人生の転機を振り返る。pt.1

青森県西津軽郡鰺ケ沢町。「ぶさかわ犬」で知られた「わさお」がいた町、と言えばわかる方が多いかもしれない。

約20年前、日本海沿いに位置するこの町に、僕は車で2年間通い続けた。
僕が公務員人生の中で初めて自分の意思を明確に示したのがこの時であり、自分自身にとって大きな転機を迎えるきっかけを作りだしたのは、紛れもなくこの鰺ケ沢町だった。

新型コロナウイルス感染症の影響で行動そのものが委縮する中、先日、ふと思い立って彼の地を訪れた。当時は存在しなかった店を訪ね、当時は恐らく誰も考え付きもしなかったものを食しながら、色んなことに思いを馳せていた。

変わったもの、変わっていないもの、色々あったけれど、自分自身のあの時の決断が、決して間違いではなかったと言い聞かせながら、16歳の誕生日を迎えたばかりの愛犬、いや老犬の表情を窺っていた…。


県職員として採用され、青森市内にある土木部の出先機関から始まった僕の公務員人生は、3年後には外郭団体への出向が決まり、太平洋岸にある八戸市へと引っ越した。入籍したのは、引っ越しの2か月後。ただし新婚でありながら単身赴任という生活が2年続いた。

最初の職場で当時の同僚との軋轢が生じた結果、精神的に一番疲弊し、そして落ち込んでいたのが八戸市へ異動した直後だったというのだから笑えない。それでも何とか2年間の任務を終えた八戸の次の異動先は、本庁内の土木部にある事業課だった。

初めての本庁勤務ということで、意気揚々と着任。技術職員が多数を占めるその職場で、僕なりに頑張ったつもりではあったが、結果的には大した成果を上げることもなく、空回りの日々が続いた。

そして再び2年後、今度は鰺ケ沢町にある出先機関への異動内示。当時、100枚はあろうかという手書きの内示書の最後のページに自分の名前を見つけた時、頭が真っ白になった。まさに青天の霹靂だった。2年で異動?しかも、今度は鰺ケ沢?…動揺を隠せぬまま狼狽する僕を呼び出しだ上司から、淡々と異動の理由を告げられた。そして「次の異動の際には、異動希望を聞き入れてもらえるよう配慮する」という、まるで慰めのようなセリフを言われたが、その言葉を素直に聞き入れることはできなかった。

鰺ケ沢町の出先機関では、前の職場で上司から聞かされた内容とは異なり単調な仕事ばかりで、業務そのものにやり甲斐はあまり感じなかったが、周囲の同僚や上司の方々に恵まれ、色々フォローして頂いたのは本当に救いとなった。

もう20年も前の話なので許していただきたいのだが、直属の上司だった係長は相当の酒豪…いや酒乱として有名で、二日酔いの状態で出勤しては誰彼構わず暴言を吐いたり、かと思ったら飲み過ぎで休んだり、ということがほぼ1日おきで繰り返されていた。(ちなみにその係長は深酒の癖が災いし、10年ほど前、在職中に体調を崩し、そのまま鬼籍に入られた。合掌)

更に僕の向かいに座っている方は、メンタル的にかなり難のある方で、この二人の下で勤務するということが、逆に僕自身のメンタルを強くしていったといっても過言ではないかも知れない。(この他に河川監視員として非常勤職員が3名、同じ係に配属されていた。)

同じ係の二人が僕にとって最大の懸案事項という中、そんな僕を見かねてフォローしてくれる方がたくさんいたことで、業務を進める上でも大きな悩みを抱えることなくやることができたのも事実。そういえば勤務終了後、思い余って鰺ケ沢町の室内プールに数回足を運んだ、といったこともあった。辛いこともあったが、むしろ楽しいことの方が多かった2年間だった。通勤途中、ツルツルに凍結した路面にハンドルを取られて車がスピン、対向車線からやってきた大型ダンプに突っ込まれそうになったこともあったし、除雪がされていなかった農道でルパン三世の如く車を横転させたこともあった。雪道に慣れていたつもりだったが、慣れほど怖いと思ったことはない出来事だった。気の緩みもあっただろうし、図に乗っていた自分自身への戒めだったのだろう。よく無傷でいられたものだと、今思い返すと実に不思議だ。

さて、自分の所掌業務の一つに、「七里長浜港の使用、管理に関すること」というのがあった。今は「津軽港」と名を変えた七里長浜港に接岸する船舶から、岸壁使用料を徴収するというのが主たるものだったが、接岸するほとんどは砂利砕石の運搬船で、更に冬場は日本海特有の時化のため、ほとんど岸壁に接岸する船舶がいない、という状況だった。

ともあれ、これ以外の業務も含め、自分は果たしてこのままでいいのだろうか、という疑念と自問自答が湧き始めていたのも事実。このまま自分に妥協したくない。現状を打破したい。そのために何をすればよいか…。
日に日にその思いは強まり、意を決して係長を飛び越して課長、そして次長に自分の思いをぶちまけた。

それは、人事課が募集を始めた、社会人枠での大学院進学だった。

アウトソーシングや地域社会のことなどについて、可能であれば大学院でじっくり勉強させて欲しいと訴えた。

「うん、やってみればいいんじゃないか。」職場からは誰からも反対や疑義を呈されることもなく、意外なほどあっさりと了解をもらったが、一番賛同を得なければならない妻から反対を食らった。

「なんで今更大学院に行くの?意味がわからない。」

うん、自分でも意味がわからないんだ。でも、動くなら今しかない。強いて言えば、「今がそのタイミング」という直感が働いた、ということだろうか。とにかく現状を打破したい、それに尽きる。だからこそ、まずは動いてみるしかない。そう思っただけのことだった。
(おそらく続く)