日別アーカイブ: 2011-12-20

阿部先生、本当にありがとうございました。

作家の獏不次男さん死去

 時代小説「津軽隠密秘帖」や、本紙連載「津軽太平記」で知られる弘前ペンクラブ前会長の獏不次男(ばく・ふじお、本名阿部次男=あべ・つぐお)さんが19日午後3時32分、病気のため弘前市の病院で死去した。77歳。弘前市出身。自宅は弘前市禰宜町1の6。通夜、葬儀の日程は未定。喪主は長男直樹(なおき)氏。

 弘前大学文理学部を卒業。弘前高教頭、三本木高校長、弘前高校長などを務めた。現在は弘前ペンクラブ顧問。

 「津軽隠密秘帖」は2005年発行。実在した隠密帖をめぐる弘前藩と江戸幕府との暗闘を描いた。群雄割拠の戦国時代を舞台に、津軽統一を果たした津軽為信と軍師・沼田面松斎の活躍を書いた時代小説「津軽太平記」は、01年から1年間、東奥日報紙上に連載された。

 このほか、著書に「謎問う標識」「秘密の小凾」「花ものがたり」などがある。

弘前高校一学年在籍時の担任だった阿部次男先生が亡くなった。
恩師の訃報に接し、これほど深い悲しみを覚えるとは思いもしなかった。謹んでお悔やみ申し上げます。

阿部先生は英語の教鞭を執っていて、僕らの頃は卒業時まで学年主任を務めていた。
生徒の間ではずっと「ジナン」と慕われていたが、「実は長男」というどうでもいいようなカミングアウトに、どう反応したらいいのかみんな困惑した、ということもあったっけ。

中学を卒業し、不安と期待の入り交じる中迎えた弘高での学生生活。その時に出会ったのが阿部先生であり、先生が担任を務めていた11HRのみんなとは、今も多くの繋がりを持っていて、僕にとっては本当に貴重な財産だ。

クラスの各役員を決めるということになり、いよいよ最後の最後に残った応援団員。不吉な予感はしたが、くじ引きで当てられたのは僕だった。まさに青天の霹靂、くじ引きで決められたということにも納得が行かず、ホームルーム終了後に職員室でくつろいでいた先生のところを訪れ、辞退を申し入れたところ、「経験未経験は別として、決まったことについて責任を果たすというのも、大事なんじゃないか」と諭された。

結局僕はその後、それまでやったことのなかった応援団という未知の領域に足を踏み入れ、そのまま3年間応援団員として経験を積んだ。

あの頃の経験、そして先生からの助言は、間違いなく今の僕の礎となった。先生の後押しがなければ、応援団に入ろうなんて思わなかったし、ひょっとしたら今みたいな僕はいなかったかも知れない。

何となくのらりくらりとしていて、この人一体何を考えているんだろう、と思ったこともあったけれど、先生は僕たちをしっかりと進むべき方向に導いてくれた。多分、きっと、そうだと思う。

卒業後も先生とはずっと賀状のやりとりを続けていたのだが、確か昨年はこちらに賀状が届かなかった。後で聞いた話では、その頃既にかなり体調を崩されていたとのことだった。

今年の正月2日。5年ぶりに開催した同期会「一平会」(平成元年卒ということで、数ある候補の中から僅差で「一平会」と決まったのだ。)には、病魔を押して会場に来て下さった。
先生を出迎えると、先生は力のない冷たい手で僕の手を握り、「ありがとう、ありがとう。」と耳元で呟いた。

「先生!何だ、元気そうじゃないですか!」

病魔に襲われ病床に伏していたことは噂に聞いていたものの、更に細身となったそのお姿を拝見し、正直ちょっと困惑した。

会場へ案内すると、出席者からは拍手喝采。先生にマイクを向けると、淡々と近況を語り始めた。

実は三途の川を渡りかけたこと、再び娑婆に戻されたこと、ここに来るまで年賀状の返礼を書いていたこと(我が家にもその返礼が届いた)などを淡々と語っていたが、結局あの日拝見したお姿が最後となった。

一平会からの帰り際「お父さんどうしてた?」と何の気なしに尋ねてきた先生。「実は…亡くなったんです。」と答える僕。「ああ、そうだったのかゴメンゴメン。」と背中を弱々しくポンポンと叩く先生。泣きそうになる僕…。
確かあれが最後の会話だった、と記憶している。

先生が言っていたように、先生の教え子の多くの方々が、弘前市のみではなく、もっと大きなものを背負う人材として、各所で活躍されていることだろう。

通夜は12月24日18時から、葬儀は25日12時から。ともに弘前市「公益セレモニーホール」にて。

先生、本当にありがとうございました。

合掌