Daily Archives: 2011-04-21

宮古市・災害派遣レポート #東日本大震災

3月29日。グループマネージャーが苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながら打ち合わせから戻ってきた。

「困ったことになった。どうしよう。うーん…。」

聞くと、4月16日から4日間、うちのグループから職員を宮古市へ災害派遣しなければならなくなったこと、人事異動により4名が転入してくるが、さすがにその人たちに任せるのは憚られること、ということでマネージャーか僕、いずれかが行かなければならない、ということだった。

なぜそんなことで頭を抱えるのか僕にはちょっとわからなかったが、「僕、行きますよ。喜んで。」と告げると、さっきまでの表情が一変、「ホント!?行ってくれるの!?」と、まるで僕が行くと言うのを待っていたかのように嬉々とした表情を浮かべていた。

ということで4月16日から4日間、被災地に対して今僕ができる精一杯の支援をしてくることが決定。

あっさりと被災地への派遣を受け入れたことに対し、職場内では驚嘆の声も上がったが、僕に言わせれば当然のことだったし、少しでも復興の一助になれればと、不安はまったくよぎらなかった。

作業を行うのは宮古市新里。津波の被害を受けた沿岸部からは約20キロ離れた山間の村である。既に作業を終えた先発隊からの情報によると、寝食に困ることはないこと、その気になれば毎日風呂だって入れることなど、想像していたより生活環境が整っているという。

作業はいたって簡単で、物資の搬入搬出と仕分けを行うというものであった。
がしかし、如何せん具体的かつ詳細な情報に乏しいため、期待感は徐々に不安へと変わっていった。さらに追い打ちをかけるかのように、当初隊長として派遣されるはずだった他の方が諸般の事情により派遣を断念、急遽その代役を任されることになってしまった。

出発前日。部長室でささやかな出発式が行われた。部長自身も被災地に足を運び、その惨状を目の当たりにしていること、健康に留意し、怪我のないよう作業して欲しいことなど訓辞の後、隊長から一言、を求められた。

僕からは、青森県を代表して被災地に出向き、少しでも避難所生活を強いられている住民の支えになれることを僕個人としては誇りに思うし、青森県の人たちに来てもらって良かったと思って頂けるよう作業に取り組みたい、といった意気込みのようなものを述べさせてもらった。

16日。朝からパッとしない天気で雨がこぼれている。妻に駅まで送ってもらい、大きな荷物と寝袋と食料袋を抱え、いつもの電車に乗り込んだ。
職場に置いてあった携行する灯油缶、ヘルメット等を車に詰め込み、8時30分に出発した。平日だと盛大な出発式があるようだが、土曜日ということで極めてこぢんまりとした、静かな出発となった。同行したメンバーは僕以外いずれも35歳のやや若手3名。この後宮古市で五所川原市、藤崎町の各3名と合流し、4日間がスタートする。

12時30分、集合場所である新里総合事務所に到着。

 

各市町のメンバーとも初顔合わせで合流し、隣接する新里福祉センター(我々の宿泊所である)で先発隊の隊長から引き継ぎを受ける。
 
(上:新里福祉センター。下:寝泊まりした部屋。こうやってほぼ雑魚寝状態。)

13時頃、作業を行う新里トレーニングセンターへ。

各地から送られてきた物資の入った段ボール箱が所狭しと並べられていて、通用口では食料品などの搬出が行われている真っ最中であった。

(高く物資が積まれ、壁にはメッセージが貼られている。)

特に儀礼的な引き継ぎがあるわけでもなく、作業が終わるとともに先発隊の人たちは「それではお願いします。」と一言残して、トレセンを去っていった。程なく、各避難所への物資の搬出が始まった。

ちなみに我々以外に作業をしていたのは、食料を管理し、搬入搬出の指示を出す自衛官が3名、岩手県職員が3名、宮古市職員が3名、自治労(初日は奈良県、京都府、滋賀県。2日目以降は奈良県、京都府、山形県)からの派遣職員が10名ほど、クロネコヤマト社員(中国支部、関東支部、甲信越支部の社員が入れ替わり)が10名、地元のボランティア(市職員OBや元市議会議員など)が10名程度、地元高校生が5~10名程度であった。

簡単に作業の流れを記すと、以下の通りになる。これを4日間続けたことになる。

(午前)
各地から送られた物資を積んだトラックがトレーニングセンターに到着すると、それぞれが台車を手に、トラックから物資を積み下ろし。台車を手にしていない人たちは、トラックからの積み下ろしや、センター内での物資の搬入(日用品、食料品がそれぞれのブロックに分けられており、箱の内容を確認して同じブロックに運ぶ)を手伝う。
宮古地区(市中心部)の避難所は分散されているため、物資の運搬は自衛隊ではなくクロネコヤマトが行う。前日の午後にひとかたまりになった宮古地区への物資をさらに7カ所程度の避難所に運搬するため仕分けを行う。基本的に仕分けはクロネコヤマト社員が全て行うが、物資が多い時はこれをサポートする。ちなみに僕が行った作業は、段ボールに入った野菜を何グラム、何キロと、指示された分だけ重量を量り、袋に入れるというものだった。

(午後)
午前中にクロネコヤマトが搬出した分以外の物資については、自衛隊が毎日炊き出しのため各避難所に運搬する。市内4カ所(津軽石、重茂、田老、宮古小)分の物資については、自衛隊のトラックが到着するたび積み出し作業を行う。
5地区の物資がなくなった後は、自衛隊の指示に従い、翌日搬出するための食料の仕分けを行い、各地区ごとに物資をまとめる。

缶詰が大量に入った段ボール箱や、30キロの米、大人3人でやっと持つことのできる味噌樽、1200食分の乾麺など、腰がおかしくなるぐらい重いものもあれば、椎茸やカップラーメンなど、片手でも楽々運ぶことのできるような軽いものまで、さまざまな物資の搬入搬出、仕分けを行う。

作業時間は朝8時から夕方16時頃まで。多い時は物資を積んだトラックが立て続けにやってくるし、逆に2日目の日曜日はトラックが2台しか来なかった、ということもあった。

手の空いた時間は、宮古市が管理する日用品の整理を行う。僕が手をつけたのはトイレットペーパーやティッシュペーパーといった類の箱の整理整頓だったが、手のついていない日用品が大量に山積みとなっていた。

2日目3日目は、交代で被災地視察を行うこととしていた。我々は3日目に被災地視察を行うこととしていたが、2日目の作業が16時で終わったため、宮古市内と田老地区の視察を行い、3日目は山田町と大槌町の視察を行うことを決めた。
宮古市中心部へは車で約25分。信号は大部分が復旧しており、店舗も営業を再開している。が、やがて跨線橋を越えると、思わず目を覆いたくなるような光景が広がっていた…。

ここが日本なのか?これが日本で起きたことなのか?さながら映画のセットの中にでもいるような錯覚。でも、これは全て現実なのだ。新聞やテレビで見た断片的な光景が、僕の立っている360度全てに広がっている。

初めて目にするその光景に、ただただ言葉を失い、唖然とするしかなかった。
宮古市役所に辛うじて明かりがともっているのを確認することができたが、信号は消えており、徐行しながら進んでいった。岩手県でも有数の景勝地である浄土ヶ浜に向かう浄土ヶ浜大橋を歩いてみる。眼下には太平洋。堤防がものの無残に破壊され、橋が落下している。

反対側から眼下をのぞき込むと、お墓がなぎ倒され、土台だけが残っている光景。

 

その先には、さっき見た廃墟のような町並みが広がっている。

誰もが無言となって車に乗り込む。田老地区へ向かう道中も、無言。
高台は何事もなかったのような、普通の光景。トンネルを抜け、坂を下り始める。太平洋が見え始めるとともに、無残にも津波によって破壊された建物や船が見え始める。やがて右手に長い防潮堤が見えてくると、さらに愕然とするような光景が広がっていた。

田老地区。延長2.5キロにも及ぶ海抜10メートルの防潮堤。昭和8年の昭和三陸大津波を教訓に築き上げられたものであるが、今回の地震においては、残念ながら何の用もなさなかった。残念ながら、この防潮堤があるから大丈夫、という過信で命を落とした人がいたという。
実際防潮堤に上ってみると、防潮堤の両側に無残な光景が広がる。

津波によってひっくり返された無数の車、そして、赤くペイントされた×マーク…。

一体どれだけの津波が押し寄せたのか。そして、その津波が駆け上がった防潮堤に立っているだけで息苦しくなるような光景が眼下にあった。

3日目。
14時頃に作業が一段落したので、予定通り山田町~大槌町の視察を行った。当初は山田町までの視察を予定していたのだが、大槌町の惨状も見た方がよい、という地元の人の後押しもあって、向かうことにした。

三陸道(宮古道路)を南下し、国道45号との交差点が近づくと、昨日見たのと同じ光景がまた広がり始める。
山田町は解体されていない建物が多く残ったままで、自衛隊が作業に取りかかっていた。

途中の浪板海岸は、サーフィンの名所でもあるようだが、サーフィン客が宿泊に利用するホテルには、車が突っ込んでいた。

大槌町はさらに無残な光景が広がっていて、中心部は道路状況もかなり酷い状態だった。
神奈川県警の機動隊車両が配置されている。どうやら捜索活動がまだ続いているらしい。 

大槌町役場の前。なぎ倒された看板の上に、花が供えられていた。そっと手を合わせ、役場に一礼し、緊張感漂うこの地域を後にした。

山と谷の連続するリアス式海岸。山はまるで、何事もなかったかのような佇まいを気取る。が、坂を下ると、谷に作られた町は軒並み津波によって破壊され、その光景の繰り返しが延々100キロ以上に渡って続いているのだ。

一瞬にして津波にのみ込まれ、廃墟と化したその光景を見て、津波、いや自然に対する畏怖の念を抱かずにはいられなかった。

4日目。
遂に最終日を迎えた。終わってみるとあっという間だった。
この日の朝、作業に向かう前に初めて全員を集めた。

隊長という立場でありながら、何一つ隊長らしいことをしなかったことを詫び、最後に隊長からのお願いとして三つ。一つは、自宅に戻り、玄関を開け、靴を脱ぐまで気を抜かないで欲しいということ。もう一つは、いつかこの三陸の地が復興した暁には、もう一度この地を訪れて欲しいということ。最後に、今回のこの作業で、我々の力が少しでも被災地のお役に立てたということを誇りに、それぞれの持ち場に戻って頂きたいということだった。
皆、神妙な面持ちで僕の話に耳を傾けていた。
そして最後に、二度とこういう災害派遣という形で皆さんとお会いすることがないよう願いたい、ということを述べさせて頂き、締めくくった。

12時30分過ぎには福祉センターにおいて次の隊に対する引き継ぎを行い、トレーニングセンターへ。ちょうど午後最初の作業を終えたばかりのようで、全員が待ち構えていた。我々が引き継いだ時とは別に、自然と対峙する形になり、次の隊に「お願いします。」と声を掛けた。一緒に作業してきた自衛隊、自治労、クロネコヤマト、宮古市役所の方々に挨拶を済ませ、センターを去ろうとしたら、自然と拍手が沸き起こった。4日間、他のチームでも引き継ぎが行われていたが、拍手を聞いたのは初めてだった。足を運んで良かった。少しでもお手伝いできて良かった。作業をやり終えたという達成感と満足感、そして「自分の家」に帰ることができるという安堵感が入り交じり、胸にグッとこみ上げる感覚を覚えた。
しかし、宮古をはじめ被災地では「自分の家」を失い、家族や友人を失った人たちが大勢いることを慮ると、自然とそういう感情も消えていった。

作業終了後、隊の人たちとその日の出来事を話し合うことがあったのだが、その中で、地元の方が「修学旅行が延期とか自粛とかいっているけれど、今だからこそ三陸に来て「社会見学」して欲しい。他の地域の小中学生に、この惨状を見て欲しい。ガイドならいくらでもいるから、是非次の世代にこの惨状を教訓として受け継いで欲しい。」といった話をしていた、というのを耳にした。

復興の道のりは遠く険しいかも知れない。がしかし、日本は今まで、幾度となくどん底にたたきつけられ、這い上がってきた。だから絶対、必ず復興する日はやってくる。被災地の皆さん、どうぞ無理をなさらずに。大丈夫、我々がついていますから!