日別アーカイブ: 2022-03-06

先行きへの不安を語ろう。

無力の人、無抵抗の人を巻き添えにした殺戮ほど惨めで、悲しく、そして虚しいことはない。

僅か一握りの人間による愚行のせいで、地球全体が、毎日大きな溜息をついている。

そしてこちら、本州の端っこにある田舎県でも、相変わらず不穏な空気が漂う中、自分を含めた周りの溜息がどんどん大きくなっている。

なす術のない悔しさ。そして、取り付く島もない相手。

…自分が今まさに取り組んでいる業務は、果たして正しいことなのか。

そしてそれは、人々にとって有益なのか、それとも実は有害なのか。

先行きが全く見通せない中、いよいよわからなくなってきた。

しかし気がつくと3月、そろそろ席替えの季節がやってくる。時間は待ってくれない。

良い仕事を持ち、何の苦労もなければそれで良いのか。

人というものは、どの様に生きることが望ましいか。

実のところ、50歳を過ぎてから、一つの大きな不安に駆られている。

自分が真に必要とされている場所は、一体どこなのか。

そして、自分は真に必要とされている人間なのか…。

そんなこの先の人生に対する不安を急に抱くようになった一つが、定年後の自分を想像した時だった。

今はまだ、役人の端くれとして動き続けているし、辛うじて必要とされる場面もある。

しかし一方で、別に僕がいなくなったところで、何事もなかったかのように社会は回り続ける。
社会とは、そういうものだ。

勤め人であればこそ必要とされる今日だが、定年後、自分が必要とされる場面、場所はあるのだろうか。手に職があるわけでもなければ、特別な資格を持っているわけでもない。さて、どうしたら…。

職場でもらった退職準備プログラム。

ブログやSNSは、自分のことをひけらかすツールだ。

共通の趣味や嗜好から広がる繋がりも確かにあるだろうし、都会と地方、ひいては日本と世界との距離を縮めるツールにだってなり得る。そこから自分の居場所が見つかる可能性は、あるかも知れない。…が、しかし。ツールと居場所とは異なる。

さて。
残りの人生で自分が何をすべきか。残りの人生をどう過ごすか。

かの寺山修司氏は、こんな明言を残している。

「生が終わって死が始まるのではない。
生が終われば死もまた終わってしまうのだ。」

既に50年以上もこの社会を漂っている中、折り返し地点がこの先にあるとは思えない。理不尽な殺戮行為が続く昨今、悔しいけれど人生は自分が思っているほど長くない。
慶事よりも弔事が増えている昨今、自分の中の意識が少しずつ変わっていることを実感している。

思うところがあり、頭を丸めようと考えたが、直前でとどまった。

(不慮のこととはいえ)父が亡くなった年齢に自分自身が近づいているという事実。

いつまでも五体満足というわけにはいかないだろうし、やれることもきっと限られてくる。

でも、具体的に何ができるのだろう。何をすべきなのだろう。

そんな衝動が今、自分の中の何かを激しく揺さぶっている。