東日本大震災から8年目への想い

人間の記憶というのは本当に不思議なもので、一週間前に何をしていたか、何を食べていたかを思い出すのが難しくとも、2011年3月11日午後2時46分以降のことは、自分でも恐ろしいぐらい明確な記憶が残っている。
しかし、その直前に何をしていたのかは、全く思い出すことができない。
それぐらいあの出来事は衝撃的であり、そして絶対に忘れてはならないのだということが、身体に、そして脳に今も刻み込まれている。

「あの日」以降、復旧復興に向けた様々な取り組みが進められた。公助、共助、そして自助が叫ばれる中、各地では激甚災害が相次いだ。地震はもとより、台風や豪雨災害、火山噴火、雪害など、など…。

そして、災害が発生するたびに「この出来事を教訓に…」という言葉を耳にする。振り返ったとき、自分は各地で発生した激甚災害を踏まえ、何を教訓にしてきただろうか。恥ずかしながら、自分自身が何一つ教訓としていないのではないか、喉元過ぎて熱さを完全に忘れているのではないか、と考えてしまった。

ところで、我が国の政府が、発災直後の平成23年7月に策定した「東日本大震災からの復興の基本方針」において、復興期間を「平成32年度までの10年間」と定めているのをご存じだろうか。ちなみに今は、「復興創生期間」に当たるが、それも平成32年度で区切りを迎える。今日も大臣が「あと2年で復興を…」とほざいていたが、何馬鹿なことを言うか、という憤りとともに、何もわかっちゃいないんだな、という失望すら感じてしまった。とはいえ今日は別に政府批判をすることが主眼ではないので、これぐらいにしておこう。

さて、いろんな紆余曲折や「人事の妙」を経て、僕は2年前から防災関連の業務に就いている。

先日、若手職員を対象とした講話の機会を頂いた。具体的には、被災地支援体験記といった内容だった。聴講者30名弱を前に、熊本地震、北海道胆振東部地震のほか、東日本大震災の後に行った被災地支援の話をした。

実は僕自身が高校1年の時に「救助」された経験があること、そして(北海道胆振東部地震への派遣は完全に防災職員としての「業務」だったけれど)被災地への支援は、決して上司から命令されたことではなく、自ら志願したこと、僕が携わった被災地での支援活動は、それぞれ活動の内容が異なっていたこと、そして、こういった経験は自分にとって間違いなく糧となっていること…。

僕がこれらの支援を通じて強く感じたことは、「支援のために被災地と向き合う」のではなく、「被災地と同じ目線に立って支援に取り組む」ということだった。

向き合う(→|←)のではなく、同じ目線に立つ(|⇒)。
…わかりますかね、このニュアンス。

時に真剣に、時に笑いを交えながら、持ち時間90分のうち75分を講話に充て、10分で質疑応答に臨んだ。(残り5分はアンケートの時間に充てた…つもり。)
その後の懇談会でも色々質問を受け、僕自身が考えさせられる機会となった。ただ、若い職員の方が一人でも「防災」に興味を持っていただけるのであれば、それこそ僕が講話を引き受けた意味は大いにあったことだろう。

あれから8年という月日が流れようとしている。今日をもって復興されました!という区切りの時は、恐らくこの先やってくることはないだろうし、誰かが復興の区切りをつけられるはずがない、つけてはならないと、僕は思っている。

3.11への思いは人それぞれ異なるだろう。
僕自身、東日本大震災の後に訪れた宮古市をはじめとする三陸沿岸地域の画像を眺めながら、また当時のことに思いを馳せている。

その後宮古市へは2度足を運んだが、その時々で目にする風景が変化を遂げていたことは明らかだったし、ハード面での復興が少しずつ前に進んでいることを感ぜずにはいられなかった。
ただ、正直言うと、今こうやってキーボードを叩いている間も、胸が締め付けられるような、そんな思いに駆られている。でも、なぜそんな思いに駆られているのかは、うまく説明がつかない。僕にとってあの時の経験が、それだけ衝撃的だったということだけは断言しておく。

以前は、被災地に向けて自分ができることは何だろう、ということを考えていた。
些細なことだけれど、こんなことだって少しでも被災地の役に立つのであれば、何もしないよりマシでしょう。ちなみにYahoo!の検索支援は今年もあるようだ。明日はYahoo!の検索から「3.11」をお忘れなく。

しかし、南海トラフ地震や首都直下型地震の発生がそう遠くない時期に起こりうることや、日本海溝沿いでの地震発生確率の上昇がつい先日報じられたばかり。今は、流暢に構えている場合ではないのだ。自分が被災したら何をすべきか、被災した時に慌てないように何を心掛けるべきかを、各自が本気で意識しなければならない時期に差し掛かっている。

地震や津波の被害を受け、不通区間が発生していたJR山田線。下の画像は、柵ではない。津波によって枕木ごと持ち上げられたJR山田線の線路だ。

この区間も含め、JR東日本が復旧工事を進めた区間が三陸鉄道に移管、3月23日に三陸鉄道リアス線として宮古~釜石間が開業し、盛~久慈間の163kmが鉄路で繋がる。また、東北縦貫道の花巻JCTから釜石JCTを結ぶ釜石道が全線開通し、岩手県内では被災地と内陸を走る高速道路が初めて1本で結ばれた。

このように、目に見える形での復旧・復興は確かに日に日に進んでいるかもしれない。しかし、目には見えない、つまり被災者の心の復興はどのぐらい進んだと言えるだろうか。復興という言葉ばかりが先走りしていることに、かつて「復興」に携わった僕自身が、苛立ちを隠せずにいる。