月別アーカイブ: 2018年5月

ちょっと足りない、がちょうどいい。 #走れメロスマラソン


仙台国際ハーフマラソンから中一週を空けて、五所川原市で開催された「第7回走れメロスマラソン」に参加してきた。
正直、花巻~仙台で力を出し尽くした(のか?)感があったので、今回は頑張り過ぎないことを目標として大会に臨むことにしていた。

6時46分に弘前を出発する五能線に乗車、同じ大会に出場する名取市役所のMさんと久し振りに再会。彼女、昨年10月に初フルを走破した後も積極的に大会に出場しており、なんと来月にはサロマ湖の100kmにも挑戦するという猛者(Mさん、ごめんね!)。
そんなMさんとランニングに関するおしゃべりをしながら、列車は7時30分過ぎに五所川原駅に到着。
スタート地点となる立佞武多の館へと徒歩で向かう。

会場に到着すると、弘前公園RCの仲間が数名、既に準備を始めていた。スタートは9時。珍しく雲一つない青空で、運動会にはもってこいの天気。しかし、マラソンにはちょっと厳しい気象状況かも知れない。

数日前からレースプランを考え始めていた一方で、ちょっとした迷いも生じており、どういう展開で進めるか、以下5つの設定の選択肢を頭に描きながら、準備を開始。

(1)最初から最後まで一定のペース走
(2)5km毎のビルドアップ
(3)15kmまでペース走、ラスト5㎞でビルドアップ
(4)ペースを上げ下げしながらの変化走
(5)そして、最後は笑ってゴールする

実はこのコース、ハーフマラソンといっても少し距離が足りないことでも知られていて、実際の距離は20.8km程度。なので、このコースでの自己ベストは参考記録程度に留めないとならない。

大会1週間前に軽く腰を痛め(恐らく軽いギックリ腰)、「ギックリ返し」の恐怖と戦いながら日々を過ごした。幸いにして痛みは引き、木曜日もジョグを行うことができたので、大した影響を与えることはないだろう。しかしそういった事情もあり、ガチンコのレース展開を敢えて避けた。もう一つ、土曜日から少し風邪気味で喉が腫れていた(微熱っぽかった)ことも、ここで言い訳がましく補足しておこう。

さて、依然としてプランが決まらない中、スタート地点への集合時間となり、取りあえず1時間30分~2時間以内のゾーンへ。
「えっ!ここじゃないでしょう?」と仲間から言われたが、これでいいのだ。何せほら、今日はガチンコで走らないので。
スタート地点でSさんと談笑。会話を交わしていく中で、今日は15kmまで抑え気味に、そこからジワリジワリとペースを上げるプラン(3)に設定することにした。
というのも、自分のウィークポイントが、15kmからの極端な落ち込みだったから。ちなみに(5)はマストです。

いよいよ号砲が鳴り、花火が打ち上げられ、スタート。
予定通りたくさんのランナーがひしめく雑踏の中を駆け出すこととなったが、結果的には最初からオーバーペースにならずに済んだ。

最初の1㎞を4分45秒で通過、いくら何でもちょっとこれだと遅い。ということで、五能線に架かる跨線橋の下りを利用して一気に加速4分10秒前後までペースを上げた。当初のイメージは4分12秒~15秒だったので、今度はちょっと速過ぎたか。ちなみにこの時点では、腰のことなんぞすっかり忘れていた。レースが始まると、所詮こんなものなのですよ。
5㎞までしばらく直線が続くので、先行していた仲間に「4分10秒ぐらいで行くから!」と声を掛けつつ、一定のペースを保つよう心がける。
正直、ペーサーとしてうまい具合に利用してくれ、という思いもあった。
西寄りの風が吹いていたものの、昨年と比べたら微風レベル。むしろ、雲一つない青空から注がれる日差しが、体内の水分を徐々に奪っていくのがわかった。なので、最初は幾つか飛ばす予定だった給水もしっかり取ることにして、ペースを落ち着かせる。あとは文字通り、淡々と。

8㎞付近から、他のランナーが僕をマークして走っていることに気付いた。いや、マークされるだけペースが安定しているってことなのだろう。とはいえ一旦わざとペースを抑え、先行させようとしたが、彼は前に出ようとしなかった。
なかなかのレース巧者なのか?これ以上は意識しないで走ることにした。

11㎞付近で、今日のゲストランナー谷川真理さんの姿を確認。
まるで昔からの知り合いだったかのように「お疲れさまです!」と声を掛ける。
「お疲れさま!いいペース!今日はどれぐらいの記録を目指すの?」と僕の後ろを走る例のランナーに、谷川さん。
「い、1時間30分切りたいです。」
結構辛そうに答える彼に思わず、「大丈夫!行ける、行ける!」と声を掛ける。

「よし!頑張ってね!」
谷川さんに背中を押されたような気分で、気合いを入れ直す。

15㎞手前、その彼がカーブのインを突く形で前に出た。
どれどれ、今度は彼の背後を追ってみよう。

しかし、背中を見ながら走ってみると、結構ペースが落ちている。
これではいつものレース展開と変わらないじゃないか。

我慢できず、再び彼の前に出てペースを上げる。
徐々に背後から聞こえる彼の呼吸音が小さくなっていったのがわかった。
申し訳ない、あとは自力で頑張ってくれ。

17㎞を通過、残り4㎞となったところで更に加速。4分5秒を切るペースで走っていたようだ。
先方には仲間数名の姿を捉えたが、敢えて彼らを追わなかった。
今日はあくまでも、自分の設定した展開をきちんとやり終えることが目的だから。

ところが、ペースを上げたことが災いしたらしく、19㎞を過ぎた直後に突如脚が攣りそうな気配が現れた。
こんなところでケガをするのは本意ではないと、咄嗟にペースを落とした。
それまでのトップスピードから、一気にローへギアを切り替え。代わりに、声援を送る声に手を振って応える。もっとも、僕に寄せられている声援ではないのだろうけど。

残り1㎞、斜陽館の前では声援を送るたくさんの観客を前に気合い入れとばかりに「オッシャ!」と雄叫びを上げながらガッツポーズ。それを見て更に歓声を上げる観客。何とも不思議な光景だった。
結局ジョグペースよりも少し速いペースから、最後は完全にジョグで流すような感覚を保ちながらゴール。

タイムだけ見ると1時間27分46秒と、昨年より約2分遅かった。しかも飛び賞には2番足りない19位。うーん、何だか色々残念。

ゴールした後、結構な余力が残っていた。ただ、敢えて不完全燃焼っぽさが残る程度でレースを終えるのが今日のテーマ。
そういう意味でも、タイムはともかく所期の目的は達成した、ということか。
しかし、こんなに笑いながら走ったのはいつ以来だったろうか、というぐらい久し振りに楽しく、爽快感に溢れるレースだった。
そして個人的には、谷川さんと約2年ぶりにツーショットならぬスリーショットを撮ることができたのは、ちょっとラッキー。

他方、「1時間30分切り」を目指した彼がどうしたのかは、わからずじまい。無事達成できていたらいいのだが…。


防災に対する意識、持っていますか。


日本海中部地震から35年、十勝沖地震から50年という節目の年、今一度「防災」を考えるきっかけ、そして、自分の見識を深める機会になればいいと思い、弘前大学理工学部で開催された「地震災害軽減に関するシンポジウム」を聴講してきました。地球環境防災科の教員によるもので、専門的な話に特化してしまうのかな、と危惧しておりましたが、全くそんなことはなく、むしろ頭の中に入りやすい内容でした。

以下、走り書きのメモから概要をピックアップ。

▼小菅正裕教授「あれから35年―変わったこと,変わっていないこと」

50年前の十勝沖地震。気象庁が地震発生当日に発表した震源が十勝沖だったことから、その日に十勝沖地震と命名した。

ところが、震源の位置が違っていたことが後日判明。実際は十勝沖ではなく、三陸沖北部の青森県東方沖であることがわかった。地震の観測地点が少なく、位置の特定が難しかったことが要因。

35年の日本海中部地震。当初、秋田沖が震源とされた(活断層のズレが最初に起こったのは秋田沖だった)。しかしこちらも後日の調査で、青森県の西方沖(青森県岩崎沖)約90km、深さ約20kmが震源であることが判明。

「秋田沖地震」ではなく「日本海中部地震」と命名されたのは、青森県選出代議士が深く関与。「十勝沖地震」の際、被害が甚大だった青森県ではなく、北海道に対して補助金や救援物資が回されたという苦い経験があったから。

当時の地震観測計では、S波(地震の主要波。最初のカタカタがP波、その後のグラグラがS波)を観測することができなかった。青森県内の気象台、測候所は青森、八戸、むつ、深浦の4か所のみ。

2001年の論文で、仙台平野への津波到達の危険性が指摘されていた。10年後、東日本大震災で現実となった。

*地震の観測地点が一気に増えたのは、阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)が契機。

未だにできていないこと。まずは地震の前兆観測や発生予測。大震災(サンプル数)が少ないので、シミュレーション、検証ができない。

そして、「災害への心構え」。震災の経験を後世に伝えることが萎んでいき、地震を知らない世代となり、経験が忘れ去られる。そのタイミングでまた同じことが起こる。この連鎖を絶つことが必要。

マスコミ報道への違和感。震源の位置を示す三陸沖の×印の横に、「東日本大震災」の文字。

×印で起きたのは、東北太平洋沖地震。この地震によって人々が暮らす陸地で起きたのが、「東日本大震災」。

防災リテラシーの向上のため、命を守る教育の場が必要。長周波の揺れが発生したら、「とんでもないことが起こっている」という認識を。大津波警報が発令されたら、「必ず津波がやってくる」という認識を。


▼上原子晶久准教授「台湾の地震に学ぶ」

台湾で発生した2つの地震。1999年の地震はM7.3。震源が8kmと非常に浅かった。活断層のズレが最大約10m発生し、断層変位が地表に現れたところでは、ダム本体や橋脚といった構造物が破壊された。熊本地震の阿蘇大橋も、断層変位によるものと考えられる。

2018年2月6日に発生した花蓮地震、M6.4。これも断層変位が地表に現れ、構造物が被害。地震被害はいつも発生するが、特効薬的処方箋はないのか。県の防災計画、これまでも何度も更新。「その取組に終わりはない。」という県幹部。これがまさに、答え。

だからといって対策を講じることをやめてはならない。


▼前田拓人准教授「津波発生研究と即時予測技術の最前線」

津波から地震を観測するという手法。地震発生から津波到着までに地震を調査。S―netという津波の観測網を、岩手~福島の太平洋に張り巡らせた。世界でも前例のないケース。津波の現在地がわかるようになる。将来は、台風の進路予測のような、津波天気図(津波予報)に繋げたい。

地震も津波も、なくすることはできない。備えも避難も決断次第。


▼片岡俊一教授「次の地震にどう備えるか」

自然現象×人間社会=災害(被害)
自然現象はどこでも起こる。そこに人間社会が絡んで初めて、災害が発生する。

自然の力>人間の作ったものの強さ →災害が起こる。
人間の作ったものの強さ(例えば構造物の強度?)は自然の力には敵わない。だから災害が起こる。

が、災害は軽減できる。何を守るか。

震度5強以下の地震(構造物に被害が出る規模ではない)で、室内での死亡例3件。
本棚から崩れた書籍の下敷きになり、圧死(窒息死)したというケース。(しかも亡くなったのは40代の方ばかり)

各市町村の地域防災計画は、それぞれの市町村で完結。隣接の市町村まで踏み込んで書けない。

県内だと津軽、南部、下北、それぞれの相互・広域的なサポートが必要。

20時頃にシンポジウムが終了し、大学の外に出ると、雨脚が更に強くなっていました。弘前市には暴風と大雨の警報が発令されたまま。明朝は久しぶりにAさんの伴走を予定していましたが、そのAさんから連絡があり、練習を中止することに。

明日の予報も「雨」。警報は夜遅くまでの予想ではありましたが、安全面を考慮すると、弘前公園ランニングクラブ定例の朝練習も怪しいところです。

そこで、キャプテンにメッセージを送り、初めて「練習の中止」をFBページにアップ。

今回の「練習中止」のアナウンスは、もちろん仲間の安全を第一に思ってのことではありましたが、もちろん、そうは言っても何人かが練習にやって来ることは織り込み済み。ただ、それが何人なのか、気になるところではありましたが…。


47都道府県を見ると、青森県の防災意識は、太平洋側に位置する各県と比べても低いそうです。恐らく、青森県の中で見ても、特に津軽地方の人たちはその意識が低いのではないかと考えています。というのも、地震に関してだけ見ると、直接的に甚大な被害を受けた日本海中部地震から35年、この間には東日本大震災のほか、阪神淡路大震災の20日前に発生した三陸はるか沖地震など、県内で震度5強以上を観測する地震が発生していますが、津軽地方においては、直接的な被害を受けていないからです。むしろ、平成3年の台風19号の方が印象として強いのではないでしょうか。


朝4時。慣れというのは不思議なもので、土曜日にはこの時間に目が覚めます。

きっと雨がぱらついているんだろうな、と外を見て、唖然としました。

雨が、上がっている!

なんと、天気予報「雨」に騙されました。前日夜の大雨を考えても、まず間違いなく朝方まで雨は降り続いているのだろう、と確信していたのに。

しかも、予定通り警報は解除されており、もはや普段の「曇り」と変わらない天気。

グラウンドの状況を考えれば、恐らく運動会は中止になるでしょうが、「警報解除」の条件付きでの練習中止にすれば良かったのかな、と悶々としつつ、もう一度布団に潜り込みました。

まあでも、川の水は増水しているだろうし、万が一何かがあってからでは遅過ぎるし。

防災は空振りを恐れてはならないんだから、これでよかったんだ、きっと…うん。

誰も練習に来ませんように、と祈りましたが、結局7人が集まったそうです。(これが多いと思ったか少ないと思ったかは、ご想像にお任せします。)

こんな天気になるんだったら「中止」なんてぶちまけなければ良かったと、本当に猛省しています。関係各方面の皆さま、申し訳ありませんでした。

ということで予告。

6月下旬に、弘前文化センターで「防災啓発研修」を開催します。テーマは、「命をまもるために、いま、できることは何か」。

講師お二人をお呼びし、風水害・火山災害への備えと、国民保護に関する講演を行っていただく予定です。

防災意識が低い津軽、という印象を払拭するためにも、たくさんの方々のご参加をお待ちしております。(詳細はまた改めて!)

最後に皆さん、こんな時どうする?

  • 大雨が続いているのに、河川の水位が少しずつ下がっているような気がする
  • 暴風雪警報が発令される中、幹線道路が急に渋滞し始め、車が動かなくなった
  • 田んぼの中の一本道を車で走っているときに、突然Jアラートが鳴りだした

これ以上、何をけずり出せ、と? – #仙台国際ハーフマラソン


【今日はいつになく長文駄文です。】

5月13日(日)、昨年に引き続き仙台国際ハーフマラソンに出場した。

初めて出場した昨年は、グロスで1時間28分02秒(ネットは1時間27分38秒)だった。自己ベストを叩き出したとはいうものの、この結果に満足することはできなかった。でも、当時の自分の力を悟ったつもりだったし、だからこそ来年の大会で「3秒の借り」を返そうという想いも日に日に強くなっていった。

昨年、僅か3秒で逃した1時間27分台。確かにこの壁を叩き壊すべく1年間取り組んで来たのは事実だが、それが最終目標ではない。更にその先を目指して、オッサンはオッサンなりに地道に努力してきた…つもりだった。

備忘録として、ざっとおさらいをしておこうと思う。

今年も陸連登録ランナーとしての出走となり、スタートラインに程近いAブロックからのスタートとなった。
昨年はAブロックの中にBブロックのランナーが紛れ込んでいて憤慨したが、今年は入場口でのチェックがそれなりにされていたようで、少なくとも自分の周囲にそういう不届き者の姿はなかった。

早朝4時に起床して仙台にやってきたが、眠気よりも緊張感に押しつぶされそうになる。…って、何をそんなに緊張しているのだ。平常心、平常心。

10時05分に号砲が鳴らされ、レースがスタート。
昨年は雨模様だったこともあって路面状況がよろしくなく、歩を進めるのにも苦労したが、今年は比較的スムーズな走り出しとなった。

周囲のランナーとの接触に気を配りながら時計に目をやると、4分台前半、それも一桁台のペースを指していたので、うまく流れに乗ることが出来たのだろう。あとは最後まで大崩れすることなく、テンポ良く走って行くことを意識するようにした。そして、なるべく周囲に目を配ることなく、自分の走りに集中することを考えた。いや、考えたというよりは、何も考えず走ろうと決めた。

3キロ過ぎで、既に相当発汗していることに気付く。
給水ポイントは幾つか飛ばすつもりだったが、後で何があっても困るので、ひとまず全てのポイントで何かを口に入れることにした。

「テンポ良く」を意識しているとはいえ、上りもあれば下りもあるコース。多少の乱れは覚悟していたものの、思ったほど乱れてはいなかったらしい。…ただし、終盤に現れる貨物線の跨線橋以外は。

10kmを41分台で通過したのは想定通りだった。しかし、11km手前で高橋尚子さんとハイタッチした後で一瞬ペースが上がったのがまずかった。多少テンポが乱れた後、何も考えていなかったはずの脳に邪念が降臨して囁きを始めたのだ。

「無理しなくても良いんじゃないの?」「少しぐらい力を抜いても、誰も見ていないって。」「やめる、という選択肢もあるんだよ。」「ほら、足裏が痛くなっているんじゃない?」

矢継ぎ早に飛んでくる囁きで、迷いが生じる。

そんな囁きを一刀両断したのも、脳の中に現れた自分自身だった。
「今日ぐらいは自分を信じようよ!」

危ない危ない。脳と身体が完全にバラバラになって、自分の身体を赤の他人にしてしまうところだった。
もう一度気を取り直して、体制を整える。

時折沿道から聞こえて来た「マカナエさん、頑張って!」の声に驚きながら、いよいよ貨物線の跨線橋が近づいて来る。ちなみに声を掛けてくれたのは、AさんとTくんだった。(応援、ありがとうございました。)

15キロ通過が1時間2分ちょっと。何も考えないはずだった脳の中で、つい逆算を始める。
残り6キロを28分で走れば1時間30分か。キロ5分を切るペースを、最後まで維持できるだろうか。

跨線橋を上りきったとき、思わずふと時計に目を配る。ペースは4分20秒に落ちていた。
そして、ここまでの疲労の蓄積から、フォームがかなり崩れ始めていることも悟った。急に足音がうるさくなったのだ。
トップランナーは、静かに、本当にスゥッと駆けていく。まるでハイブリッド車のようだ。それに比べたら今の僕は、さながらマフラーの壊れた軽トラといったところだろうか。

程なく、路側帯を歩き始める人たちがちらほらと現れ、更には、脚の痙攣で倒れ込む人も。
ああ…自分もここで脚が痙攣したら、「今日はダメでした」って言い訳できるのに!

20キロ地点手前で、再びこの跨線橋が立ちはだかる。ここが本当の意味での「難関」となる。無心のまま周囲には一切目も配らず、最後の折り返し地点へと向かう後続の仲間から声を掛けられたりしたようだが、反応する余力がほとんどなかったし、視界に入ってこなかった。それぐらい、イッパイイッパイだった。後で聞いたら、フォームがかなり小さくなっていたらしい。

それでもまっすぐ前だけを見据え、いよいよカウントダウンを始める。

最後の上り。一気にペースが落ちていくのがわかる。もはや時計には全く目をくれなかった。いや、時計を見るのが怖かっただけだ。

当初想定していた、20キロの下りからのラストスパートは、不発に終わった。
上半身を揺らし、ドタバタと足音を立てながら、陸上競技場のトラックへと進む。前を走っていた女性ランナーがよろけて転倒する。「大丈夫ですか!」の声すらも掛けることもできず、最後の直線へ。ようやくゴール横の電光掲示板に視線を送ると、1時間27分20秒を過ぎたところだった。どうやら、目標としていた昨年の「3秒の借り」を返すことができるらしい。
両手で小さく拳を握りしめながら、ゴール。
時計を止めると、1時間27分43秒を指していた。
振り返って深々と頭を下げる。90分近くにわたる自分との戦いが、ようやく終わった。
脚が痙攣する気配も、張っている感覚もなかったが、いつになく荒くなった呼吸を整えようとその場に立ち尽くした。

タオルを手に、完走証を受け取る。速報値で、1時間27分40秒(ネットは1時間27分22秒)だった。
結果的にはこのコースで、2年続けての自己ベスト更新となった。

コースとの相性なのかも知れないが、若干湿度が高めだという以外は、曇り空にさほど上がらなかった気温、風もそんなに強くないという、天候を言い訳にできない、走るには絶好のコンディションだったと言えよう。
昨年の「借り」を返し、やっと27分台に到達できたという安堵感がある一方で、この1年間で、たった22秒しか縮めることができなかったという複雑な心境が渦巻いていた。正直、ハーフマラソンを走るのがこんなにキツいと思ったのも久し振りだった。

たかが22秒、されど22秒。

元々余力を残してゴールするつもりはなかったし、この大会に関しては、今年出場するハーフマラソンの中でも最も力を発揮したい大会と位置づけていた。しかし実際のところ、持てる力の何割を発揮できたのだろう。

練習不足を補うべく、それなりに追い込んだつもりだ。マラソンは一夜漬けでどうにもなるものではないことは重々承知している。
「その1秒をけずり出せ」とは、東洋大の陸上競技部が掲げるスローガン。
1年間で22秒短縮という結果に、僕はこれ以上何を削り出せばいいのだろうか、と思案した。

コンマ何秒で世界が変わるトップレベルの短距離と違って、マラソンは分単位で記録が変わることもざらにある。
特に市民ランナーだと、マラソンを走り始めた翌年に1時間も記録が縮んだ、ということは耳にする話だ。

自分の持ちタイムが縮んだからといって何か賞品を頂けるワケでもないし、元々タイムを意識するつもりはなかった。だからこそ、この手の話は完全に自惚れの領域だということはわかっている。事実、別に僕のタイムがどうだろうと、皆さんには何の関係もないんだから。

…嗚呼ごめんなさい。何だかまた面倒くさい話で終わりそうな気配。

その中の一つだけ光明を見いだすならば、思ったほど後半のペースは落ち込んでいなかったということ。いや、ネガティヴスプリット(後半ペースを上げる走り方)を理想している僕としてはダメダメな走り方だけれど、この程度で収まったのはせめてもの救いだった。(…まあ、15キロ~20キロだと10~15キロと比較して30秒も落ち込んでいるので褒められたものじゃないけど。)

(赤色の点がピッチ、青色の連続線はペース)

帰りの新幹線の出発時刻まで、ラン仲間3人とともに仙台駅でお疲れさまの乾杯。
ジョッキを掲げながら、ふと思い出した。

そういえば、体重2キロ増のまま大会に臨んでしまった。
そうか…削りだすべきは、この腹回りに程よくついてしまった、ぷよぷよだったのか。

今回のこの結果を見ると、いよいよ天井が見えてきた感も否めない。しかし、色々あった中でここまで結果に繋げられたのであればいいじゃないですか。ということで若い皆さんには申し訳ないけれど、もう少しだけ悪あがきしてみようと思う。