日別アーカイブ: 2012-07-20

弘高応援団のこと


高校時代、僕は3年間を応援団員として過ごした。

…振り返ること30年以上も前。
根っからの野球好きの父に連れられて、父の母校であり、後に僕の母校ともなる弘前高校硬式野球部の応援に行ったこと数知れず。硬式野球部OBの父は、とにかく後輩の動向が気になるのか、あるいは先輩風を吹かせたかっただけなのか、時には弘前市小沢にある高校の野球場にも連れて行かれたし、室内練習場にも連れて行かれたこともあった。
もちろん父の思いとしては、是非僕に野球をやって欲しかったのだと思う。

その思いが余ってなのか、小学校に入学する頃までは、突然バットを握らされて素振りをさせられたり、僕の手には余るほどの大きさのグローブを持たされてキャッチボールをさせられたり(ちなみに僕が掴んだ球を投げると、決まって隣家の畑に飛んでいった)、とにかく野球に対しては「させられる」ことばかり。「楽しい」と思ったことが一度もなかった。

結局、どうしようもないぐらい運動音痴の僕は、走攻守全てにおいてスキルを全く持ち合わせていないことがハッキリとしたため、小学校に入学したあたりから父は、僕に野球を叩き込むことを諦めた(ちなみに今もバッティングセンターに行くと、間違いなく損をする自信がある。)。

しかしながら父はその後も、何らかの形で野球に関するスキルを身に付けさせようと思ったらしく、突然スコアブックを買いに行かされ、その夜テレビで中継されていた野球の試合を見ながら、箸ではなく鉛筆を持たされて、スコアブックの付け方を学ばされた、ということもあったが、結局それも僕の身にはならなかった。

さて、高校野球の応援に行くと、決まって奇妙な集団がいた。ボロボロの帽子を被った学生服姿の生徒。裸足に雪駄。更に、前に立っている人はゾンビか浮浪者か、と思いたくなるような汚い身なりに長髪を振り乱し、グラウンドに向かって何か大声を上げたり、奇妙な歌を絶叫していた。

妹と僕は、大して興味のない野球の応援よりも、その軍団の一挙手一投足を見て、笑っていた。

その軍団こそが、蛮カラスタイルの弘前高校応援団だった。
まさか自分が将来、その立場になるとは知らずに…。

高校1年の時、僕はくじ引きで応援団に選ばれた。断りを入れようと当時の担任に申し入れしたところ、「経験未経験は別として、決まったことについて責任を果たすというのも、大事なんじゃないか。」と逆に諭されてしまった。
正直、応援団だけはイヤだと思っていた。が、決まってしまったものは仕方がない。渋々応援団室に足を踏み入れると…。既に同学年の団員が1名。小学校時代は同じクラスで、中学校の時に応援団長を務めていたA木だった。彼が応援団に入団することはわかりきっていたし、逆に彼がいなければ、多分足が向かなかったことだろう。

部屋に足を踏み入れてしまったが最後、先輩方の大歓迎を受け、僕の応援団としての第一歩がスタートしてしまった。

応援団、とはいうものの、実際応援をするのは大半が硬式野球部ばかり。公式戦はもちろん、時には練習試合にまで出向いて応援するという徹底ぶりだったが、今思えば、あのおかげで足腰が鍛えられたのかも知れない。

時々父も応援にやってきたが、僕が応援団員として声を張り上げ、訳のわからない歌を唄っている姿をみて、まんざらでもなかったようだ。

父にたまに連れられてきた妹も、僕の姿を見て爆笑していたと記憶しているが、慣れというのは恐ろしいもので、最初は恥ずかしさもあったが、やがてその恥じらいも消え、誰がいようが特に臆することなく応援できるようになっていた。

応援団員として過ごしたこの3年間は、その後の僕の歩みにとって大きな礎となった、といっても過言ではない。実は、それぐらい重要なターニングポイントだったと確信している。

硬式野球のみならず、他の競技の応援に出向いたこともある。しかし、応援時の笛や太鼓の使用を禁ずる競技もあり、応援団にとって必須アイテムであるこれらを使えない応援は、もはや応援として呈をなしていなかった。それは恐らく、ルールを理解しないまま応援に行った、ということもあったからかも知れない。

3年の時には副団長の責を担うこととなり(というか3年次の応援団員は途中入団してきたもう一人を含め3名しかいなかったので、ある意味必然だった)、太鼓を叩く役割を担った。
余談ではあるが、応援団に初の女子団員が入団することを認めたのは、小学校からの腐れ縁、A木団長だ。
思い返せば後輩たちとは、今でも再会すると普通に慕ってもらっているが、当時はいじめ、とまでは行かなくとも、とんでもない悪さを連発していたような気がする。
穴があったら入りたいぐらいだ。本当に申し訳ない。

応援団として最後を迎えたのは、高校野球青森県大会、青森県営球場での試合だった(相手は確か青森戸山高校)。
接戦が予想され、いつも以上に気合いが入っていた。

同期の仲間の中には、文化祭を抜け出し、弘前市から約35キロ離れた県営球場まで自転車で応援にやって来た強者もいたし、珍しくブラスバンドを従えた熱い応援となった。

しかし…。

予想どおりの接戦の甲斐もなく、敗戦が決まった瞬間、スタンドからはああ~っという溜息が一斉に漏れた。A木団長が、崩れるようにしゃがみこんだ。僕も、力が抜けたようにガクンとうなだれた。

しかし感傷に浸る間もなく、次の試合が控えていたため、撤収作業を始めると、野球部のOBの方々が、僕をはじめ団員らにねぎらいの声を掛ける。

球場の外、号泣する野球部員と対照的に、僕らに涙はなかった。

実のところ、試合終了後は茫然自失であまり覚えていないのだけど、結局その日は、父が顧問の先生にお願いをして、僕だけ別の車で帰ったことだけは覚えている。僕にとっては、野球をやらなかった(やれなかった)分、後方から野球を応援するという形で、父にせめてものお返しができたのかな、とか思ってみたり。

…僕が卒業してから25年近くの月日が経った。時代は変わり、母校の応援団は存亡の危機にあるという。…いや、あんな古いスタイルの応援団なんて、もう存在しないのかも知れない。

次の日曜日、久し振りにベスト4をかけた母校の応援に(応援団の存亡の確認も含めて)行こうかと思ったが、残念ながら弘前聖愛高校に敗れてしまった。
でも、一時は6点差までリードを広げるなど、シード校を焦らせただけでも凄いと思う。
選手の皆さんお疲れさま。
母校の先輩