人生の転機を振り返る。pt.2

思えば、なぜこんな投稿をし始めたのかは僕にもわからなくて、気の迷い、と言われればその通りでございまして。まあでも、こうやって昔のことを振り返りながら、さて今はどうだろう、という見直しをするきっかけにもなっているので、完全に自己満足の世界に陶酔している、ということでお許しを頂きたいと思います。

ということで、誰も興味を持たないであろう後編、スタート。

久し振りに訪れた鰺ケ沢町は、暫定とはいえ自動車専用道路が一部区間で整備された影響が多少出ていた。幹線道路の国道101号は閑散としており、時々利用していた道路沿いのコンビニが空き店舗になっていた。

それでも、海水浴場のある「はまなす公園」へと続く道を走ると、車通りはそれなりに増え、はまなす公園の駐車場にはたくさんの車が停まっていた。新型コロナウイルスなんぞどこ吹く風、といったところだった。

当時「七里長浜港」の名で整備された日本海沿岸の立派な港(現:津軽港)の近くまで行ってみた。20年前と変わることなく、岸壁には砂や砂利が積み置かれ、ポツンと上屋が立っていた。休日ということもあり、釣り客で賑わう光景も、以前のままだった。

(港内の清掃。綱引きをしているわけではない。)

変わったところを挙げるとするならば、港のすぐ近くに東屋と駐車スペースが整備されたこと。そして周囲を見渡すと、風力発電用の風車が数多く回っていることが、以前と違う光景だった。

(太陽と潮風をたくさん浴びて気持ちよさそうなチョコ)

弘前の反対側から見る岩木山。
岩木山には正面がない。方角によって全く異なる容姿を見せる岩木山は、その地域その場所から見る岩木山こそが「正面」だということだ。
そろそろ山頂から紅葉が始まる季節。紅葉と緑のグラデーションを見せる日も遠くないはずだ。

当時から存在していた「海の駅わんど」。
一時期かなり衰退の途を辿っていたと記憶していたが、地元で採れる農産物や海産物の販売ブースが設けられ、中は活況にあふれていた。

建物に入ってすぐの飲食店は、入場制限が敷かれるほどの賑わいだったが、当時町内にあった飲食店の多くが閉店する中、もう一か所の飲食店がまだ健在だったこと、そして、たまに亡父と釣りにやってきた際に、その飲食店で決まって食べていたものが今でも提供されていることを知り、懐かしさのあまり思わず昼ご飯を食べたことも忘れ、入店しそうになった。

公務員生活の中で、役場職員の方々と一番懇意にしたのも、考えてみるとこの鰺ケ沢町だったかも知れない。この町は、僕にとって本当に大きな影響を、いろんな角度から与えてくれたことを改めて感じた。

さて、人生の転機というのはかなり大げさかも知れないが、社会人枠での大学院進学を希望した僕は、その年の11月に地元の弘前大学で面接に臨んだ。家から僅か2キロ弱の場所にある弘前大学。卒業以来約7年ぶりに訪れたキャンパス。4月からの社会人大学院生を目指し、恐らく人生で一番緊張した面接だった。

結局、無事に4月からの進学が決まり、異動内示が発令され、鰺ケ沢町の出先機関を離れることとなった。いや、入庁以来9年間にわたってお世話になった土木部を離れることとなった、と言ってもいいだろう。

大学院生としての生活がスタートした4月早々に、極度の緊張で胃炎を発症し、居ても立ってもいられず病院に駆け込んだことは、今となっては懐かしい思い出だ。

2年間にわたる大学院生活では、学生時代には経験しなかったこと、県職員では経験できないであろうことをたくさん経験した。講義はほとんどマンツーマンで、英語の講義もあったし、一般の学生に交じり、行政法のゼミも受講した。修士論文の作成の傍ら、社会学の研究にも首を突っ込み、教官らとまとめた学会用の論文が、他の方々の論文と一つにまとまり、書籍として販売されたのは、県に復帰して数年後のことだった。

そんな様々な経験を経て無事に修士課程を終え、2年後に県に復帰した後は、戻るところを失った渡り鳥のように各部を転々としている。
農林、商工、総務、復興、そして危機管理。
転々としていると言いながらも、こんな自分を拾ってくれる部局があるだけでも本当にありがたいことだと思っている。

あれから20年が経ち、僕の背中をそっと後押ししてくれた当時の係長だけではなく、次長そして課長も鬼籍に入られた。

あの時、自らの意思で次の道を開拓したことは、自分にとって大きな財産となったし、間違いではなかったと胸を張って言いたい。余談だが、県から大学院への派遣は、僕が最後となった。

単なる偶然だろうがその後は、グループや所属の整理、統合が僕の行く先々でずっと続くことになった。

しかし、鰺ケ沢町で培った人脈や、弘前大学大学院で育んだ人と人との繋がりは、整理も統合もしていない。むしろそれは深く根を張り、どんどん広がっていった。その時に築いた数々の御縁は、今も健在だ。

ちなみに現在、僕自身は防災に関する業務に従事しているが、一緒にゼミを受講していた当時の学生、それも「僕は公務員になる気がないんです」と言っていた学生が、僕のグループの大事な戦力として活躍していることを付記しておきたい。