ひょんなきっかけで約13年ぶりに再会することになった女性に向けて、自筆の手紙を書いた。
パソコンやケータイでのメールが席巻する中、キーボードで入力すれば何も汚い字じゃなくても綺麗に入力・印刷されるし、誤字脱字の確率も自筆と比べて格段に下がることだろう。
しかし、自筆でなければ伝わらない思いがあると、僕は確信している。
どういうわけか僕は、その女性と会うと決まった日から、自筆の手紙を書かなければならないという衝動に駆られていた。何故自筆に至ったかという経緯は胸に秘めておこうと思うが、その方と共通していることが一つだけ。
それは、この3年のうちに大事な人を失った、ということだ。
誤解を解くための弁明、というわけではないが、その女性とは約13年前、同じ職場で机を並べて仕事をしていたという関係にある。ちなみに年齢は、うちの亡き父と同い年だったと記憶している。
その後は、年賀状のやりとりだけの関係にあったのだが、いつも気に留めて頂いたようで、うちの父が突然亡くなった時、お心遣いをわざわざ職場に届けて下さった。
その1年後、今度はその方から欠礼の葉書を頂いたのだが、時機を逸してしまったという後ろめたさもあり、こちらからの心遣いは何もしないという非礼っぷりだった。
そのことがずっと心のわだかまりとして引っかかっていたところ、ご縁というのは不思議なもので、今の職場にその方の娘さんが勤務するようになった。
娘さんに聞いたところその方は、自宅で介護を続けていたお母様を亡くして憔悴しきっていたところに、(別居状態ではあったが)ご主人も亡くするという不幸が続いたとのこと。
こちらとしては何とか非礼を詫びるきっかけと、少しでも元気を取り戻して欲しいという思いだけで、直接お会いする機運を見計らっていた。
娘さんには「お母さんとデートさせろ(笑)。」としつこく迫っていたのだが、先般ご本人から直接電話を頂き、ようやくお目に掛かるきっかけを得た。
その方に宛てた手紙の内容は敢えて書く必要もないのかも知れないが、その方に対する励ましのつもりが、いつしか自分を奮い立たせる内容に変節してしまったような気がする。要約するとこんな感じだ。
・生き様はどうであれ、僕にとって父は生涯誇りであり続けること。
・人の死は無情であるが、同時に無常でもあること。
・人は生まれながらにしてやがて「肉体の死」を迎えるという唯一の「絶対」があること。
・いくら嘆き悲しもうとも、「肉体の死」を迎えた人たちが家の玄関をノックすることは二度と無いこと。
・しかしその一方で、その人たちが心のドアをノックすることはいつでもあるわけで、そのきっかけを与えるのは我々の思いにあるということ。
・他人からの「頑張れ」という励ましほど無責任でプレッシャーになる言葉はないということ。
・だから無理に頑張らない程度に適当に今の人生を楽しもう、ということ。
つい先ほど再会し、「家に帰ってから読んで下さいね。」と渡した手紙には、これまでの非礼を詫びるとともに、御霊前にお花を供えて頂くためのギフト券もこっそり忍ばせておいた。
手紙を書き始めて仕上がるまで約30分。何かが乗り移ったかのように、黙々と万年筆を走らせた。僕の心の中にあった思いは、汚い字に乗せて伝わっただろうか。伝わってくれればいいのだが。