県内8割の高校で卒業式
県内の8割の高校で1日、卒業式が行われた。卒業生たちは教職員や保護者、後輩たちに見守られ、思い出が詰まった学びやを巣立った。(平成24年3月1日付けWeb東奥)
卒業を迎えられた高校生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。これからそれぞれの道に進まれることと思いますが、皆様の前途が洋々であることを心から祈念します。
希望を胸に社会に足を踏み出してはみたものの、夢や理想と現実とのギャップに悩むこともあるかも知れません。でも、残念ながら皆さんの描く夢や理想は、一朝一夕で手に入るものではありません。
そのギャップを乗り越えてこそ、初めて夢や理想が近づいてくることを忘れないで下さい。
これから少しずつ、そして確実に、社会の荒波が皆さんの足下に押し寄せてきます。その波は、時に皆さんの足を掬ってしまうぐらい強いことがあるかも知れません。
どうぞ皆さん、これから社会に出ても浮き足立たず、今の立ち位置をしっかりと確認して下さい。足下がおぼつかない時は、一人で踏ん張るのではなく、遠慮なく周囲に助けを求めて下さい。
そして、最後まで確実に皆さんの足下を照らし、皆さんに救いの手をさしのべてくれるのは、皆さんのご家族です。
どうか、お父さんお母さんをはじめとするご家族を大切にして下さい。
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僕が高校を卒業したのは平成元年なので、年号の経過がそのまま高校を卒業してから何年経ったかを示す。今年でもう24年も経つわけだ…。ということは、高校を卒業してから来年で四半世紀、ということになる。何か、急に凄く老け込んだ気分(苦笑)。
卒業式が終わり、教室に戻り、担任だったK先生が涙をこらえながら最後の訓示を述べた。聞くと先生にとって、僕らが最初の卒業生だったらしい。
先生の指示で、同級生の一人がアコギを奏で、みんなで唄った長渕剛の「乾杯」。男子も女子も関係なく、唄いながら涙を流していた。突然教室から歌声が聞こえたため、隣のクラスでは何事が起きたと覗き込む人もいた。
その後僕は、同級生のケンちゃん(現在同業者です)と、教室の隅にあったロッカーの脇で、人目も憚らず号泣していた。それだけこのクラスのみんなと離ればなれになることが、本当に寂しかった。
別に誰からボタンをせがまれることもなく、誰から花をもらうこともなく、誰から胴上げされることもなかった卒業式だったけれど(笑)、この学校で3年間過ごせて本当に良かった、そんな充実感に満ちあふれつつ、どこか後ろ髪を引かれる思いで、学校をあとにした。
あれから24年。
考えてみると高校を卒業してから24年間、全然会っていない人もいるし、しょっちゅう顔を合わせる人もいる。
ひょっとしたらお互い風貌が変わりすぎて、再会しても誰だかわからない人だっているかも知れないな、とか思ったり。
それでも不思議なことに、昨年の暮れもそうだったけれど、20年以上経って久し振りに級友と再会しても、全くと言っていいほど違和感がなかった。お互いに年は取ったが、まるでスゥッと、学ランを羽織っていたあの頃にタイムスリップしたような感覚が蘇るというか。
10代20代の頃は、都会(まぁ、青森県外に出ればどこでも都会、みたいな錯覚もあったような気がするけど)で暮らすことのステータスというか、優越感のようなものがあったような気がするし、ずっと青森県内、とりわけ自宅のある弘前市内(しかも僕の場合、自宅の半径1キロ以内に小学校から大学まで全てが存在していた)で全てを完結することのできた僕からしてみれば、新しい土地で新しいスタートを切った同期生に、一種の羨望のようなものもあったのも事実だ。
やがて年を重ねるにつれ、都会への羨望は薄れ、むしろ田舎(地元)で生活していることへの優越感の方が強くなってきた。
30代半ばを過ぎてから、県外に住む同期生たちとも会う機会が増え、「地元に帰りたいよなぁ」なんていう郷愁っぽい話を聞くことが多くなった。
そのたびに、地元にいる人間の一人として、彼らが帰省した時にでも、昔を懐かしむことのできる場所を用意しなければ、という思いに駆られる。
幾度となくこのブログでもお話ししているけど、僕にとっての高校生活は、本当に充実した3年間だった。素晴らしい級友、学友、先輩、後輩、そして教職員に恵まれたと思っているし、あの3年間がなかったら、今の僕はないと断言しても過言じゃないぐらい、それぐらい充実した3年間だった。
高校時代の友人は、僕にとって一生の友であると断言できるぐらい、充実していた。
今でも、あの卒業式の日のことを思い出すと、グッと胸に迫るものがある。
そして今でもあの時の思いは色あせぬまま、僕なりにがんばってます(笑)。
3月って、やっぱり何か切ないね。