日別アーカイブ: 2018-01-15

「返報性の原理」 ~見返り美人は、何処へ?

僕が内省的なことについて投稿するときは、大体テンションが下がっているとか気分がネガティヴになっているとか、そういう時が多いです。今日も何となくそういう気分の中、投稿したいと思います。

「返報性(へんぽうせい)」という言葉をご存じでしょうか。

昨年11月に都内で行われた会議で、恥ずかしながら初めてこの言葉を知りました。

人は他人から何らかの施しを受けた場合に、お返しをしなければならないという感情を抱くが、こうした心理をいう。この「返報性の原理」を利用し、小さな貸しで大きな見返りを得る商業上の手法が広く利用されている。(Wikipedia)

昨年は「忖度」という言葉が突如現れ、意味もよく理解していない中で言葉だけが一人歩きすることとなり、世間を席巻しました。(→「せけん」を「せっけん」、密かに韻を踏んでいます。どうでもいいことですが。)

今年は「返報性」が流行語大賞の候補に…なるわけがないか。
喜怒哀楽、悲喜交々は、それぞれ相関関係にあって、人によってそれなりにバランスが取れていると思います。

(明と暗のバランスを保つのも結構難しい。)

因果応報は自分自身の振る舞い、行いが良くも悪くも自分の身に降りかかるという趣旨の一方で、返報性は、自分自身の振る舞い、行動の見返り(報償)を他人に求めるという趣旨と捉えるといいのでしょうね。
スーパーに行くと、返報性の原理の応酬が繰り広げられています。

(1)夕方の割引シール

「うわぁ…この肉食べたいけれど高いなあ。とてもじゃないけど買えないや。」

ところが店内を1周してきたら、その肉に30%値引きのシールが貼られていた。ここで手を伸ばすか、半額になるまで待つのか。でも、半額になるまで待っていたら売れてしまうかも知れない。妥協する程度の線を上下する葛藤。ええい、買ってしまえ!…というこれ、まさに返報性の原理。

(2)試食販売

スーパーの中で繰り広げられる試食販売。中にはこの試食だけを目的にスーパーを訪れる強者(馬○者?)もいるようだが、買い物に連れてきた子どもが親の制止を振り切って試食に手を伸ばすこともしばしば。別に買いたい訳ではないのだけど、試食までさせてもらって何となく気が引ける…ま、一つぐらいならいいか、と購入してしまうこれも、返報性の原理。

店側の「譲歩」に対してこちらも「譲歩」しなければという心理。これがまさに返報性の原理。


テレビショッピングなども典型的な返報性の原理。「通常価格1つ2万円のところを、今日は半額の1万円、更にこれだけのオプションも付いてお値段据え置き!今から30分のみの受付!」という触れ込みに、心躍らされることはありませんか。

「通常価格1つ2万円」という刷り込み、そこからあたかも「譲歩」しているかのような販売手法。「通常価格」と「実売価格」は違うよね、ということは誰も指摘しません。だから、矢継ぎ早に販売者が示す「譲歩」にどんどん気持ちが傾き、そこまで安いなら…とついつい「譲歩」、気がついたらオペレーターセンターに電話していた、などということありませんか。

高額な布団販売も似たような感じなのでしょう。1枚80万円の布団なんて買えるわけないだろう!と最初は思うけれど、5割引、6割引、いやいや7割引!と「譲歩」されると、「そこまで安くしてもらえるなら…」とついつい「譲歩」して、気がついたらとんでもないローンを組んでいた…なーんてね。(実際この「返報性」、詐欺の手法でも使われるらしいです。)

そんなことを考えると、この世には良くも悪くも「返報性の原理」つまり「見返りの応酬」が溢れているようにも思えてきます。穿った見方をするならば、オイシイ話には裏がある、みたいな感じにも受け取れるわけですが。

人は、怒っているときには怒りの程度の線があり、それに対して謝罪を試みる場合は、その線を越えなければ許してもらえないと思います。例えば、謝罪しようにも、謝って済む話じゃない、とか、そんなの謝罪になっていない、とか。その線を越えるまで謝罪を続けることでようやく許しを得るような気がします。そこまで謝ってもらうなら、こちらも許さなきゃ。

また、人は、悲しんでいるときには悲しみの程度の線があり、それに対して慰めを試みる場合には、悲しみの線を越えなければ慰めにはならないと思います。私の悲しみは誰にも理解できるものではないし、周囲をこの悲しみに巻き込みたくないし、同情もいらない、みたいな。けれど、誰かの慰めによって、その悲しみから開放されることがあるのではないでしょうか。そこまで自分に寄り添ってくれるならば、いつまでも悲しんでいるわけにはいかない。

そう考えると、「返報性の法則」ってゴロゴロ転がっているような気がしませんか。でも、一つ履き違えると大変なことに。

因果応報が自分自身への「戒め」だとするならば、返報性は他人への「期待値」。

ただ、その「期待値」を上方に設定する(他人からの「見返り」を過度に期待する)ということは、それ相応に自分自身も対応する、ということになります。ハイリターンには当然、ハイリスクが伴うわけですから。

勘違いしてならないのは、「俺が、私がこんなに頑張っているのに、何で誰にもわかってもらえないんだ!」という、「自意識」。それは「返報性の法則」云々ではなく、多分その頑張りが、周囲にとっては思ったほどではない、早い話が周囲にとっては全然大したことない、ということ。こういう勘違いというか自意識過剰が、周囲との意識や感覚のズレを生み出すこともあるので、気をつけましょう…という自分自身に対する戒め。

…さて、皆さんは周囲に何か期待していることはありますか?

何よりも、その期待に答えられるような振る舞い、行動(言動)を取っていますか?
何か最近、そういうことを考える気分にもならないかな、僕の場合は。
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