日別アーカイブ: 2011-03-22

そして、10日以上が過ぎた。


3月11日午後2時46分。
職場内にあるキャビネットの前で、僕はコーヒーにお湯を注いでいた。

職場の誰かが呟く。
「あ、地震じゃない?」

最近疲れが溜まっていたので、目が回り始めたのかと思ったらそうではなかった。天井から吊り下げられたグループ名を示すプラスチック板が揺れ始めている。

ゴゴゴゴゴ…

突如激しい横揺れに変わる。

「うわっ!強いぞ!」
「ドアを開けて!」
誰かが叫ぶ。

近くにいた他の課のアルバイトさんだろうか、自ら開けたドアノブにしがみつき、気を失いそうになっている。

「大丈夫!しゃがんで!しっかり!」
「うう…具合が悪い…。」

誰かが外から建物を揺すっているのではないか。そう思いたくなるような長い横揺れ。建物が軋む音が聞こえる。

「何だこれは?」
僕は目の前のキャビネットを必死に抑えていたが、実は今まで経験したことのない揺れに、足がガクガクと震えていた。

程なく執務室内の電気が全て消え、非常灯が点灯した。
その間も横揺れはなお続く。そういえば職場内にあるロッカーやキャビネットを耐震のために固定したのはつい数ヶ月前の話。もし固定していなければ、と考えたらゾッとした。

一体どれだけ揺れたのかはわからない。ようやく揺れが収まった。冷静を取り戻そうにも、余りに激しい横揺れにただ動揺するしかなかった。廊下に出たところで、用事を終え、僕のところに立ち寄ったM氏と鉢合わせ。
「研究室がどうなっているかわからない。戻るのが怖いよ。」
本当はもう少し話をしたかったが、お互い苦笑しながら立ち話を済ませ、それぞれの職場に戻る。

その後もひっきりなしにやってくる余震。だが、どこまでが揺れなのかもわからないような、そんな感覚にとらわれていた。
「震度7だって!大津波警報が出てる!」
ワンセグ携帯から情報を得た誰かが声を上げる。

これは、大変なことになった。とにかく今、日本で大変なことが起きているのだ。そう言い聞かせるしかなかった。

家に連絡を取ろうにも電話が通じず、公衆電話からようやく連絡を取った。ひとまず妻と母が無事であることを確認。東京にいる妹からもしばらくしてようやくメールが届いた(ただしその時点では、青森より東京都心の方が強い揺れ地震だったことを知らなかった)が、ちょうどその頃、茨城県沖を震源とする二つ目の大きな地震が来ていることを知った。

電気が消えた執務室。周辺の信号機も停電し、警官が交通整理に当たっている。早急にパソコンの電源を落とし、手持ちぶさたで指示が与えられるのを待つ。その間も、幾度となく建物が揺れる。
やがて周囲は暗くなり始め、執務室もどんどん冷え込んでいく。よりによって外は雪が降っている。何てこったい。

17時15分となり、終業のチャイムが鳴る(なぜかチャイムだけは鳴り響いた)。上司から、取りあえず災害要員となっている職員以外は速やかに帰宅するよう命じられた。

これだけの揺れで電車が止まっていることは明らかだった。だが、取りあえず駅に向かうしか思い浮かばない。代行バスが出ているかも知れない、という淡い期待を抱きながら、急ぎ足になる。駅に向かう道のりは、さながらゴーストタウンのようだった。街の明かりが全て消え、シャッターが下ろされている。

青森駅。中は当然真っ暗。しかも玄関は既に閉鎖されていた。まるで廃線後の駅舎のようだ。行き場を失い、路頭に迷い始める人々。嗚呼、これからどうすればいいんだろう…。取りあえずタクシー乗り場に向かいながら、代替の交通手段を考える。といっても残るはバスか、ヒッチハイクか、徒歩しかない。しかし、季節外れの吹雪の中を40キロも歩く勇気はない。これで、職場に戻ることも選択肢の一つとなった。

「弘前に向かう人、いませんか?」
タクシーの乗合を求める人だ。一瞬手を挙げかける。とその時、バス乗り場に黒石行きのバスが入ってくるのを目視した。その瞬間、まるで誰かが乗り移ったような脚足でバス乗り場に向かう僕がいた。

平然と列に並び、バスに乗り込む乗客の後ろに並ぶ。まずい。既にギュウギュウ詰めの状態になり始めている…。バスのタラップに強引に足を乗せ、バスに乗り込む。僕の後ろに並んでいた人が乗り込んだ時、運転手が申し訳なさそうに言った。

「すいません、もう定員でこれ以上乗れないので、次のバスが来るのを待って下さい。」

何と、僕の後ろの人が乗り込んだ時点で定員となり、僕は何とか帰宅難民を逃れたのだ。

問題はこの後だ。黒石に向かったとしても、次の交通手段は確保される保証がない。となると、途中、ちょうど青森と弘前の中間に位置する浪岡で下車して弘前行きのバスに乗り換えるか…。しかしこの時間であれば、浪岡から弘前までバスが走っていることすら怪しい。
なかなか身動きが取れない中、何とか携帯電話を引っ張り出し、妻と母に迎えに来られないかメールを送信してみた。回線が混雑していたが、何とかメールを送信することができた。電池の残量は一つだけ。かなりギリギリの状況だった。
やがて母からメールが届き、取りあえず浪岡に向かうとのこと。
よかった…。何とか帰れそうだ。

程なく、妻からメール。「浪岡までなら迎えに行ける。」とのこと。母が迎えに来る旨メール送信し、取りあえず電源を切った。

バスはずっと混雑したままで、掴むところを確保するのもやっとだったが、弘前方面に向かっているという事実だけが救いだった。

旧青森市内を抜けたあたりで再度携帯に電源を入れる。ここで驚愕の事実が明らかに。
何と、母だけではなく妻も迎えのために車を走らせているとのこと。これはマズいと慌てて電話をしても通じることはなく、やがてバスは浪岡の停留所に到着。約1時間30分を要した。

バス停から浪岡駅までは約400メートル歩かなければならない。建物からは明かりが失われ、唯一足下を照らすのは、半分以上を地球の陰で覆われた月明かりのみだった。
肌を突き刺すような寒さも手伝って、初めて「闇の恐怖」を実感した。

浪岡駅に着くと、妻の車が待っていた。実は…と妻に事情説明しているところへ、母の車がやって来た。
妻の車を見た母の表情が鬼のような形相に変わったのがわかった。明らかに怒りに満ちている。恐る恐る近づくと…。
「弘前市内を出るのにどれだけ時間が掛かったと思っているの!?何で二人に連絡するのよ!どちらかにいらないって連絡すればいいじゃない!」
激高した母はそのまま車で立ち去った。

嗚呼、やっちまった。これまで見たことのないような表情、あまりの激高振りに、僕は再び動揺を隠すことができない。

妻の運転する車の中で、NHKのニュースを見る。津波に襲われた街が壊滅状態に追い込まれた様子が、克明に映し出されている。

妻の家に立ち寄り、全員の無事を確認した後、自宅へ。
予想通り母は一言も口をきかない。僕も沈黙を守った。

が、その沈黙を破ったのは母だった。
「お前は自分のことしか考えていない。いつも自分中心。だからこんな事になる!」
地震の揺れよりも強烈な一言だった。返す言葉もなかった。反論したいことはいろいろあった。電話しようにも繋がらなかったこと、メールがうまく届かなかったこと、ギリギリの電池残量で連絡を試みていたこと…。だが、どんな言い訳も母の怒りに油を注ぐことが目に見えていたので、僕は口をつぐんだ。

確かにそうなのだ。僕は自分中心でしか物事を考えていなかったのだ。

一通り怒りをぶちまけた母は、その後何事もなかったかのように平然と食卓の準備を始めた。明かりは蝋燭のみ。電池式の石油ストーブで暖を取る事ができたのは、救いだった。ポータブルラジオから、各地で明らかになる被害の状況が流れている。
その間も、ミシミシ、ミシミシ…と小さな余震がやって来ているのがわかる。

平成3年、台風19号に襲われた時以来の大規模停電。懐中電灯の電池が機能しない事に気づく。こういう不測の事態を迎えて初めて、普段からの防災意識の低さに呆れるのは、僕だけではないはずだ。

結局その日は、不安と恐怖に苛まれながら、よく眠れぬ翌朝を迎えた。

外に出てみると、昨晩までの吹雪が一変、青空が広がっている。昨日の悪夢が本当に夢であったかのような錯覚に捕らわれる。だが、相変わらず電気が通じていないという現実が、悪夢へと引き戻す。

でも、弘前はまだ全然マシな方だ。電気が消えている以外は、何事もなかったのように街は動き始めている。
結局土曜日の午後5時前には電気も復旧。テレビでは、三陸沿岸地域の惨状が続々と報じられていた。

月曜日。県内の在来線は相変わらず運休のまま。やむを得ず自家用車通勤を強いられた。しかし、思った以上に交通量が少なく、ガソリン消費量もかなり抑えることができた。ある意味「エコ通勤」だが、この状況が連日続くようでは、こちらも休暇という選択肢を検討しなければならなくなったことだろう。
在来線は何とか復旧したが、ガソリンスタンドは連日行列ができたまま。スーパーにあるカップラーメンや即席麺も、一斉に在庫が消えた。

職場内は必要以外の照明機器の使用を控えることとなり、日中はほとんどの部署で照明が消えた。

これがあの日以降過ごした10日間の経過だ。

この間僕が被災地に対してやれたことは、日本赤十字を通じた寄附と、Yahoo!ポイントの寄附だった。むしろこれで今はいいのだと思っている。

今回露骨に明らかになったのは、日本人って思いやりに溢れている人種だと思っていたけれど、必ずしもそうじゃないんだな、と。近くのスーパーからいろいろ買い込んで、どや顔で闊歩するオバちゃんの姿を見て、ホントがっかりしてしまった。

備えあれば憂いなし、とはいうが、過度の備えが被災地の更なる憂いに繋がることを思うと、何ともやりきれない。

こんな感じで、3月11日以降いろいろ腹立たしいこともたくさんあったし、泣きたくなるようなこともあった。僕は他力本願な「頑張れ」という言葉が大嫌いだということをこれまで何度も言っているので被災地の皆さんに対して「頑張れ」とは言いません。被災者の皆さん、どうかくれぐれも頑張りすぎないように。そして、この世に生き延びたことに、何らかの意味があるのだと思う。なので、その意味を噛みしめながら、前を向いて歩いて行きましょう。

あれから10日以上が経過した。

震災に遭われ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、今も行方不明者となっている方々の安否が一刻も早く確認されること、そして、被災地の早期復興を心から祈念申し上げます。