鏡ヶ丘同窓会○○支部

昨晩は母校・弘前高校の同窓会でした。といっても職場内にある支部主催での開催。
ざっと勘定すると、青森地区にいる職場関連の同窓生は300名程。うち、昨日参加したのは、30名余り…。来賓が12名、ということで、ざっと50名。ただ、この来賓がそうそうたる顔ぶれで、某銀行の頭取や、県議会議員などなど…。

そのような中私、司会進行の大役を務めさせていただきました。
不覚にも顔ぶれを見て緊張感が走り、最初は噛みっ噛み…。
しかも、来賓挨拶の際に、次第にないことをやって欲しいという無茶ぶりまでされたのですが、少しずつ場を和ませながら、何とかその場を凌いだのでした(周囲からは「お前の司会ぶりには感服させられる」と賞賛されましたが、本人ホントにイッパイイッパイでした)。

亡父も同じ高校の同窓生であり、いろいろとご迷惑やご心配をおかけした方も大勢いたので、失礼とは思いながらもご来賓の方々にお礼のご挨拶をさせていただきました。

「どしてら?落ち着いたか?」
気さくに声を掛けていただき、気持ちも少しほぐれました。
某議員からは、「実はお父さんから、母校の野球練習場のネットを修復してほしいと、生前頼まれた。あれは俺への遺言だと思って、必ずやるから。」とお声を頂きました。

ひょっとしたら他の出席者にとっては、何の面白みのない、ただ飲んで食うだけのつまらない会合だったかもしれません。しかし個人的には、父が生前お世話になった方々といろんなお話ができただけでも有意義な会合でした。

そんな中、昨日の一番の収穫は、高校時代の恩師と再会し、二人で酒を酌み交わしたことでした。
恩師は現在53歳。恩師が弘前高校に赴任して、初めての卒業生が我々だったということで、強く印象に残っているクラスだったとのことでした。

もう20年以上も前の話になりますが、高校三年の秋、父とともに三者面談に臨んだ時の思い出が今も強く残っています。父は席上、「もし大学が駄目なら、浪人はさせません。働かせます。」とキッパリ。「で、のんべ君は何をやりたいの?」と恩師。「将来的には家業を継ぐことも考えなければならないかもしれないが、今はまずその礎となる勉強をしなければならないと思います。」と僕。恩師、一枚の紙を取り出し、「のんべ君の今の偏差値はこれぐらい。で、あなたの希望する大学の偏差値はこれぐらい。相当努力しないと…。」

帰路、父は無言でした。
帰宅すると、父はパンフレットをおもむろに取り出しました。なんとそれは、静岡県や四国地方にある企業案内。「大学駄目ならここに雇ってもらうよう、話はしてあるから。」
この時ほど冷淡な父もいなかった、と記憶しています。しかし、逆にそれが私の闘志…のようなものに火を点したのかもしれません。

あの時の父と、この恩師がいなければ、そしてあの時の仲間がいなければ、今の自分はなかったであろうというぐらい、高校時代の3年間は、自分の人生の中で重要な時期であったと、確信しています。

そんな恩師とは、かれこれ20年来のお付き合いとなります。
現在は教務職ではなく、教育関連の事務職への配置となっており、現場を離れてから結構時間が経過していますが、そろそろ現場復帰したいという思いを抱いていること、そのためにも、後進に道筋をつけるため、来年の太宰治生誕百周年記念事業を何とか成功裡に終わらせなければならないことを、力説しておられました。

20時台の電車で帰ろうとした恩師を無理矢理引き留め、二人で青森駅前にあるモツ焼きやで一献。その後弘前駅に電車が到着するまでの約2時間、いろんなことに気づかされ、いろんなことを学んだ、とても内容の濃い時間を過ごすことができました。

恩師が我々を卒業生として送り出したのが、33歳の時。我々は5年前にその年齢を超えてしまいましたが、自分があの頃の恩師のような活力溢れる人間には到底及んでいないこと、母校の教育方針である人間像「持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す人」にはまだまだ達していないことを強く感じました。

それにしても恩師と二人だけで交わした時間は本当に私にとって貴重な時間でした。親子の関係が幾つになっても親子の関係であるのと同じで、恩師と生徒の関係はいつまで経っても絶対変わらないのだと、強く思いました。

近いうちの再会を約束して、家路につきました。
ほろ酔い加減でタクシーを降りると、細かい雨が降っていました。
頬に当たるその雨は、実に心地よい雨でした。

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