甚大化する災害と、ご近所付き合いと。

(本気で考えたいからこそ、長文駄文になってしまいました。原稿用紙換算9枚強、ご容赦を…)

今年の台風は、発生するタイミングが遅滞気味だった。1月に第1号、2月に第2号が発生して以降、6月まで音沙汰なし。

ところが、その6月に発生した第3号がいきなり関東地方をかすめて通過すると、7月からはほぼ毎週どこかで台風が発生することとなり、更には7月、紀伊半島に上陸した台風第6号を皮切りに、毎月のように日本列島に上陸した。

そして、9月に上陸した台風第15号は、千葉県南部を中心に大きな被害をもたらし、間を置くことなくやって来た10月の台風第19号は、信越から関東、東北地方にかけての広い範囲で河川の決壊や浸水の被害をもたらし、更には2週間足らずで本州に接近してきた台風第21号は、秋雨前線や低気圧の活動を活発化させ、更に被害を広げるなど、今年だけでも相当数の台風による、それも過去に類を見ない甚大な被害が発生していることは周知の事実だ。

台風といえばかつては、どちらかといえば南西諸島や九州地方をはじめとする西日本に大きな被害をもたらしていたものだが、昨今では場所を問わず大きな被害をもたらす傾向が強くなっている。
平成30年7月に発生したいわゆる「西日本豪雨」も、台風第7号の接近に伴う梅雨前線の活動が活発となり、11府県に大雨特別警報が発表されることとなった。

今年も特別警報が数度発表されている。裏を返せばそれは、もはや日本国内いつどこにいても大きな災害に遭う可能性があるということを示唆しているといっても過言ではないだろう。

台風第19号の時を振り返ってみて欲しい。あの時、台風は首都圏を直撃し、東京や神奈川といった地域でも大雨特別警報が発表され、多摩川や八王子市内を流れる河川が氾濫寸前まで水位上昇している模様が、何度もテレビで報じられていた。この間、関東甲信越そして東北地方まで広い範囲で大雨特別警報が発表され、警戒レベルは5、既に災害が発生している可能性が高い状況であることから、身の安全を第一に行動するよう繰り返し報じられた。

しかし結果的に甚大な被害が生じたのは、長野県や福島県、宮城県といった、台風の中心から少し外れた周縁の地域だった。思った以上に速度が遅かったことで、関東地方の台風の通過が夜から未明になり、広範囲で被害が発生しているのが明らかになったのは、翌朝になってからだった。どうだろう、関係者以外で事前にこの被害を予測した人は、いただろうか。

台風第21号についても、本州に上陸、直撃することはないという報じられ方をしていたが、実際は台風の進む先にある前線や低気圧が刺激され、台風第19号の被災地では更に被害が拡大し、被害の少なかった千葉市などでも浸水被害が発生するという事態となってしまった。

一つ言えることは、台風の進路に当たる地域はもちろんだが、中心から離れた周縁地域でも絶対に警戒を怠ってはいけない、むしろ台風の進路に当たる地域以上に油断してはならない、ということだろう。
今の人間の力を持ってして、自然災害を軽減することはできるかも知れないが、残念ながら完全に食い止めることは不可能だ。しかし、心構え一つで、自分自身の命や財産を守ることはできるだろう。

発生時期が迫っているといわれる南海トラフ地震や首都直下地震など、地震に対する備えをしっかりしましょう、ということはこれまでも言われてきたが、今回のような台風がもたらした河川氾濫、水害に対する備えへの周知は、果たして希薄だったのだろうか。

千曲川が決壊・氾濫した長野市然り、阿武隈川が決壊した宮城県角田市然り、各市町村においては各種ハザードマップが作成されている。

角田市防災マップ(水害編)
長野市洪水ハザードマップ

いずれも、1000年に一度の確率で発生する大雨を想定したものだが、今回の台風により浸水した範囲と、このハザードマップが想定していたエリアとは、ほぼ合致するそうだ。

災害にも「想定外」という言葉が使われるようになった。しかも昨今は、「想定外の規模の災害」の発生する頻度が高まり、その間隔がどんどん短くなっている。

ただ、前述のとおり地震や津波、水害などを「想定」したハザードマップが作成されていることを考えると、災害そのものは「想定外」ではなく、実のところ自分自身が被災することこそが、「想定外」ということなのかも知れない。

繰り返しになるが、かつて台風は南西諸島や九州地方に大きな被害をもたらすことが多く、東日本で大きな被害を受けることは、それほど多くなかった。

そして、恐らくその状況をテレビや新聞などで見ながら、他の地域に住む人たちは「あらま、あっちは大変だなあ」と、まるで他人事のように捉えていたことだろう。しかし、自分の身にこういったことが起きたときに、冷静に判断し、的確に行動することができるだろうか。

自分は大丈夫だ、と思っている人たちこそ、こういう事態に陥ることは絶対に避けなければならないよね。

「まさか自分が…」

「後悔しかありません。」

防災に空振りは許されても、見逃しは許されないのですよ。ハイ。

しかし残念ながら、もはや台風の被害は他人事ではなくなってしまった。1000年に一度といわれる規模の災害が、毎年のように起きているという現実からも、自然災害そのものが次の段階(更に強固な対策を講じなければならない状況)に進んだとも言われている。

実際、今回の台風で決壊、浸水した河川の数は90を越えているとも言われており、早急に堤防の復旧工事や防災対策等に取り組むこととなるが、それは一朝一夕で済まされるようなものではない。対策に取り組んでいる最中、あるいは対策に取り組む前に次の災害に見舞われるということだって、充分あり得るのだ。

残念ながら行政は、5年ほど前から「公助には限界がある」ことを認めている。最終的には「自分の命は自分で守る」取り組み、自助にも取り組んでほしい、というのが言い分だ。しかしこの社会には、「自分の身」を自分で守れない人が少なからずいるという一面もある。

僕自身の経験談を一つ。
奇しくも今年の台風第19号は、長野県のりんごに大きな被害をもたらすこととなったが、青森県のりんご産業を壊滅的な状況に追い込んだ「りんご台風」も、台風第19号だった。
平成3年、僕の住む弘前市がこの台風に見舞われた際、隣の家にはお婆さんが独りで暮らしていた。
台風の影響による猛烈な風が吹き荒れ、夜が明けると、空中を無数の袋(収穫間近のりんごに被せていたもの)が舞っているという奇妙な光景を目の当たりにした。ふと隣の家を見ると、平屋建ての屋根がなくなっていた。唖然としながら、ひとまず僕が様子を見に行くことになった。お婆さんが避難しているとは考えにくかったからだ。万が一の事態になっていたら、どうしよう…。何かが飛散してくるかもしれない暴風への恐怖よりも、不測の事態に対する不安の方が強かった。
屋根のなくなったお婆ちゃんの家の前に立つ。玄関は閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。恐る恐る玄関を開け、声を上げる。

「お婆ちゃん?お婆ちゃん?」
「ほい…」

か細い声が、どこからともなく聞こえた。その声を聞いて、胸をなでおろした。

「お婆ちゃん?」

声の聞こえた方に行ってみると、部屋の隅で何かを抱えたお婆ちゃんが小さくうずくまり、ブルブル震えていた。ふと上を見上げると、天井と屋根のなくなった空には相変わらず無数の袋が舞い、これまで見たこともないようなスピードで雲が流れている。

「お婆ちゃん!な、何持ってらの?」

顔をひきつらせたまま腰を抜かしたお婆ちゃんの手をほどくと、そこにあったのは炊飯器だった。
「停電する前に、米だけ炊いておこうと思って…。」
ある意味、適切な判断だと思った。
「ま、まずそれはいいから、炊飯器そこに置いて、ひとまずうちに行こう。」
「でも、これ持って行かないと…。」

ささやかな抵抗に屈した僕は、お婆ちゃんを背負い、炊飯器を片手に、自分の家の方へと進み始めた。

なかなか帰って来ない愚息のことを案じたのか、妹が中学生の時に使っていた通学用のヘルメットを被った父が、こっちに向かってやってくるのが見えた。
父に炊飯器を手渡し、お婆ちゃんを自宅まで連れていく。

「服が汚れているからここでいい」と、頑なに玄関から家の中に上がろうとしないお婆ちゃん。
辛うじて電話は繋がっていたので、お婆ちゃんの親戚の家に電話をかけ、事情を説明すると、飛んでくるように迎えにやってきた、というのが事の顛末だ。

うちの場合、近所付き合いところか近所に住む人がいなくなりつつあるのだが、昨今、近所付き合いが希薄になったと言われている。皆さん、どうでしょう。隣近所にどういう方がお住まいか、ご存知ですか。

今年はともかく、来年以降も台風はやってくるだろうし、どこかで今年と同じような雨が降り、もしかしたら今年以上の被害が発生することも充分に考えられる。災害に前例は通用しない。このことは肝に銘じておくべきだ。

だからこそ、いつ、どこにいても、誰もが被災者になる可能性がどんどん高まっていることを、今一度皆さんで認識した方がいいと思いませんか。

「自分の命は自分で守る。」

確かにこれはとても大事なことだ。
しかし、今だからこそ「自分」を「みんな」に置き換えて、次の災害に備えませんか。

今の災害対応に一番必要なもの。それが、「共助」ではないかと僕は思う。