっていた。しかし、アップデートの際にデータのバックアップを取り忘れ、エントリーしていた数か月分の記事を消去してしまったこと、更にその後、投稿していた記事の画像データを誤って数年分消去してしまったことは、今でもちょっとだけ悔やまれる。

自分としては過去は振り返らないつもりでいたのだが、自分がその時何を思い、何を考えていたのかを時々振り返ると、面白いと感じることもあるし、自分の視野や見聞が少しずつ広がってきたことも、何となくわかる。

過去の投稿については一定期間を経てもう一つのブログにまとめているのだが、恐らく僕しか閲覧していないはずだ。…いや、それでいいのだ。

ちなみに一番気を吐いていたのが2005年頃で、この頃はほぼ毎日何らかのネタを投稿していた。しかし、改めて読み返してみるとかなり稚拙な内容もあって、タイトルを見ただけで赤面してしまった。
これも若気の至り、と言いたいところだが、30代も半ばに差し掛かって若気って、ねぇ(笑)。

ところで僕は、自分を支えていたのは家族であり、今も家族が支えてくれている、ということを自負している。
なので、陰ながら僕を支えていてくれたはずの父が亡くなった頃の投稿は今でも時々読み返していて、そのたびに亡父へ思いを巡らせることがある。
特に、色んなことで苦しくなったときに当時のことを読み返すと、父には申し訳ないがあの頃に比べたら今なんて全然マシだと思い、少しだけ気分が軽くなるのだ。

今でもそうだが、ブログといっても何かこちらから情報発信をするというよりは、ほとんどが日記。
それも内容がかなり散漫で(今日の投稿も散漫ですね)、ちょっぴりずれている焦点。読んで下さった方々の心に響くような記事を掲載できないのはお許し頂きたい。

それでも、こんな拙い投稿を読んで下さる方が今でも大勢いることに、心から感謝しています。ありがとうございます。