月別アーカイブ: 2012年5月

3年ぶりの釣行


隅一【すみ・いち】 野球で、一回に一点入れただけでその後、点が入らないこと。

てっきり2年ぶりだと思っていたら、実は3年ぶりとなる釣りに行ってきた。ひょっとしたらもう行くことはないのかな、とか思ったけど、思いは通じるものだな、とか思ったり。

事の発端は、土曜日14時頃ケータイに掛かってきた一本の電話。
発信元は、平日教師週末漁師のタガシ先生。むむ…何かあったのかな?
「おう、久し振り。あのさ…いきなりなんだけど明日釣りに行かない?」
突然のお誘いに一瞬戸惑う僕。しかし次の瞬間、「行く!行きます!」と、自分の都合だけで行くことを勝手に決定。
事後承諾を取るため隣で買い物をしていた妻に確認すると「うん、いいんじゃない?行ってくれば?」と快諾。
ということで、約3年ぶりとなる釣行が決定!

家に帰り、部屋に置いてあった竿を取り出すと、これがまた埃だらけ。そりゃそうですよ、3年間まるで使っていなかったんだから。ええと、仕掛け仕掛け…と。あれ?リールはどこへ行ったっけ?
物置に押し込められた仕掛け、リールを見つけ、蓋を開けてみて愕然。
釣り針が…錆びてる。リールが…動かない。

換え針を血眼になって探し、リールには潤滑油を差しまくり、何とか釣りのできる体裁は整った。おお…3年ぶりのライフジャケットもヨレヨレになってるじゃないか。

控えめに小さなクーラーと、一番大事な酔い止めの薬、これも購入してから3年以上経過しているので効くかどうかはわからないが、取りあえず気休めということで用意。

一通り準備を終え、20時過ぎに強引に就寝。うつらうつらではあったが、何とか未明の2時まで眠ることができた。

2時30分。まだ酔っ払いの乗ったタクシーが走る中、暗闇の中に、竿を片手に佇む怪しい人影。
…ハイ、僕です。

タガシ先生は程なくやって来た。挨拶もそこそこに、出発地となる外ヶ浜町(旧:蟹田町)へGO。

途中コンビニに立ち寄り、食料と水を購入。今回お世話になる船がどれぐらい海上にいるかわからないということで、いつもより少し多いかな?というぐらいの量を購入。
でも僕、家からバナナ2本も持参してたんだよね。

出港予定時刻である4時10分前、待ち合わせ場所の船溜まりに到着。今回の船長は僕の同業者であるSさん。直接一緒に仕事をしたことはないのだが、以前電車の中で知人を通じて釣りの話になり、「今度乗りますか?」「ええ、是非。」なんていう社交辞令的会話を繰り広げていたのだ。ちなみに現在も、同じ車両で通勤しているという…。
人のご縁とはわからないもので、そのSさんとタガシ先生の娘さんが中学校で一緒の部活に所属しているらしく、そのことがきっかけで今回の話になった、とのこと。
どうやらタガシ先生は事前に「Sさんと同業の友人と一緒に行く」とメールしたらしく、到着するなりSさん「やっぱりー。」と笑顔。なかなか勘が鋭いです。でも、Sさん確か僕の名前知らないよね(爆)。まあいいや。更にもう一人同業の方を加えた4名で、いざ出港。

東の空はオレンジ色が広がっているが、まだ日も昇っていない。
陸奥湾を疾走する船。Sさん、結構飛ばす。思いの外風が冷たい。いや、日が昇っていないので寒いのだ。もう少し着込んでくれば良かったと、ちょっと後悔。

程なく東の空から日が昇る。

「おお、ご来光じゃないか。」
意味もなく手を合わせる。もちろん釣れますように、そして無事に帰れますようにと願いを込めて。

これまでも何となく釣り好きをアピールしていたが、実は僕、すぐ船酔いする体質。ちょっと白波が立とうものなら、ものの30分もせずにマーライオンよろしく船体にもたれかかる姿を見ることができる。更にその後はひたすら寝て、寝て、そして寝る…。一体釣りをしに来たのかそれとも寝るために来たのかよくわからないぐらい。
ただし、嘔吐と睡眠を繰り返しつつ、その合間におもむろに糸を垂らしてはしっかりと獲物を釣り上げたりするものだから、周囲の人たちは呆れながら「出た!眠り釣法!」といって笑っていた。もっとも、当の本人は釣りも嘔吐もイッパイイッパイで、早く陸に上げてくれることしか願っていないのだけど。

ただし今回は主戦場が陸奥湾である。日本海の波とは比較にならないぐらい穏やか、なハズなのだ。もちろん事前に(効くか効かないかわからない)酔い止めの薬を服用し、更に両腕には「シーバンド」と呼ばれる、酔い止めのツボを刺激するリストまで装着済み。気休めに過ぎないかも知れないが、一応準備は万端なのだ。

さて、旧蟹田町の船溜まりを出港したSさんの船は、気がつくと陸奥湾を北上し、旧平舘村の沖合へと来ていた。
まだ周囲に船は少なく、やはりこの時間だとまだ早いらしい。
「この辺が前、良かったんだよな。」
そう言って仕掛けをセット。
さて、今回の仕掛け、何とエサがありません。糸にジグと呼ばれるいわばルアーを装着して、おしまい。あのウニョウニョしたイソメも、エビも、一切なし。
これを水深10~30メートルのところまで沈ませ、後はひたすらリールを巻き続けると、今回のターゲットである真鯛が、小魚と間違えてガツンと食ってくる、ということらしい。

エサで釣る方法で慣れた僕としては、この3年間で起こった釣法の変化(といっても以前からこういう釣り方はあったようだが)に戸惑い、ホントに釣れるのか半信半疑。
実際、最初のポイントで言われたとおりに仕掛けを放り投げても、誰の竿にも何の反応もない。

ホントに釣れるんだベガ?
ますます深まる疑念。エサ釣りの方がいいんじゃないの?
思えば平舘沖はこれで二度目だが、前回は総スカンを食らい、誰にも何も釣れなかったという苦い思い出がある。

「移動。」
Sさんがポツリとつぶやき、再び船は北を目指す。霧の未だ引いていない遠くには下北半島の仏ヶ浦がうっすらと浮かび上がっている。

「あ…。」
更に北上を続けると、そこには驚きの光景が待ち構えていた。何と、無数の船があちらこちらに停まり、その船からは各々竿を持つ人影が見えるのだ。釣れているから船が集まる。釣れていなければ船は散る。船釣りなんて、そんなものだ。
一体この人たちは何時から釣りをしていたんだろう?時間は未だ5時を過ぎたばかり。完全に出遅れた感がプンプン漂っている。
取りあえず魚群探知機で魚影を探す。すると、20メートル付近に真っ赤な反応。
「ここだ!」

一斉にルアーを投入すると、
最初に反応があったのはタガシ先生。あれよあれよの間に真鯛を釣り上げた。
な、何なんだ?ホントに釣れるのか!?

ルアーで真鯛を釣り上げるという感覚が未だ掴めぬまま、Sさんも後に続き、3匹、4匹と船の生け簀に真鯛が投入されていく。

「のんべ、メバルの釣り方あるでしょ。あの感覚だよ。」
タガシ先生の助言。なるほど5年ほど前まではまっていた夜釣り、メバルを釣るというあの感覚ね…。
仕掛けを落とし、少し早めにリールを巻いてみる。

ガツン!

おっ!アタリが!思わず手を緩めると、タガシ先生が「そのまま巻いて!」とアドバイス。残念ながらそのアタリ一発で無反応だったため、真鯛は興味が失せてしまったらしい。

そうか…何となくわかったぞ。
再び仕掛けを投入。リールを巻き続ける。

…ガツン!再びアタリが!
手を緩めずそのままリールを巻くと、仕掛けがグイッと持って行かれる感覚。エイヤッ!と一気に竿を引き揚げる。
竿先が大きく撓り、リールからジャーッと音を立てて糸が走っていく。

キタッ!キターッ!
遂に念願の真鯛がヒット!約40センチと大きさはそれほどではなかったが、久し振りの真鯛の姿に大興奮!

その後も僕を除いて入れ食いよろしくどんどん真鯛が釣り上げられる中、僕の竿にもようやく2匹目がやって来た。仕掛けを落としている途中で、リールから出て行くはずの糸がピタリと止まった。あれ?と思って巻き上げた途端、リールがジャーッ!

うわわ。フォールの途中でヒットしてたか!
しかも今回は引きが強い。さっきのより大きいこと間違いなし。しばらく駆け引きを楽しんだ後(ホントはそんな余裕なんてないんだけど)、水面に浮かんできたのは50センチ近くの真鯛。しかも、下あごに辛うじて針が引っかかっている状態。よくぞ外れずにここまで来てくれました。
ありがとうございます。3年ぶりの釣行、もうこれだけで十分です。

…と思っていたら、ホントに僕の釣果はこれで終わってしまった。時間にしてまだ6時30分。
結局そこから退屈な時間が延々8時間30分も続いたわけで…(苦笑)。
隅一ならぬ、隅二で勝負あり。

まぁ、イルカの群れがあちこちで泳ぐのを確認したり、霧の晴れた向こうに北海道が見えたり、バカでかいカレイが釣り上げられる瞬間を見たり、船上で食べるバナナが結構美味しかったり、それなりに楽しい釣りではあったんだけど、欲を言えばもう1~2枚釣り上げたかった、かな。
時間の経過とともに白波が立ち始めていたけど、船酔いしなかったのは奇跡だったかも。

結局午後3時過ぎに船溜まりに戻ってくると、Sさんが一言。
「(あまり釣れなくて)残念だったねぇ。」

いえいえ、こうやって釣りに来られたことが僕にとっては凄く嬉しかったし、3年ぶりに釣りをして真鯛を釣り上げられた、それも因縁深い陸奥湾の平舘沖で釣り上げたということがホントに嬉しかったんですね。

聞いたところでは、この日のゴールデンタイムは夜明けの時間帯だったらしく、一艘で100枚ほどの真鯛を釣り上げた船が2艘あったことを聞いた。

まぁ、あまり釣れても困る話なので、これぐらいで良かったのかな。ということでSさんとタガシ先生から、お裾分けというわけではないんだろうけれど、都合5枚の真鯛とSさんが釣り上げたカレイ2枚を頂いた。

帰宅したのは午後6時前。
まずもって妻と母が驚いた。こんなに釣果があったとは思っていなかったらしい。まぁ、僕が釣り上げたのは2枚だけなんだけどね…。
悪戦苦闘しながら真鯛を捌く僕を見かねた母が応援、結局4枚の真鯛を昆布締めにし、1枚の真鯛はオーブンで塩焼きに。更に、鯛のアラで潮汁をこしらえて終了。

どれもこれも、実に美味かったです。ごちそうさまでした(ニヤリ)。


「限界集落」は本当に限界なのか。


山下祐介著の「限界集落の真実-過疎の村は消えるか?」を読了。

著者の山下准教授とは、僕が30歳の時、弘前大学の修士課程を履修していたときに初めてお会いしたのだけど、当時「行政法」の教官に指導を仰ぎつつも、実際は「地域社会学」を専攻とする山下准教授はじめ他の教官から伺うお話や講義の方が正直言ってとても興味深く、修士論文を一生懸命作成する傍らで、他の院生の方々と一緒に山下准教授のフィールドワークのお手伝いもさせて頂いた。

僕がお手伝いをしたのは旧中津軽郡相馬村(現・弘前市)に赴いて行った「津軽選挙」の検証。これがまた非常に面白く、地元住民のライフヒストリーの聞き取りなどを経て、僕が修士課程を終えた後になってようやくその内容がレポートとしてまとめられ(まとめるまで紆余曲折があり、時間がかかってしまった)、その後学会でも発表するとかなりの好反応があり、最終的には他の論文と合わせて書籍という形でまとめ上げられた。
(↓本書の参考文献としても登場している。)

その後も「津軽学」や「白神学」の編纂編集に深く携わった山下准教授、首都大学東京へ転任されたことを機に細々と続いていたご縁が途切れかけているのだけれど(山下先生、元気かな。笑)、その准教授が今回発表した書籍のテーマが、「限界集落」。

昭和の市町村合併、そして平成の大合併を経て、「過疎」から「限界集落」という言葉がクローズアップされるようになった。

平成の大合併の際に問題視されていたのが、「行政サービスの均一化」だった。同一行政区域にありながら、同じサービスを受けられないのではないかという懸念はとりわけ、対等とはいいながらも事実上吸収される側の自治体から多く上がっていたように記憶している。

実際、合併という大風呂敷で一括りにされてみると、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないが、やはり役所に近い周縁より末端にある地区に対する行政サービスは低下し、「元の役場があった方がまだ良かった」という不満の声は、複数の地域から上がったようだ。そして、整備の行き届かない、いわゆる末端の末端にあるような限界集落と呼ばれる地域は、他の地域とまとまった方がよいのではないか、という極論まで上がるようになってしまったのだ。

さて、「限界集落」と聞いて、皆さんは何を想像するだろうか。

限界集落(げんかい しゅうらく)とは、過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落を指す、日本における概念。(Wikipediaより)

…車で行くことすらままならない山間の集落。点在する家々は主を失ったまま荒廃し、細々とこの地で生活を営む腰の曲がった老婆が、意味もなく庭で火を焚いている。傾きかけた平屋の家の中を覗き込むと、2週間に一度やってくる医師の問診だけを心待ちにする爺さんが床に伏している。行政の手も行き届かないこの地域に暮らす最後の老夫婦。この二人がいなくなると、この集落からは人がいなくなり、廃墟だけが残ることに…。

どうだろう、「限界集落」と聞いたときの皆さんのイメージというのは、極端かも知れないがこんな感じではないだろうか。

青森県には、傍目からすると「限界集落」と呼ばれて不思議ではない地区が複数点在する。僕の住む弘前市の自宅から車で20~30分も走れば、本書にも登場する旧相馬村に行くことができるし、亡父が生まれた中津軽郡西目屋村に行けば、「定義上」の限界集落が複数存在する。

しかし、本書でも述べられているとおり、ではその集落がここ数年以内に消滅するかと言われれば、それはあり得ないだろう。
そこに住む人たちが生き甲斐を見いだし、(都会では味わうことができないであろう)そこで暮らすことへの優越感、更にはその次代がその地域への帰属意識を持ち続けている以上、その集落・地域が消えることはないと考える。
なぜそう言えるかは、本書を読み解いていくと明らかになると思う。

ところで、なぜ「限界集落」という言葉が注目を集めるようになったのか。それは、都会から見た地方に対する「偏見」のようなものなのではないだろうか。
個人的には、1990年代に提唱された「限界集落」という、衝撃的な印象を与えかねない言葉が一人歩きし、それが色んな形で歪曲されて、誤った概念で伝えられているのではないかと思っている。

もっとも、40年以上青森県を出て暮らしたことのない僕がこんなことを言うのも変な話だが、都会の方がよほど「限界」に達しているのではないか。誰にも看取られぬままこの世を去り、数か月後に発見されるというニュースが幾度となく報じられたが、こういった方々が発見されるのは、田舎ではなく都会ではないか。
そして、こういったニュースが立て続けに報じられたのは、ある地域でこのような事象が発生した際、他の行政機関が「うちの管轄ではそんなことはないだろう」と、それまで行き届かなかったところまで目を向けた結果として、複数の事象が出てきたのではないか、そんな穿った見方をしてしまう。

地方都市の周縁集落を「限界集落」と揶揄するのであれば、都会の片隅には、地域社会との接点すら損なわれた人たちが生活する「限界コミュニティ」が不特定多数存在しているのではないか。

山下准教授は、フィールドワークとして「限界集落」と言われる複数の現地に赴いて、その地に定住し生活を営む人たちの声に耳を傾けている。
だからこそ本書には、「限界集落」と言われている地域の現在と未来が詰まっており、「限界集落」の真実を伝えていることは間違いない。

田舎暮らしに辟易し、都会暮らしに憧れる人たちに、更に、地方を「田舎だ」と見下す都会暮らしの方々に、そして、田舎暮らしに誇りを持つ人たちに、是非読んで欲しい一冊。


東北の元気、日本の元気を青森から


ヘッダーに画像を置いてみました。

「東北の元気、日本の元気を青森から」

ひょっとしたらご存じの方はあまり多くないのかな、と思ったりもしているのですが、昨年の東日本大震災を契機に、青森県が策定している「青森県復興プラン」のキャッチフレーズのようなものです。

以下ホームページから。

 「青森県復興プラン」は、震災により大きな被害を受けた本県が、「復旧から復興へ」と新たなステージに移行していくにあたっての方向性を示すとともに、今後の国の予算や制度設計に対する提言ともなるものであり、当面取り組む必要がある対策について、「生活再建」「産業復興」「インフラ復興」の3つの分野を中心に取りまとめたものです。
 本県がいち早く立ち上がり、本格的な復興への第一歩を踏み出し、着実にその歩みを進めていくことが、東北の復興、日本の復興につながっていくものと考えます。
 青森県では、この「復興プラン」に基づき、対策に全力を尽くしてまいりますので、御理解と御協力を願い申し上げます。

震災の復興に向けた災害対策本部会議は昨年12月をもって廃止され、復興対策本部会議のみが現在開催されており、復興プランの取組みや復旧状況の取組等が報告されているようです。

何を今更…といった感も否めないところではありますが、せめてこのキャッチフレーズのような意気込みは、ずっと持ち続けていたいな、とか思ったり。