二つの死に接し、感じたこと

慶応大病院が舞台となった二つの死。

ZARDの坂井泉水さんが亡くなりました。
不慮の事故による突然の死。
死因は脳挫傷ということですが、何故そういったことに至ったのかに関しては、彼女のこれまで生き様同様謎に包まれています。
もっとも、そんなことを知ったところで彼女が戻ってこないのも事実。
事故だったにせよ自死だったにせよ、彼女の歌はこれからも多くの人たちによって、歌い愛され続けていくことでしょう。
しかし、子宮頸ガンの闘病の中、肺へのガン転移が見つかったとのこと。歌うことを生業としている彼女にとって、肺ガンの発覚ほどショックだったことはなかったのではないでしょうか。

僕は熱狂的なファンでもないし、彼女の音楽を熱心に聴いたことなんてほとんどないんですが、かなり近い世代として衝撃を受けたことは事実。
謹んでお悔やみ申し上げます。

そしてもう一人。


松岡農水大臣の自殺の報が駆けめぐる中、Yahoo!のトピックスの上部には、自民党青年部・青年局の全国一斉街頭行動の文字が踊っていました。何だか暢気だというか、もうちょっと配慮しても良かったんじゃないのかなぁ、と思いつつ、ぼんやりとネット上の活字を追っていました。

しかし、これほどまでに情けない自殺の報もないといった気分です。正直、がっかりしました。
普通なら「かわいそう」という感情が先に起きてもいいのに、全然そういう気分になれません。
不謹慎だけれど、「ふざけるな!」と。
見つかった遺書が8通。中には国民に宛てた謝罪めいたものもあるとか。
今更ここでこんなことを言っても仕方のないことですが、何故、死を選択する前に自分の口からそれを言えなかったのでしょうか。
「死をもって罪を償う」というのは、ちょっと履き違えれば単なる「逃げ」としか思われないわけだし、座右の銘が「真実一路」だという人が、真実を明らかにしないまま自ら命を絶つというのは、いかがなものか、と思ってしまいます。
緑資源機構の談合問題、理事者側の逮捕者が相次ぐ中、検察の狙いが松岡農水相に向けられていることは、素人の僕にでもわかることでした。
しかし、いくら精神的に追いつめられていたとはいえ、自ら死を選択する以外の方法だっていくらだってあったわけだし、誰か周囲の人が、あと一歩を踏み出すための後押し(ここでの後押しというのは、死を後押しするという意味ではなく、辞任あるいは辞職といった方法です)をすることができなかったのでしょうか。

もし、彼にとって自殺という方法が究極の選択であり、あるいは迷惑をかけた人たちへの謝罪の意味も込め、自ら死をもって潔白を証明することが美学だというのであれば、そんな美学はクソくらえだ、と思います。

一方、松岡農水大臣の自殺の報を受け、「ざまぁ見ろ」などという文字が躍っているのを見て、悲しくもなりました。
ちょっとそれは違うんじゃない?
確かに愚弄な行為かも知れない。でも、亡くなった人を卑下するようなことは、やめましょうよ。

何だかとても悲しくなりました。

いずれにせよ、同じ日に報じられた二人の「死」は、とても空虚な気分にさせられるものでした。

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