この間の電車トラブルは、前向きに考えれば貴重な経験だったのかもしれない。
以前、豪雪の影響で、同じ駅に停車したまま1時間30分身動きが取れなくなったことがあったが、あの時は駅に停車している分、出入りは自由だった。
今回はそれを超える約2時間20分。しかも自由の効かない身。こんな長時間に渡って電車内に閉じこめられるという経験もそんなにあることではないかな、とか思ったりもしたが、今思えば、昔の汽車なんていうのは一つの駅に1時間近く停車したり、実にのんびりしていたんだな、ということをふと考えた。
多分、今回のトラブルが30年も前に起きたトラブルだったら、おそらく乗客は勝手に扉を開けて、お構いなしに車外に出てしまったことだろう。30年前は、いろんな意味で「ゆるい」時代だった。少なくとも、今のこのご時世よりは、「ゆるい」時代だった。
だから、父母は多少の躊躇をしながらも、僕を幼い頃から一人旅させてくれたのだろう。可愛い子には旅をさせろ?(笑)
…僕が初めて「一人旅」をしたのは、小学1年生の時だった。まだ国鉄だった時代、そして弘前駅構内に鳩が飛び交っていた昭和50年代前半、自動券売機などあるはずもなく、自宅からタクシーに乗せられ、一人で弘前駅にやってきた僕は、券売所で思いきり背伸びをして「○○まで、こども1枚!」と切符を購入したのだった。
16時台に弘前を出発する、青森発酒田行き鈍行列車。まだ電車ではなく汽車だった時代。
長々と茶色や青色の客車が連結されていた時代、ニスの香り漂う客車は、まだボックス席だった時代。窓の下に取り付けられた小さなテーブルには、栓抜きが据え付けられていた。たばこを燻らせようが酒を煽ろうが、リンゴの皮を剥いていようが、誰からも咎められることのない、そんな「ゆるい」時代だった。
偶然同じ席に座ったおばちゃんや女子高生(今思えば、声を掛けてくるのはなぜか女性ばかりだった気が…)には、「どこまでいくの?僕、いくつ?」と怪訝そうにじろじろ見られ、そんなことはつゆ知らず「○○まで!おばあちゃんのところに行くの!」と元気に答えていた三十数年前。僕が小学1年生だということを知ると仰天し、冷凍ミカンをくれたおばちゃんもいたな…。
大館駅に到着すると、今では見かることのなくなった売り子が「弁当~弁当~」と声高に響かせ、ホーム上で大館名物の「鶏飯」を手売りしていた。
途中駅での乗り換えも含め、ガタンゴトンと汽車に揺られること約3時間半。初めて一人で祖母宅を訪れたときは、誰もが母の仕掛けたドッキリだと信じて疑わなかった(思えばこの頃から、我が家の「ドッキリ仕掛け」が始まったのかも。これについてはまた後日)。
しかし、本当に一人でやってきたことを知ると、一同これまた仰天。
やがて僕の一人旅は妹との二人旅になり、夏休みになると祖母の家に汽車に揺られて行くことは、僕にとって年中行事の一つの楽しみとなっていた。
大館駅から乗車してきた(悪意のない)酔っ払いに絡まれて困惑したこともあったな…。
時々乗車することのできた上野行きの急行列車の車内で販売されていたカップ入りのアイスクリームに虜になったこともあったっけ。
やがて時代は移り変わり、地方線は軒並み廃止→第三セクターへ移行の憂き目に遭い、祖母の家に向かう路線も第三セクター化された。翌年国鉄からJRへと移行する頃には、車社会が全盛を迎え、僕の一人旅、そして妹との二人旅もほぼ終焉を迎えていた。
今、小学1年生が一人旅できるような時代ではなくなった。小学校の低学年が一人で電車に乗っていたら、誰だって不審に思うだろうし、恐らくすぐに保護されてしまうことだろう。そして、親が叱責され監督責任を問われてしまうような時代。
何かといえば雁字搦めの、何とも居心地の悪い世の中になったものだ。