日別アーカイブ: 2015-08-11

【寸評】佐野元春 & THE COYOTE BAND 「Blood Moon」

珍しく音楽に関する記事二連投である。今日は、なんちゃって音楽評論家気取りで7月に発売された佐野元春のニューアルバムの寸評を。


ロックンロールは、その時代その時代の現代社会に対する反発を表現する一つの形だと思う。
ぶつけどころのない怒りを互いにぶつけ合い、そしてその魂に火を放ち、昇華する。
しかし時代の経過とともに、ストレート一辺倒だったはずのロックンロールは、いつの間にやらジャブやボディブローという多彩な技を駆使するようになり、まるで多様化する社会に迎合するかのように、色んな形へと置き換えられていった。

社会を混沌に陥れるような言論は封じられ、むしろ社会から爪弾きされる世の中。社会から少しでもはみ出してみようものなら、とことん叩かれ、封殺される。そんな矛盾した正義感がまかり通る昨今の現代社会。
社会に警鐘を鳴らし、対峙するのではなく、そこに上手く溶け込みながら、時折正義感を振りかざす、それが現代のロックだとするならば、それは時として詭弁、虚言、戯言となりうる。

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本作の最初を飾るのは、「境界線」。この曲の発表に際し、彼は沖縄の辺野古を訪れ、率直に意見を述べた。しかしそれは、ファンの間で大きな賛否両論を巻き起こすこととなった。その時を振り返ってのインタビューが掲載されている。
彼は、自然体でロックの真実を探り出し、ジャブやボディブローではなく、ストレートな言葉で、表現しようとしている。ただし、彼の言う「境界線」が何と何を隔て、そして、どこに引かれているものなのかは、正直僕にはわからない。ただ、一つ言えることは、彼と我々リスナーとの間に引かれているものでないことだけは確かだということ。

そして、見えない「境界線」の後に続くナンバーが、「紅い月」。副題は「Blood Moon」。このアルバムのタイトルチューンであるが、「Blood Moon」を和訳すると「皆既月食」。皆既月食の際、太陽の光を遮り、月を紅く染める存在こそがこの地球であること、そしてその月を敢えて「紅い月」と表現したことを鑑みると、実はアルバムの中で最も示唆に富んだナンバーなのかも知れない。

前半は、どちらかと言えばミディアムテンポのナンバー、前作も踏襲したような作品が並ぶ。
中盤になると一転し、毒でも吐くような詞が並ぶ。
そして、後半はクールダウン…。

「COYOTE」「Zooey」に次ぐ、THE COYOTE BANDとの3作目、バンドとしては「COYOTE」の時に既に十分完成されていたのかも知れないが、当時の荒々しさがどことなく研ぎ澄まされ、洗練されたような感じ。かといってその歌詞は挑発的で、現代社会に対する警鐘というよりむしろ、社会や政治に対する皮肉が各所に込められている。しかし彼は、ごく自然にこの社会の行く末を案じ、警鐘を静かに鳴らし、時として対峙も辞さないという姿勢を示したに過ぎない。

この作品をどう読み解き、評価するのかは人それぞれ。ただ、彼はこう言っている。

「自分が書いた曲が、時間を経て、現実が曲に近づいてくるという経験を僕は何度もしている。」

果たして「Blood Moon」は、予言めいた作品なのだろうか。

他方、現代社会を痛烈に風刺した内容と言えるのが、「誰かの神」と「キャビアとキャピタリズム」。特に後者は「インディヴィジュアリスト」を彷彿させるアップテンポのリズムとギターのカット、そして辛辣な言葉が続き、絶対ライブで盛り上がることだろう。

しかしながら、こぶしを振り上げ、髪を振り乱すような激しいロックもなければ、軽妙なポップスもそこにはない。
その象徴として、アルバムに先がけてのシングルと思われた「君がいなくちゃ」が、このアルバムには収録されていなかった。公式サイトの言葉を借りると「全世代に贈る、普遍的な愛の唄」であったこの曲が収録されなかったことに、この作品の重み、特殊性を感ぜずにはいられない。

80年代、彼が「VISITORS」という作品を世に放ったとき、音楽業界ではいち早くヒップホップやラップの要素が取り入れられたその内容に、賛否両論が渦巻いたという。(当時僕は13歳の若造。残念ながらその賛否両論に耳を傾け、咀嚼できるほどの大人でもなければ、耳の肥えたリスナーではなかった。)
あれから31年が経ち、「VISITORS」は今もなお、80年代の音楽アーカイヴスの一翼を担う金字塔として輝きを放ち続けている。

これが、予言めいた作品ではないと信じたい。というよりも、この中に収録されているような社会が訪れる、つまり「時間を経て、現実が曲に近づいてくる」ことはあってはならないのだ。

シュールなジャケットに、危うく重い歌詞の連続、そして洗練された楽曲。佐野ロックの神髄、ここにあり、である。そしてそれは、聴く度にどんどん深みを増している。だが、正直言うと「Blood Moon」は、僕の中でまだ「何か」わだかまりがあってうまく飲み込めていないところがある。裏を返せばそれは、この作品(それも強いて言うならば「直接的すぎる歌詞」)に対する「わだかまり」ではなく、現代社会に対する「違和感」なのかも知れない。

しかし、「VISITORS」と全く質は異なれど、「何か」を抱えたまま、「問題作の一つ」としてずっと燻り続けながら、やがて皆既月食が終わった後の、満月のような輝きを放つのではないかと思っている。

その「何か」はきっと、「確信」なのだと思う。進むべく道は混沌としているし、この道が正しいかどうか、誰も「確信」を持てない世の中。だからこそ、リアルなバンド演奏を目の当たりにした時、その足りない部分がきっと満たされることだろう。10月のライブがますます楽しみになった。