仕事に没頭することで、僕自身は大分落ち着きを取り戻してきたが、帰宅するとまだまだ父の死を悼む来客の足は途絶えていないようで、母の疲労も大分蓄積しているのではないかと思っている。今は母の体調がちょっと心配である。
その一方で、かつて同僚で今は退職された方や、高校時代の恩師がわざわざ僕の職場に足を運んで下さった。その気配り心配りには、本当に頭の下がる思いである。皆さん、ありがとう。
今は何を語ろうにも、父のことしか浮かんでこない。生前、一度も褒め称えたことのない父のことを、亡くなってから称賛する僕は、最低の親不孝者なのかも知れない。
父の遺影は、平成11年頃、2度目の市議選の際に撮影した写真を使っている。どういう因果かわからないが、その後の市町村合併により、その写真を撮影した方(当時村議会議員)は市議会議員となり、そして父と同じ会派で行動をともにすることになった。その方には弔辞も拝読頂いたのだが、数ある父の写真の中でも、一番の写真であると家族誰もが思っているし、恐らく父もそう思っていることだろう。あまり感情を表に出さない父であったが、この時の柔和な笑顔を見ると、やはり父の死を現実として受け入れられない自分がいる。
振り返ってみると父の一番の功績は、何と言っても青森県で初めてとなる「日展」の開催に尽力したことだろう。父は以前から「日展を弘前で開催したい」という思いを抱いていたのだが、父と僕の母校である弘前高校創立120周年記念事業として、平成15年にその思いが結実し、日展側も驚くほどの大成功を収めた。
その後、平成18年に日展側から再度開催の打診があり、この時も父は全面的に心血を注いだ。
言い過ぎかも知れないが、父がいなければ、日展の青森県での開催はなかったことだろう。
北海道斜里町と弘前市との友好都市締結の際も、父は陰ながら尽力したらしい。文化交流の一環として始まった「しれとこ斜里ねぷた」では、かつて踊り手もいたらしいが、その踊りの原点は、父の奇妙な動きにあったとか(真偽の程は不明)。
それにしても、家族も仕事も顧みずに他人のために尽力する父は、実に「ムカつく存在」であった。
しかし、父を送る一連のセレモニーで、父を悼み、大勢の老若男女が涙していた事を考えても、僕が言うのもおかしな話だが、本当に「凄い人」だったんだと思う。
昨日、妹が現実に戻るため東京に向かった。
我が家は、母と妻そして僕の3人だけになった。
我々も、これが現実なんだということをしみじみと感じながらも、母の抱える寂しさを思うと、何とも居たたまれない気分になる。
頭の中では理解しているつもりだが、やはり未だ仏壇の中に置かれた父の遺影に、どうしても納得できない部分があるのだ。
父の肉体は知床・斜里の地を踏むことはなくなってしまったが、近い将来僕は、父の代わりに知床の地に足を踏み入れそうな気がする。いや、必ず踏み入れなければならない。そう確信している。