日別アーカイブ: 2017-05-11

鉄道にまつわる思い出話(その1・ちょっとマニアック)


東北新幹線の大宮~盛岡間が暫定開業してから間もなく35年。東日本エリアに関しては、新幹線網が蜘蛛の巣のように拡散され、それとともに寝台特急や在来線特急が姿を消していきました。
かつては青森県内も、数多くの特急や急行が走っていましたが、2017年5月現在、「特急」の冠を被って走行する在来線の定期列車は、青森~秋田間の特急「つがる」のみとなってしまいました。

先日、サッポロビールが、日本の鉄道のヘッドマークチャーム付「ヱビスビール」と「ヱビスマイスター」を全国のコンビニエンスストア限定で4月26日(水)以降順次発売することを発表しました。

第3弾となる今回は「エル特急」がテーマ。たまたまコンビニで昔は青森~上野、東北新幹線の暫定開業後は弘前・青森~盛岡間を走っていた「はつかり」のヘッドマークチャームが付いた缶ビールを発見し、思わず購入してしまいました。

第1弾と第2弾は寝台特急をテーマとしており、とある列車を除いて青森県内を走っていた寝台特急のヘッドマークを全て入手していたことから、それらを並べながら色んなことを思い出していました。さて、この「エル特急」はこれで終わりとなるのか、それとも、今後また拡がりを見せていくのか…(秋田新幹線の前身だった「たざわ」や新潟と北東北を結んだ「いなほ」、エル特急ではないけれど「白鳥」など、登場していないヘッドマークがありますので…)。

僕の場合「乗り鉄」でもなければ「撮り鉄」でもなく、強いて言うならば「見る鉄」といったところでしょうか。今でこそランニングのネタをブログに投稿していますが、幼少の頃は筋金入りの超運動音痴。よってアウトドア派というより完全なインドア派、国鉄のダイヤ改正の際には時刻表を購入して、「青春18きっぷ」の空想旅行を、北海道や東日本、時には紀伊半島の辺りまで足を伸ばして楽しんでいました。…いや、あくまで時刻表を眺めながらの空想なんですけど。漫画雑誌には一切目もくれず、月に一度発行される「鉄道ジャーナル」が愛読書でした。
こんな感じでしたので、僕はオタクやマニアの部類ではない!と言いたいところですが、今でも鉄道ネタに何となく心ときめくのは事実ですし、昔の記憶は結構残っているものです。結局、そういう部類なんでしょうね。多分こんな話、誰にもしたことがないので、結構なカミングアウトかも知れません。今日は、その伏線となった昔のお話をしようと思います。
なので、興味のない方にはちっとも面白くない話。ごめんなさいね。

母の実家は、旧北秋田郡合川町(現:北秋田市)の合川駅前にあります。家のすぐ裏を、旧国鉄阿仁合線(現:秋田内陸縦貫鉄道)が走っており、まるで庭を横切って列車が走っているような感じでした。幼い頃、母の実家に遊びに行くと、踏切の音が聞こえるたびに決まって二階に駆け上がり、走って行く列車(3両~4両編成のディーゼル車だったり、ディーゼル機関車に引かれて走る、杉の丸太を積んだ貨車だったり)を眺めていました。既にその頃から鉄道のことが大好きで、小学1年の頃には、弘前駅から約2時間半を掛けて母の実家のある合川駅まで列車を乗り継いで独り旅をしていました。

まだ駅舎内に鳩が飛んでいた時代、自動券売機もない弘前駅の有人窓口で「合川まで子ども1枚」と切符を購入するところから始まり、16時30分前後に出発する秋田方面(酒田行きだったり、院内行きだったり)への鈍行列車に乗り込むため、3番線ホームへの階段を駆け上がり、青色と茶色の客車が連なった鈍行列車に乗車した後は、同じボックス席に座った乗客から決まって「僕、どこまで行くの?」と話しかけられました。「合川まで!」と答えると驚かれ(それは、合川がどこなのかわからず驚いていたのかも知れません)、「お母さんは?…えっ?ひ、一人で行くの?」と必ず聞かれ、「気をつけてね」と、お菓子や冷凍ミカンを頂くという、実にのどかな旅でした。当時の客車は乗降口の扉が手動だったので、車掌から「走っているときはデッキに出ればマネよ(駄目だよ)」とあらかじめ諭されたこともありました。別に車内をはしゃぎ回っていたわけではありませんし、むしろ車窓の景色を眺めるのが楽しくて仕方なかったんですけどね…。
途中の大館駅では、20分ぐらい停車するのが当たり前で(今思えば荷物の受け下ろしがあったような気がします)、花善の鶏めし弁当を販売する売り子の声がホームに響いていました。ちなみに僕が4歳の時に亡くなった母方の祖父は、必ずと言って花善の鶏めし弁当をお土産に持参してきたそうです。
鷹ノ巣駅では、列車が到着する同じホームの反対側、1番線に停車中の阿仁合線(比立内行き)に乗り換えます。当時はまだクリーム色と朱色のツートンカラー、いわゆる国鉄色と呼ばれるカラーのディーゼル車(確かキハ22形とか)が走っていた時代、扉も半自動で、手動で開ける車両が多かったように記憶しています。床もまだ板張りだったような気が。

時々急行タイプのキハ58系(キハ28系)が編成に混じっていることがあり、その時は、我先にと言わんばかりにその車両に乗り込んでいたことも覚えています。その後、車体の色がオレンジに塗られた車両に入れ替わり、阿仁合線が廃止される直前にはキハ40系が投入され、その頃には編成がオレンジ色の車体ばかりになっちゃって…って、何のことだかさっぱりわからないですよね。すいません。
話を戻しますと、阿仁合線に乗車した後は、僕が乗車してきた奥羽本線の鈍行列車が先発するのを、赤い機関車のけたたましい汽笛の音に怯えながら見届け、程なく出発したディーゼル車にガタンゴトンと揺られること約20分、鷹ノ巣から3駅先の合川駅に19時頃に到着、駅では祖母や伯母と従姉が待っている、という光景。
本当に小さな駅ではありましたが、あの頃は待合室にKIOSKもあったんですよね。かれこれもう、40年近く前のことなんだなあ…。

一度とても怖い思いをしたことを妹も僕も未だにハッキリ覚えていて、時々語り草にしているんですが、妹と二人で母の実家に向かっていた時、一人のオッサンが大館駅から乗車してきました。そのオッサンがやたらと酒臭く、決して悪気はないのでしょうけれど僕たちの座っていたボックス席に腰掛け、興味深そうに話しかけて来るのです。丸刈りで細身で酔っ払い、パッと見るとちょっとヤバそうな、そんな雰囲気。明らかに酔っていたため誰も注意することなく車内の空気が何とも言えぬ雰囲気になり、だんだん怖くなって鷹ノ巣駅に到着するかなり前から二人でデッキに立って鷹ノ巣駅到着を待ち、列車がホームに着くなり猛ダッシュで阿仁合線の列車へ乗車、女子高生のお姉さん方が座るボックス席の空席に慌てて座りました。
ところが、何とそのオッサンも同じ列車に乗り込んできたのです。さすがにこの時ばかりはドキドキがピークに達し、泣きたくなりましたが、オッサンが隣の車両に移動するのを隠れるようにして見ながら、妹と胸をなで下ろした、ということがありました。

弘前に向かう帰りは、まだ幼い妹を背負った母か、祖母が一緒でした。祖母は国鉄職員の伯父の1親等の家族ということで国鉄からの優待券を保有しており、それがまた妙に羨ましかったことを覚えています。
鷹ノ巣駅から乗車する弘前への列車は急行が圧倒的に多く、秋田から青森に向かう急行「むつ」がほとんどでした。たまに上野からの急行「津軽」ということもありましたが。
急行「むつ」に乗車した時、他の車両は立ち席が出るほどの満席なのに、やたらと空いている車両があるなあ、と思って乗車したら、実はそれはグリーン車だった、ということがありました。当時は急行でもグリーン車が連結されていたんですね。車掌に咎められ、慌てて車両を移動した記憶が今でも残っています。しかしあの頃は、結構な数の車両編成だったはずですが、それも満席になるほどでしたから、今のように道路が発達する前、鉄路は重要な移動手段だったと言えるでしょう。
急行「津軽」での楽しみは、車内販売のアイスクリーム。当時、急行ながら車内販売が行われており、かなり高価な濃厚ミルクのアイスクリームは、今まで食したどのアイスクリームよりも一番美味でインパクトがあったかも知れません。小学校高学年となり、妹と二人で弘前に帰る時は、祖母から「(アイス)クリームでも買って食べなさい」と渡されたお小遣いの千円札で、ホントにアイスクリームを購入していたという…。

今は車両の電車化、そして速達化によってボックスシートがベンチシートになり、鉄道で旅情気分を味わう機会も大分減ってしまったように思われます。
そう考えると、あの頃の鉄道旅はホント楽しかったなあ…。という個人的には実に懐かしいお話。
鉄道旅行にまつわるほろ苦い思い出もたくさんあるのですが、それはまた機会をみて紹介できればいいな、と思います。

(多分小学4年生の頃、妹と合川駅構内をバックに。)