5月14日。青森県内で発刊されている「東奥日報」夕刊。
「日々是好日 津軽富士」という月1回の連載企画の第2回目に、僕の顔写真入りの記事が掲載された。
7年前から始めているランニングと、これに岩木山のことを絡めたエピソードが掲載された、というものだ。
まず一つお断りしておかなければならないことがある。皆さんからメールやお電話などをいただき、僕自身が反響の大きさに非常に驚いているところであるが、あの記事は、僕が執筆したものではない。
取材に応じた僕の口述を、そのまま記者の方に拾って頂いただけの話であるので、ご了解頂きたい。
4月28日。
それは、「弘前公園ランニングクラブ」のFacebookページに、東奥日報のK記者の方からメッセージが届いていることに気づいたことから始まった。
すぐに代表のTさんに、Facebookページにメッセージが届いていることについて、確認依頼のメッセージを送ったところ、この件に関しては僕とOさんで対応して欲しいということになり、ひとまず僕が窓口となってK記者に連絡をすることとなった。
K記者に対し、とりあえずこの件に関する仮の窓口が私になりました、みたいなメッセージを送信すると、程なくK記者から電話で連絡があった。
「日々是好日 津軽富士」という月1回の連載記事を掲載していること、来月は「弘前公園と岩木山」をテーマにすること、記事は5月14日に掲載予定であること、そして、その内容に関して弘前公園ランニングクラブの方からお話しを伺いたい、とのこと。
具体的には、ランニングを始めたきっかけ、走っている時に何を考えているか、走っている時の岩木山はどんな風に見えているか、岩木山とランニングにまつわるエピソードなどを伺い、それを記事としてまとめたい、というものだった。
しかし電話でお話を聞いていくうちに、一つ大きな問題が発生。
取材はクラブの方どなたか1名にお願いしたい、というのだ。
はて、これはちょっと困った。
クラブの宣伝も兼ねて何人かで座談するのかと思ったら、ライフヒストリーにも似たお話を伺いたい、ということなのだ。
再度T代表、Oさん、そしてSさんも含め協議したところ、せっかくだから記者の方に実際の練習風景を見に来てもらった方がいいのではないか、という意見もあったが、結局「じゃあ、後はよろしくね」とあっさり僕が取材を受けることが決まってしまった。
しかしながら、すぐにゴールデンウィーク突入のため、取材日は極めて限られている。
ズルズルと先延ばしするのもどうかと思い、K記者に連絡を取り、30日夕方から取材に応じる約束をしてしまった。
何も準備するものはいらない、エピソードだけ教えて欲しい、その中でまた色々なお話が聞けるかも知れないし、とのこと。
さて、何を話そうか、と思っていたが、話すならば「あの事」しかないな、と腹を括った。
30日夕方、待ち合わせ場所となった職場近くの喫茶店に向かうと、既にK記者が席を暖めていた。
挨拶もそこそこに、ICレコーダーが目の前に置かれ、取材が始まった。
なるべく記事にまとめやすいよう、質問には丁寧に答えたつもりだった。しかし、時が進むにつれ色んなことを話しているうちに、自ら触れてはならないタブーに触れてしまったというか、「パンドラの箱」を開けてしまったような気分に苛まれていた。
…なぜ僕は走り始めるようになったのだろう。
…なぜ岩木山のことをしょっちゅう気にするようになったのだろう。
…なぜ僕は、今も走っているのだろう。
結局のところ僕が今も走り続けているのは、大なり小なり「あの事」、つまり父を失ったことが影響していたということを再認識することとなった。
そう、だからこそアップルマラソンをフルマラソン初挑戦の場にしたのだ。(詳細は過去の記事「42歳の、初経験」を参照頂きたい。)
記者からの質問に、何か自己分析でもしているような気分になりながら、なるべくわかりやすく、記事にまとめやすいようにお話しをさせて頂いた、つもりだ。
取材時間は約1時間30分。幾つかどうしてもお話ししておきたかったことを言い忘れたような気がしたが、とりあえず「弘前公園ランニングクラブ」のことは多少は宣伝できたはずだ。
あ、そうそう。なぜ「弘前公園ランニングクラブ」に声を掛けて頂いたのですか?
逆にK記者に質問してみた。
「実は私、4月26日早朝に弘前公園を訪れて、岩木山の写真を撮影したのですが(その時の写真が記事に使われている)、その際に弘前公園の周りをジョギングされている方をたくさん見かけまして。ピンク色のTシャツを着て走っている方もおられました。調べてみたらそれがどうやら「弘前公園ランニングクラブ」の方だということがわかり、弘前公園の周りを走ることや、走っている時に岩木山がどう見えるかについて聞いてみよう、と思って取材をお願いしたのです。」
そうですか。今日はありがとうございました。
「こちらこそ素敵なお話しを聞かせて頂き、ありがとうございました。あ、そうそう。写真写真…」
その場でバシャバシャと顔写真を撮られる。これも新聞に掲載されるという。最初は構えていたが、徐々に表情が和らいだようで、記者からOKを頂いた。
取材を終えた後の清々しさは、なんだろう。
どうやら僕が触れたのはタブーでもなく、「パンドラの箱」を開けたわけでもなかったようだ。
あまり触れたくない、他人に触れて欲しくない過去から逃げていただけだったらしい。
K記者との別れ際、僕の目はなぜかちょっとだけ潤んでいた。
12日。再びK記者から取材した内容について確認のメッセージが送信されてきた。
幾つか修正をしなければならない箇所があり、それをお伝えすると、程なくゲラ(原稿)が仕上がったとPDFが送信されてきた。
電車の中で、送信されたゲラを読む。
岩木山の写真の横に、「天国の父重ねて走る」という大きな文字が掲載されている。
僕にしては珍しく笑った顔が採用されていた。
内容を一読して驚いた。
僕が伝えたいと思っていた内容が、自分で話した言葉のまま、こちらの思った通りの順番、構成で記事となっていたのだ。
そのゲラを、電車の中で何度も何度も読み返す。
そう、僕は自分の中でこのことを反芻し、そして、誰かにこのことを伝えたかったんだ。
色んな思いが胸に去来し、電車の中なのに落涙しそうになる。
自分のことなのに、とてもいい記事だと思った。
ただし家族には、13日の晩になって「明日の夕刊に名前が載るかも知れない」とだけ伝えた。具体的な内容は伏せたにせよ、父とのことをまたほじくり返したことで、家族の反感を買うのではないかという気持ちがあったからだ。
14日は、朝から上京しなければならない用事があった。
自宅に戻るのは21時過ぎなので、家族は既に夕刊に目を通した後だろうし、きっと誰かが記事に気づいて電話を掛けてくるはずだ。
東京での会議を終えた16時頃、Facebookの僕のタイムライン上に、代表のTさんが夕刊の記事を投稿してくれた。そこから、波を打ったように立て続けに同じ記事の写真が投稿され(結局4人の方がタグ付け、投稿等をして下さいました。ありがとうございました。)、メールやらメッセージやらコメントやらが続々と寄せられた。
帰りの新幹線の中で投稿された記事に目を凝らす。
ゲラの段階から多少手直しが入っていたが、ほぼそのままの内容だった。
21時40分過ぎ、帰宅。
家の人たちの反応をそっと窺うが、何もない。
敢えてこちらからも何も言わなかった。
家族なんだから多分何も言わずともわかりあえることもある。
家族なんだから、これでいいと思った。
しかし、後日妹や母から聞いた話では、やはりそれなりに電話があったらしい。
中には、「お前だから書けた内容だ。」と絶賛する人もいたそうだ。(まあ、僕が書いたわけではないのだけど。)
(こんなお葉書を下さったのは、某S先生。ありがとうございます。)
今年の9月、父の七回忌を迎える。
まだ4か月も先の話だが、ちょっとだけいい報告ができたかも知れない。
「オトン、これでもいいべ。」
-父の遺影が、ニグラニグラと笑っているように見えた。