※最近は極力2,000字前後、原稿用紙5枚程度に投稿を収めていますが、今回は溢れ出る思いを止めることができませんでした。原稿用紙10枚分。敬称略と長文駄文御免でござる。
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平成元年3月に僕が青森県立弘前高等学校を卒業した時、同期生が約360人いた。しかし、卒業後は点でバラバラとなった仲間たちがどこでどんな生活を送っているのかは、知る由もなかった。
平成3年の時、ふと思い立ってクラス会を開催した。成人式を迎えて20歳を過ぎたということで、担任の先生を呼んで酒を飲み交わす。やってみたいと思っていたことの一つだった。しかし、酒が進むうちにトラブルが起きた。そしてそのトラブルの中にいた一人が、のちに一平会会長となるMだった。
結果的にこの飲み会が、一平会への布石となった。
父から、卒業生は高校の同窓会で当番が必ず回ってくることを聞かされた。折しも、父の学年が当番を務めて直後のことだった。
これは、何か手を打っておいた方が良さそうだな。
そう思った僕は、同じクラスの畏友数名を巻き込み、同期会を開催する計画を立てた。
開催に漕ぎ着けたのは、26歳か27歳の時だっただろうか。3年時の担任8名にも声を掛けた結果、7名の担任が出席、50人ほどの同期生が一堂に会した。しかしこの時、残念ながら既に鬼籍に入られた仲間も数名いた。
初の同期会で、会の名称を「一平会」とすることが決まった。その他にも平一会、平元会などの候補があったが、どれになってもおかしくないぐらいの僅差だった。そして、事前に就任の内諾を得ていたMを会長に据え、僕は事務局という立場で会の運営に回ることとなった。
なぜ会長がMだったのか、ということをたまに聞かれるが、答えは簡単だ。
社会的な立場を鑑みるに、彼が適任者だったからだ。そして今となっては、彼が会長であることに異論を挟む者はいないはずだ。
正直言うとこの時は、当番幹事の同窓会で同期100人を集めることなんて充分可能だろうと高を括っていた。
その後も数年に一度という不定期で会を開催していったが、徐々に顔触れが固定化されていくようになった。