日別アーカイブ: 2018-06-11

祖母の七回忌と、甥っ子の冒険。

10日、祖母の七回忌法要が行われた。
95歳で亡くなった祖母。晩年は施設暮らしとなり、亡くなる数年前には僕が誰なのか認知できない状況になっていた。思い起こせば(見かけ上は)元気だった祖母と会ったのはその日が最後。

次に会った2012年1月には、祖母は施設のベッドの上で鼻に管を通され、僕の知っている元気な姿ではなくなっていた。

こちらの呼びかけに反応はするものの焦点は合わず、口を開くも何を言おうとしているのかわからない状況で、いよいよ「その日」が近いことを覚悟せざるを得なかった。

結局それから半年後の6月12日、祖母は黄泉の国へと旅立った。

仕事をしている時に妹からメールで祖母の訃報を知らされた。
翌日、動揺を抑えながら母の実家へと向かうと、祖母は自宅の畳の上に敷かれた白い布団で寝息も立てずに小さくなっていた。1月に見たときよりも、更に小さくなっていた。

弔問に訪れた近所の人が、棺の中の祖母の顔を見ながら、「長生きできて、本当におめでとう。」と声を掛けたことがとても印象的だった。

当時のブログ記事、もちろん今から6年前のものだが、それを読み返しながら、また色んなことを思い出し、感慨に浸っている。

今回の七回忌法要には、祖母が他界した1年後、まるで祖母と入れ替わりみたいな感じでこの世に生まれた5歳の甥っ子が、初めて両親(妹夫婦)のもとを離れて一緒に付いてきた。たかだか1泊2日、されど1泊2日。「楽しみだなあ♪」と車の中ではしゃぐ本人の心中、実はかなり不安だろうが、両親はもっと不安だろう。

そして、一緒に2日間を過ごすこととなるバアちゃん(=母)とオジちゃん(=私)も、かなり不安だった。

不安を感じていた最たる理由は、似た年頃の子供が全くいないということだった。40~80代という幅広な年代層の中で、甥っ子が楽しめる余地を見いだすことが、僕にはできなかった。強いていうならば、すぐ家の裏に線路が走っている秋田内陸線の列車が時々通ることぐらいだろうか。

14時30分頃、母の実家に到着。到着するなり甥っ子は従姉にベッタリだが、残念ながら従姉もヒマではない。それでも、野球中継のテレビを観たり、従姉に時々構ってもらいながら、時間を過ごしていた。内陸線の踏切の音が鳴ると「来た!」といいながら裏の窓際へと走って行く。(ちなみに最初に見た色は「紫色」だった。)

かつての国鉄阿仁合線だったこの路線、踏切の音が聞こえた途端に毎回階段を駆け上っていたのは、他ならぬ僕だった。ということで、甥っ子の姿が何だか昔の自分を見ているようで、居心地が悪かった。

夜になると伯父夫婦も集まり、大人6人が昔話に花を咲かせる。その中にあって甥っ子が話題に入って来られるはずもなかったが、時折伯父や伯母が弄ってくれたり、機転を利かせた従姉が八王子の従姉に電話をして、甥っ子の気を紛らわせていた。

しかし、実のところ甥っ子の気をどう紛らわせるか腐心していたのは大人だけで、当の本人はそれなりに楽しんでいたらしい。

翌朝10時から、菩提寺で祖母の七回忌法要が執り行われた。
甥っ子はこの時も非常におとなしく、住職が驚くぐらいだった。読経の間も、焼香の時も、大人が乗り移ったのかというぐらい甥っ子はおとなしかった。

法要のあと墓参りに向かい、伯父の家に立ち寄る。
「新幹線の運転手になる」のが夢になったらしい甥っ子に、伯父が粋な計らい。
かつてJRの助役だった伯父、当時の制帽を甥っ子に被せ、ご丁寧に白い手袋まで付けてくれたのだ。

これには甥っ子も大喜びだった。
しかし楽しかった時間は過ぎ、いよいよお別れの時間が近づいて来た。
お昼は一緒にラーメンを食べようと、伯父夫婦、従姉、そして我々の3人で、伯父の家からほど近いドライブインへ向かった。

ところがタイミングが悪かったらしく、駐車場も店も満杯で、先客が列をなしていた。
既に午後の予定があるという伯父夫婦と従姉。やむなく一緒の食事を諦め、その場で別れることになった。

伯父夫婦と従姉の車に手を振り、一路弘前へ向けて車を走らせる。

ところがこのことが相当不本意だったらしく、さっきまで「秋田、楽しいね!」と喜んでいた後部座席の甥っ子は急におとなしくなり、目を瞑り始めた。
さすがに大人とずっと一緒だったから、疲れて眠くなったかな…。

そういえば帰る途中で、メロンシェイクとフライドポテトを買うという約束を甥っ子としていた。

ついでに取り損ねた昼食を食べようとバックミラー越しに後ろを見ると、母が何やら合図を送ってくる。
よく見ると、甥っ子の服が濡れている。
泣いてる…。目を瞑ったままの甥っ子の目から、ボロボロと涙が溢れているのが見えた。

慌てて駐車場に入り、車を停める。
母が「着いたよ。ほら、起きて。」と甥っ子の身体を揺する。

甥っ子が本当に寝ていたのか狸寝入りだったのかはわからない。
ゆっくりと目を開いた途端、堰を切ったように泣きじゃくり始めた。よほど寂しく悔しい、そして本人にとって不本意な別れ方だったのだろう。5歳の子供らしさをようやく垣間見たような気がした反面、何だか申し訳ない気分に苛まれた。

あの場にとどまり席が空くことを選択しなかったことを後悔したが、母は「みんな次の予定があったんだし、何でも思い通りになるものじゃないということを教えるのも必要」と、的確な指摘をした。
とはいえ、ここで事を荒立てて甥っ子の機嫌を更に損ねるのは本意ではない。

何となく気まずい雰囲気が漂う中、結局3人でラーメンを食べた。
「みんなで食べるとおいしいね!」といつも口にする甥っ子は、終始無言だった。

弘前の自宅に到着すると、妹が既に自宅の前で待っていた。

あとで妹から聞いた話だと、「寂しくなかった?」と問われた甥っ子、「全然寂しくなかった!すごく楽しかった!」と、妹をガッカリさせたらしい。
妹はこうやって「親離れ」が少しずつ始まるという現実を噛み締めていたようだ。

大人が思っている以上に子供というのは、あっという間に成長するものだ。
そう言い聞かせながらも47歳のオジちゃんは、胸の中に燻る後ろめたさを払拭できぬまま、いつもより苦いビールを口に運んでいだ。

…そうそう。

法要の前夜のこと、従姉から昔の写真をたくさん見せてもらった。

孫が祖母を囲んでいる下の写真は多分、甥っ子と同じ5歳頃の写真だ。屈託のない自分の笑顔を見て、なぜか涙が出た。こんな純真無垢な時代が僕にもあったんだよなあ、って(苦笑)。

成長によって得られるものはたくさんある。しかし、成長によって得られた大切なものは、やがて社会の荒波に揉まれ、苦難を乗り越えていくうちにどんどん失われていくということを、改めて思い知らされた。

…さて甥っ子は、今回の冒険を経てどんな成長を遂げるのだろう。