ノリオは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
ノリオには政治がちょっとだけわかる。ノリオは、県の役人である。時々ホラを吹き、犬と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
-絶対に走る。五年振りに開催される五所川原市の「走れメロスマラソン」を、完走する。ノリオは腹を括っていた。
ノリオにとって、ハーフマラソンを完走することは、もはや当然のこととなっていた。しかしノリオは、三年前に初めて走ったときの九十六分の壁にぶち当たったまま、それを越えることができないことに悶々としていた。やっとその壁を越えたのが五月。ようやく九十四分に到達したが、今度は九十五分の壁が立ちはだかっていた。
「走れメロスマラソン」のコースは平坦である。荒れ狂う濁流もなければ、山賊もいない。
九十三分に到達する絶好の機会だと、ノリオは考えた。
しかしノリオは三日前から心身の異変を感じていた。尋常ならぬ発汗と、腹部に感じる違和感-
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
暴君ディオニス王は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。
そうだ。考えてみるがよい。お前は何度周囲の人に騙されてきたかを。
「勉強?全然やってないよ。」といいながら毎回試験で一番だった彼。
「練習?全然してないよ。」といいながら自己新記録を更新する彼ら。
彼らの声には、努めて耳を傾けぬようにした。
だがしかしノリオは、色んな葛藤を繰り返して、自問自答を重ねた結果、実のところ邪智暴虐の王は周りではなく己の中にあると確信した。そして、そのことを悟ったノリオは激怒した。(最初に戻る)
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腹部の痛みが長引き(ひょっとしたら腸炎だったのかも知れない)、本調子には程遠い状況の中、自己ベスト更新どころか完走すらも怪しいのではないかと感じ始めた大会前夜。
関節に感じるこの痛みは、何やら発熱していることを予感させるものだった。
だが、敢えて体温は計らず、早めに就寝した。
大会当日。4時40分起床。
着替えを済ませ、冷凍のパスタを食し、五所川原市へ向かう大型タクシーに乗車。
時折関節がピクッと疼くということは、まだ微熱が残っているらしい。まあでも食欲も普通だし、気持ちも普通だし、多分何とかなるだろう、と思ったのだが…。
タクシーの中では、(多分誰も気づいていなかったと思いますが)会話にも生返事で対応するという悪態をつき、バナナを貪り、菓子パンを貪り、水分を補給し、とにかく体調が今ひとつであることを悟られないようにしようと振る舞った。
五所川原市にある北斗運動広場。岩木川の河川敷にあるこの広場が、エントリー会場となる。
タクシーが到着し外に出てみると、思った以上に風が冷たく、寒い。
ついこの間まで真夏日だ何だと騒いでいたのがウソのようだ。
周りに遮るものがないため、北東からの風が野ざらしの広場に吹き付ける。
ゼッケンや参加賞をを受け取った後もしばらくその場にいたのだが、いよいよその寒さに耐えられなくなり、スタート地点である「立佞武多の館」に移動することとした。
スタート時間は9時。まだ8時前なのに、続々と選手が集まっている。
弘前公園RCからも、30名近いメンバーがハーフマラソンにエントリーしていた。
僕自身としては、あわよくば(パーソナルベストである)93分台を…と考えていたところもあったのだが、昨今の体調のことも考慮し、ひとまず95分でのゴールを目指すことにした。
スタート前のウォーミングアップ。やはり間接が時折ピリッと痺れる。身体も大して温まらない。
どうやら微熱は平熱とはなってくれなかったらしい。
ここでスタートしない、というのも選択肢の一つ。しかし、そこまで具合が悪いわけではない。
行けるよね?ウン、行けるよ。ダメなら途中でリタイアすればいいんだし…。延々と自問自答しながら、スタート時間を待つ。
8時50分。おもむろにスタート地点へと向かう。
相変わらず北東からの風が強い。今日は折り返しもなく、ひたすら北へと向かうコース。どうやらこの風をどう攻略するかも、課題の一つとなりそうだ。
いつものごとく、メンバー間での牽制が始まる。
「今日は何分で行くんですか?」
自分で言うのも変だが、最近はいたって素直だ。
「今日は95分。」
この言葉に、嘘も偽りもなかった。
今の走力が天井にぶち当たっている、という気もしているし、それをぶち破るだけの練習もできていない、というのもわかっていた。まして突如やってきた体調の変化。
でも、「今日だけは完走が目的だ。」とは、口が裂けても言えなかった。
9時。五所川原市の平山市長が号砲を鳴らす。ゲストランナーの谷川真理さんも一緒に走り始めた。最初の500メートルが4分10秒と、明らかにオーバーペースになっていたので、すぐにペースを整えた。入りの1キロが4分25秒。
ちょっと速いな、と感じたのでペースを抑えたつもりだったのだが、結局5キロまでは4分30秒を切るペースで走っていた。
1キロ過ぎで谷川さんとハイタッチを交わす。
どのあたりを走っているのか皆目見当が付かないのだが、五所川原市内をぐるぐると走っているらしい。2キロ過ぎでは、つがる総合病院の前で「No Apple,No Life」の手書きのプラカードを持つ仲間が。
声援に手を振り、やがて「最大の難関」である、五能線を越える跨線橋。
今日のコースはほとんどフラットで起伏があまりなく、アップダウンらしいアップダウンと言えば、この跨線橋ぐらいしかないらしい。
沿道で応援する市民の声が暖かい。
ふと前を見ると、裸足とほぼ半裸という格好で走るランナーの姿。どうやらメロスをイメージしているらしい。
5キロを過ぎると、周りには田んぼが広がり、遮るものが何もなくなった。
北東からの風が、無情にも選手たちに吹き付ける。実は「最大の難関」は跨線橋ではなく、どんどん強さを増す北東風だった。
極力足下を見つめながら、周囲には目を暮れないようにしていたが、さっきのメロスがどこを走っているのか気になり、思わず顔を上げた。
-メロスの背中は、遙か彼方にあった。
そして、何もない殺風景…いや、田園風景が広がっている直線道路を見て、愕然とした。
この先にゴールは、本当にあるのだろうか?
楽しく走るはずが、走りきることに必死になっている、そんな感じだった。
何となく脚が重い。何よりも、久しぶりに気が重い感覚。
給水もうまくいったりいかなかったり。
途中、同じピンク色のTシャツを着たメンバー数名を追い抜いたが、ほとんど言葉らしい言葉も交わさぬまま、抜き去った(…ような気がする)。
僕には「No Apple,No Life」のTシャツを着た親友セリヌンティウスを暴君に差し出す勇気もないし、親友セリヌンティウスになる気もない。
しかし、まだ見ぬ暴君の姿は、遙か10キロ以上も先にある。
裸足のメロスは相変わらず僕の遙か前を走り続けている。でも、なかなか追いつくことができない。
ノリオは、自分のタイムが落ちていることも身をもって実感していたけれど、今日のところはもう、致し方ないと諦めていた。
吹き付ける風は冷たいのに、身体がどんどん火照っているのがわかる。
給水所に置かれているスポンジを手にし、首や脚に押しつける。
しかし、それでまた身体が冷えるという悪循環に陥っていたわけで…。
実のところ、どういう景色が広がっていたのかすら、あまり記憶にない。
この時点で時計に目をやることも完全にやめていたので、どれぐらいのペースで走っているのかも全く把握していなかったのだが、どうやら4分30秒~40秒の間で淡々とラップを刻んでいたらしい。
17キロ付近の給水所だっただろうか、前を走る裸足のメロスを捕捉したらしいけど、それすらも覚えていない。
裏を返せば、それだけ自分の走りに集中していたのか、あるいは、全く気持ちが別のところに飛んでいて、心ここにあらずだったのか…。
やがて、ゴール地点でもある金木小学校を10時にスタートした、10キロコースのランナーが姿を現す。10キロコースのランナーが復路に入る前に、既にそのコースに入っていたので、うみねこマラソンの時のようにランナー渋滞に巻き込まれることはなさそうだ。しかし、どうやら極限状態は近づいていたらしく、すれ違う10キロランナーの人たちの顔すらも、ほとんど見えていなかった。
…ここまで来ると、私利私欲も薄れていく。もはやタイムはどうでもいい。暴君よ、せめて、せめて95分で完走させて下さい。
18キロ付近で左折して程なく、10キロコースの先頭ランナーに道を譲る。
何とかこのあたりからでもペースアップしたい、と思ったところで、風が追い風に変わった。
ペースアップするとすれば、ここしかない!
そう思い、がむしゃらに走る。でも、あの追い風を受けているのに、4分10秒~15秒までペースを上げるのが精一杯だった。
20キロからは、金木町の中心部を走る。ここでの給水は、僕にはもはや必要なかった。たくさんの声援の中、よだれを垂らし、鼻水も垂らし、流れた汗も固まって顔に白く吹き出ていたことだろう。多分暴君以上にえげつない顔をしていたはずだ。
遂に21キロ手前。弘前公園RCの幟とともに、先にゴールした面々の顔が見えた。
…が、手を挙げる気力もなく、顔を上げて笑顔を見せることもできぬまま、ようやくゴール。
1時間35分30秒。95分に30秒及ばなかった。しかし、そこに暴君の姿はなかった。
半分ボーッとしながらゴールラインを越える。
完走できたからよかった?…いや、違う。己の中の暴君の心を曲げることができなかったし、暴君の言うことに納得してしまった。
「人の心はあてにならぬ。」
暴君が呟いたその「人」とは、自分自身。
結局僕は、親友セリヌンティウスどころか、メロスになれるハズもなかった。
…そして暴君は、僕自身の中にいた。
何とも言えぬ空しい思いと腹立たしさが、交互に去来する。
あとで1キロ毎のラップを見たら、グラフがほとんど一直線。
つまり、実はほとんどペースが変わっていなかったという…。(しかも当初の目標よりずーっと5秒遅れていた。5秒×21=105秒=1分45秒。この差が、大きい。)
まあでも、今回はこれで仕方がない。仕方がなかったんだ。そう自分に言い聞かせた。
万全ではない体調の中、最後までずっとペースを保てただけでも良かったじゃないか。ラスト数キロ、ちょっとだけペースアップしただけでもヨシとしよう。
既に走り終えたのに、GPS時計の計測を止めるのを忘れ、立っているのも辛い状況になり、ヘナヘナと椅子に座り込む。
そんな中で係の人に計測タグを外してもらっていると、役員と思しき人が話しかけてきた。
「給水所での給水は、大丈夫でしたか。水は足りていましたか。」
「ああ、大丈夫でしたよ。ちゃんと給水できました。ホントに大丈夫です。ありがとうございました。」
「そうでしたか…よかったです。風が強くて大変だったでしょう。お疲れさまでした。」
…ふと見ると、ペットボトルを手にしながら、驚愕の表情で僕に視線を送る一人の女性が。
…あ!
「やっぱりマカナエくんじゃない!?え?ウソ!ハーフ完走したの?ちょっと!凄いんだけど!」
誰かと思ったら、高校時代の同級生のN子ちゃんだった。
「昔と全然変わってないね!(いやいや、4年前に会ったよね?)
…っていうか、マカナエくんって運動してたっけ?(いえ、全然してませんでした。元応援団だし。)
何かメチャクチャ格好いいんですけど!(あはは。社交辞令でも嬉しいものです。)」
相変わらず屈託のない笑顔を浮かべながらケラケラと笑う彼女を見て、何か妙に気持ちが落ち着いた。
続いてやってきたのは、これまた同じく高校の同級生だったF。N子ちゃんと同じく、五所川原市に勤務している。
その場で急遽、即席のプチクラス会が開催された。
「ちょっとF、 マカナエくんに負けてられないわよ!」
そんなN子ちゃんのハッパに、はにかみながら笑うFも、相変わらずだった。
でも、他愛のないそんな会話に、心が洗われる思いだった。
…ああ、やっぱりここまで走ってきてよかったな。
こんな再会が待ち受けているとは、考えてなかった。
これで一気に疲れが吹き飛んだ。
さて、総括。
体調が万全ではない(というかむしろ、悪い)中、それを隠して走ってしまったことを、まずはメンバーの皆さんにお詫びしなければならない。本当に申し訳ありませんでした。
でも、(無人区間が多くあったけれど)地元の声援も暖かかったし、完走後に振る舞われたシジミ汁もおいしかった。
帰路、芦野公園駅から津軽五所川原駅まで乗車した津軽鉄道が、どこか懐かしく、やけに楽しかった。
懇親会ではゲストランナーの谷川真理さんとも直接お話しする機会を頂けたし、とても楽しい大会だった。
だからこそ次回は、体調を万全にして臨みたいところ。それまでには、ちょっとやそっとの風にも負けないぐらい強くなりたいものだ。
ちなみに弘前に戻り、予定されていた二次会には参加せず自宅に戻った直後に体温を測ったら、38度越えてました。嗚呼、ヤテマタ。