日別アーカイブ: 2016-07-03

熊本地震支援業務について -益城町での活動記録-

熊本地震(くまもとじしん)は、2016年(平成28年)4月14日21時26分以降に熊本県と大分県で相次いで発生している地震である。
気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測する地震が4月14日夜(前記時刻)および4月16日未明に発生したほか、5月14日9時までに最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生している。日本国内の震度7の観測事例としては、4例目(九州地方では初)および5例目に当たり、一連の地震活動において震度7が2回観測されたのは初めてのことである。(出展:Wikipedia)

震災から2か月以上が経過した6月25日から1週間にわたり熊本県に滞在、震度7を2度観測した益城町で避難所運営の支援業務を行ってきました。全国知事会からの要請を受けたもので、青森県からは6月10日ころから3名1組の班が交代で業務に当たっており、私は第5班の一員として派遣されました。

益城町は熊本市東部に隣接しており、人口は約3.3万人、熊本市のベッドタウンとして発展を遂げてきました。おもな産業は農業で、スイカやイチゴの産地だそうです。熊本県の空の玄関口である熊本空港(阿蘇くまもと空港)も、益城町にあります。

25日の夕方に空路熊本県入りした我々は、レンタカーを借りて益城町へ向かい、支援業務を行う小学校で前の班からの引継ぎを受けました。実際の業務は翌26日から30日までの5日間(前後1日は青森~熊本の移動日)。業務の内容は、支援物資の管理や朝昼晩の食事の配給、仮設トイレの清掃、支援本部会議への出席など多岐にわたっています。

まずその前に、熊本地震から2か月以上が経過、新聞やテレビなどの報道で、その後の状況がどうなっているか、といった情報がほとんど伝えられなくなってしまいましたので、益城町の現状がどうなっているのかをお伝えしなければならないと思います。

益城町役場の前。国土交通省が地震計を設置。2体の銅像が地震の大きさを無言で物語っています。

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役場も地震により大きな被害を受けたため、プレハブの仮庁舎で業務が行われています。


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役場から南寄りにある木山地区。南側を東西に流れる秋津川に向かって下っているこの周辺の活断層が大きくずれたことにより、震度7の直下型地震が発生した、という分析がされているようです。
6月26日と7月1日にこの地区を訪れてみましたが、多くの建物は依然として倒壊したままの状態となっています。

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東日本大震災では、大津波が街を飲み込み、引っ掻き回し、そして海へと引きずり込んでいきました。街に残されたのは、たくさんの瓦礫の山。
一方の熊本地震は、直下型地震であったため、火災が発生したところも複数ありましたが、建物の多くはその場で損壊しました。

建物の損壊度合いの判定は「一部損壊」「半壊」「大規模半壊」「全壊」に分類されますが、外観だけで判定されたおうちが多く、基礎を含む再判定により、損壊度合いが変わるケースが後を絶たないのだとか。

地元の方に聞いた話では、このあたりは瓦葺の建物が多く、激しい揺れに見舞われた古い住家は、瓦の重みで潰れてしまったところもあったそうです。一方、最近では軽い瓦も登場しているとのことでしたが、こちらも揺れによって屋根瓦が崩れたお宅もかなりあるそうで、例えば屋根だけの一部損壊で済んだお宅で屋根瓦を注文しても、現在は300軒以上待たなければならないのだそうです。

このため、飛行機に搭乗した際に上空から見ると、今もなおブルーシートに覆われた家がたくさん見受けられます。

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DSC_0595(役場庁舎3階から見た光景)

また、我々が訪れたころは梅雨の最盛期で、1時間の雨量が90ミリ近くという猛烈な雨が降った時もありました(というか、私が滞在している間は四六時中雨が降っており、私自身が雨男なのだということを痛感させられました)。
地震直後、着の身着のままで避難された住民の方々は、家財道具や思い出の品々を整理するため、損壊したご自宅に向かわれる方も多かったのですが、大雨による雨漏り等のために棄損しなければならないという事態も発生しており、涙をこらえて避難所に戻られた方もいたようです。

木山神宮。この地区の皆さんの心の拠り所になっている場所ではないでしょうか。が、しかし。

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ご覧の通り、本殿は屋根を残して潰れていました。こちらも屋根瓦の重みで潰れた建物の一つのようです。

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そして、この木山神宮の周辺には住家がたくさんあるのですが、前述のとおり建物が軒並み倒壊しており、今もまだ手付かずの状態になっていたほか、道路や駐車場が大きくうねっている箇所が散見されていました。今もなお時々余震に見舞われることから、ご自宅に帰れずに避難所暮らしを続けている人もいるようです。

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私が支援活動に従事した小学校は、益城町役場から北西に数キロ離れた場所にありました。我々が訪れた時点で約160名の方々が学校に避難していたほか、近くにある「グランメッセ熊本」の駐車場にはトレーラーハウスやテントで暮らす方の姿が見受けられました。

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支援活動を通じて感じたいくつかのことを。

・震災から2か月以上が経過し、避難所で暮らす方々の多くはもとより、支援業務に従事する役場や県の職員の心的なストレスも相当ではないかと思う場面に何度か遭遇しました。実際、地元紙では熊本市役所の職員のうち約500名にPTSDの症状が見られると報じられていました。避難者はもちろん、職員の心のケアをしっかりしていかなければならないと思います。
・その一方で、全国からの行政による支援は、実は撤退の方向で進んでいます。6月末を境に多くの県が撤退、現時点で支援に従事しているのは、かなり少ないのではないかと思います。しかしながら、県や被災自治体による復興計画の策定は現時点でなお急ピッチで進められているような状況であり、せめて計画が策定されるまでの間は支援を継続してもよいのでは、と思ったのが正直なところです。
・益城町には私たちが作業を行っていた時には14か所の避難所(直後に1か所が閉鎖)があり、仮設住宅の整備も進んでいます。が、あまりに辺鄙な地域(空港から至近の場所にある、工業団地)に作られたため、せっかく入居の抽選に当選したにもかかわらず、辞退する避難者の方も多いようです。「何たるわがまま!」と非難する声もあるようですが、近隣に買い物をする場所もないようなところに、移動手段を有しないお年寄りなどが行けるはずがありません。私も同じ立場であれば、躊躇したと思います。もちろんいろんな事情があってのこととは思いますが、もう少し配慮してあげても良かったのではないかと思います。(その後、この仮設住宅が作られる地域での巡回バスの運行や食料品店の出店などが報じられました。)

DSC_0608(写真は現在建設中の仮設住宅。ここでも近隣に食料品を購入できる店はないようです。)
・朝はおにぎり、昼はパン、夜は弁当の配給が行われます。大手コンビニから提供されるもので、町が発注をしているそうです。これは、避難所である体育館やテントなどでの生活を強いられている方のみならず、「ご自宅が被災し、炊事のできない環境にある方」にも配給されます。しかし現実には既に断水などは復旧しており、ご自宅で炊事を行うことは差し障りがないようです。にもかかわらず、町の方針として配給が今も続いているという現状には、正直「なんで?」と思いました。そして、外から配給を頂きに来る人の中には、「今日は○○はないの?」とか「私、これ好きじゃないのよ。」などと、支援物資にケチをつける人も。「そんなに嫌なら買えば?」と何度喉元まで言葉が出かかったことか…。
・作業をしている5日間のうち、4日間にわたって炊き出しが行われました。ほぼ毎朝みそ汁の提供が行われたほか(7月からは月・水・金に変更となった)、カレーや炊き込みご飯、コーンスープ、牛タン丼など、さまざま。
確かに必要とはいえ、炊き出しも配給も続ければ続けるほど、避難所やその周辺で暮らす方々が「当たり前」として受け止めてしまい、住民の皆さんの自立の足かせにならないだろうかと、ふと思った次第です。

作業をしていた避難所の中には、震災で親御さんを亡くした高校生の姿もありました。が、そんなことを微塵も感じさせない振る舞いに、こちらが励まされ、勇気づけられるような思いでした。
このように、避難を強いられ生活している人々は、その事情がそれぞれ全く異なります。
たった5日間という作業の中で、私自身が本当にお役に立てたのかは正直わかりません。
しかし、被災した皆さんが1日も早く以前の生活を取り戻すことができるよう願うばかりですし、いつか復興を遂げた暁には、熊本城をはじめいろんなものを、自分自身の目で確かめに行きたいと思いました。

青森と熊本は、距離にして約1,500キロ離れていますが、私としては傍に寄り添っているような気持ちで、1日も早い復興を心から願っています。