先月末に額を地面に打ち付けてから2週間ちょっとが経った。1週間ほどで抜糸となったが、今も額には7針を縫った生々しい傷跡が残っており、現在は肌色の布絆創膏でその傷口をふさいでいる。
…絆創膏を貼っている理由。
一つは、やはりちょっと目立つ傷跡なので目立たないようにすること、もう一つは、紫外線によって傷跡が少しでも残らないようにするための防御。特にランニングをしていると肌年齢が老化しているため、ささやかであろうともこういう施術後の対策が必要なのだそうだ。
ちなみにこれは訪れたお医者さんではなく、ランニング仲間でもある他のお医者さんから聞いたアドバイスであって、今はそれを忠実に守っている。
起きてしまったことは仕方がないとはいうものの、もうすぐ44歳を迎える自分も、いよいよ少しずつではあるが「老い」を意識しなければならない時期に差し掛かっているのだな、と痛感する出来事だった。正直に言うと、「まさか自分が」といった悔しさによるショックの方が遙かに大きかった。
怪我を負った直後に、「ああ、自分も打ち所が少しずれていれば、左目を失明していたかも知れないし、場合によってはそのままゴールを迎えていたのかも知れないな…。これはきっと怪我の功名だったんだ。」ということを朧気ながら考えるとともに、あの日以来「人生のゴール」をしばしば考えるようになった。
人間の一生を考えると、「誕生→成長→成熟→老化→ゴール(死)」という一つの流れになると思う。このうち成熟と老化は紙一重であり、成熟し尽くさぬまま老化を迎えるということもあるだろうし、死ぬまで成熟し続けるということもあるだろう。
いずれにせよ、そのゴール地点がどこにあるのかは人それぞれであり、また、他人のゴールがどこにあるのかは、誰にもわからない。
もっとも、昨年から一つの目標としている「進化し続ける」ということを取り下げるつもりはないが、もうすぐ迎える44歳という年齢を考えても、ひょっとしたら恐らく人生の折り返し地点は既に過ぎてしまったのかも知れない。
…となると、遅かれ早かれ少しずつ「老いの先にあるもの」を考える時期に差し掛かりつつあるのかと、額の傷を擦りながら、急に老け込んだ気分に苛まれた。
まだ40代半ばじゃないか!といわれるかも知れない。しかし既に高校時代の同期生が、ざっと浮かんだだけで既に6名も鬼籍に入っていることを考えると、これは決して他人事ではないのだな、と思い始めたのも事実なのだ。
人生はよくマラソンに例えられるが、人生にネガティヴスプリットは必要ないと考えている。
でも、どうせならば人生のゴールを迎えた暁には、万雷の拍手を浴びたいと思う。
「お疲れさま」「ありがとう」って言われるような、そんなゴールを迎えたいと思う。
「昨年の自分より進化すること」はもちろん、そんなゴールを迎えることも、これから先の一つの目標としてもいいのかな。
汚点を残す必要はないが、立つ鳥跡を濁さずでは、ちょっと寂しすぎる。
さて、自分はこれまで何を残してきたのだろう。そしてこれから、何を残せるのだろう。