父の一言

普段は極力ここで家族のことは書かないことにしているんだけど、今日はちょっとだけ父のことを書こうと思う。といいつつ、去年の4月にも父のことを書いてたな(笑)。

4年前、みんなが涙に暮れた「あの出来事」があって以降、何となく家族それぞれのベクトルがバラバラで、みんなが物凄く我が儘で好き勝手やるようになって、それがまた家族の不協和音を呼んだりと、思い返せば何かと大変な4年間だった、と思う。

それがここに来て、徐々にではあるけれど、みんながまた同じ方向を向こうとしている、ような気がする(いや、向かなければならないのだ)。
その中心にあるのは、紛れもなく父である。
「あの日」以来、普通の人間以下まで落ち込んだ父。這い上がるまでの4年という日々の実に長かったこと!

実はそんな父の一言一言というのは、僕の人生の岐路において大なる影響を与えていることは、否定できない事実だ。



高校3年生の時。
僕は大学進学を希望していたが、それまで学校の行事と言えば母が登場していたのに、その日初めて父が登場した。父と恩師、僕との三者面談。

恩師は重い口を開き、一枚の紙を取り出した。

真っ直ぐに引かれた赤い線。
「nonvey君の希望する大学のボーダーラインはここ、で、nonvey君の今の成績は、ここ。」

そう言って恩師が指さしたのは、赤い線より遥か下の位置だった。
当時何をしたいのか、将来像が全く見えず悩んでいた僕は、漠然と家業を継ぐことを考え始めていた。そのために必要なものは何かということを考えた時に出した結論は、「取りあえず」地元大学に進学するということだった。国公立大学の中では、下から数えて何番目の大学ではあったけれど、その大学に進学することすら厳しいくらい、僕の成績は酷いものだった。

重苦しい空気が漂う中、父が恩師に言い放った一言が強烈だった。
「絶対浪人はさせません。ダメなら働かせます。」

重い足取りで家に帰ると、父は無言で四国にある製紙会社のパンフレットを僕に手渡した。
「話はつけてある。あとは自分で考えろ。」
言わば、父からの最後通告だった。

あの日を境に、僕の中のスイッチがオンになった。
それから僅か半年後。僕はみんなから「無理だろう」と言われた地元の大学に合格した。

「よし。これで俺のこと越えたな。」
大学進学するも中退せざるを得なかった父が僕に言い放ったこの一言は、今でも重く僕の心の中に残っている。しかし、父が一生越えられない存在だということもわかっているつもりだ。

大学4年になり、就職先を探す時も同じようなことがあった。僕が今の仕事に就いたのは父の助言があったからこそであり、もしあの時父の助言がなければ、僕は今頃仕事にもありつけず、路頭に迷い込んでいたかも知れない(なぜなら、唯一内定をもらっていた会社は、数年前に会社更生法により事業停止してしまったからだ)。

父が「ダメもとで公務員試験の勉強してみれば?」と言わなければ勉強する気なんてなかっただろうし、大体公務員なんて全然興味がなかったのだ。
それがどうだろう。「ダメもと」というあの一言で発奮し、そして今の仕事に就いた、と言っても過言ではない。

こんな感じで、僕にとって「父」というのは、一方で目の上のたんこぶのような存在でもあり、その一方で一生辿り着くことの出来ないゴールのような存在なのだ。

そんな父は最近、「ありがとう」という言葉を口にする機会が増えた。
昨日も、会合ですっかり酩酊してしまった父を迎えに行った車中で、(ほとんど本人は覚えていないのだろうけれど)「ありがとう」と口にしていた。

何を言うか。
僕に言わせれば「こちらこそありがとう」なのだ。
以前は「もう、勝手にすればいい!」と冷たく言い放っていたのに、ここに来て父の体調(とりわけ酒量)を気遣う母そして妻、妹。

何となく、父を軸にしてまた家族が同じ方向に動き始めているような気配がする。

僕は、父のお陰で何度も小さな花を咲かせることができた。
今度は父にもう一花咲かせてもらわねば。水やりはもう、始まっている。

2 thoughts on “父の一言

  1. ちゃき

    ちゃきがこんなこと書くのは失礼かもしれないけれども
    ずっと のんべぇさんがお父さんのこと書く日記好きでした。
    怒りでもなににでもお父さんへの愛情が伝わる日記でした。
    ちゃきも常日頃 父には暴言はいてますがw
    やっぱり 大好きですw

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  2. nonvey

    父からの愛情を感じたことは微塵もないし、父へ愛情を注いだこともありません。
    しかし、無視できない存在なのです。家族ですから。

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