我が人生に「杭」はなし?

今日は話の内容が支離滅裂なのでご勘弁を。


出る杭は打たれる。
しかし、出ていない杭ですらも打たれることがある。
典型的な「津軽の足フパリ」は、例えそれが社会悪でなくとも、目の上のたんこぶのような存在と断定して、社会から疎外しようとする独特の風土病だ。

高校?大学時代はいろんな人から「いい人」と言われ、人生の挫折らしい挫折を味わうことなく、それでも綱渡りのような人生を送ってきた僕にとって、いつも足フパリの憂き目に遭った父の姿は、まさに反面教師だった。
父のようにはなりたくない、出来るだけ周囲に馴染んだ目立たない存在でありたい、いつもそんなことを思っていたが、知らぬ間に父から受け継がれたDNAが、僕の中で勝手に活動を開始していたらしい。

気が付いたら、あれやこれやと手を出し、あれやこれやと仕掛けていたが、いずれ劣らぬどっちつかずな中途半端振りを露呈し、多くの人たちを振り回してしまった。ハッキリ言って迷惑この上ない話である。
今となっては、こんな僕のことを「いい人だ」なんていう人はいないだろうし、大体みんながどう思っているのか知らないけれど、僕は全然「いい人」なんかじゃない。


気が付いたら自分が「出る杭」になっていたのは今から約10年前、社会に出て3年目のことだった。周囲からの度重なるバッシング(出る杭叩き)にストレスが溜まり、ついにはパニック障害(と思しき症状)を発症したことは、以前触れたとおり。

あのことを経験してから、僕は社会に対してすっかり萎縮してしまっているような気がする。
あれほど周囲を意識しまくっていた自分という存在は影を潜め、一目置かれるような存在になりたいなんて野望は欠片もなくなった。

大体、大した自己主張も持ち合わせていない自分にとって、何かの機会に注目されることほど辛いことはないかも知れない。僕自身から社会に向けて発信できるものなど何もないし、仮に発信されたとしても、何の役にも立たないと思っているからだ。

平均的な日本人の「平均」が何をもって「平均」というのかは僕にはわからないし、普通だと思っていたことが普通ではなく、今まで普通ではなかったことが普通になりつつあるこの世の中にあって、自分がどう評価されようが、他人の目からどう見られようが、もうそんなことはどうでも良くなった。

ただ、自暴自棄な振る舞いで電車に飛び込むヤツや、自己中心的な発想だけで他人を平気で傷つけるバカどもがあちらこちらに潜在しているという現実からは、目を背けることが出来ない。

結局のところ、やはり無意識のうちに他人の目は意識するものだ。何だかんだ言っても他人様には迷惑は掛けたくない。しかし、この世に生きてそして死を迎えるということは、必ず他人様に対しご迷惑をお掛けするということにもなる。なぜなら、死して自らの骨を拾うことは出来ないからだ。

実はどれだけ他人(周囲)の目を意識するかということが今一番重要なことじゃないか、という気がする。目を配る、気を配ると言い換えることも出来よう。いろんな考え方があるとは思うけれど、今の日本人はセルフコントロールがあまりにも出来ていないんじゃないかな。
ありがとう。ごめんなさい。当たり前だと思っていた言葉、挨拶が聞かれなくなった昨今。

今朝、混雑する電車の中で平気で床に座り込む、化粧の「け」の字も知らないようなタヌキ面をぶら下げた若いオナゴ連中、テメエでぶつかってきながらこちらを睨み付けた、キツネのような目をした男子高校生のことを思い出しながら、つらつらと綴ってみた。


でもって、気が付いたらWeb上にアップされていた一つの発信。
僕は派遣という形で大学院に進み、そして大した成果を残さず今の仕事に復帰した、と思っている。なぜなら、この内容については派遣結果として一切報告しなかったからだ。

弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』(社会科学篇)第13号(PDF形式)
P184(実際はP189-)執筆者は三名、最後が僕(最終ページの手前でも執筆者として名前が…)。

内容は既に3年も前の話なので時期的には旬を過ぎている上に、調査を行った村は既に市町村合併の煽りで消滅。非常に地味な発信ではあるけれど、個人的には凄く嬉しい。
ただ、ここから誰かが何かを得られるかと言えば、あまりないのかも知れない。ハッキリいればこれは、自己満足の世界だ。

正直言うと、この論文の7割程度は教官の指導を仰ぎながら僕がワードで打ち込んだ。その後、教官二人が加筆修正したことで、「作文」程度の文書が見事に「論文」に化けた。よって、これだけは僕が書いたんだ!と胸を張れるのは、ほとんどの図表の作成を手がけた、というくらいだろうか。あ、行政の変遷も生きてるか…。
ただ、読み物としては堅苦しい(?)学術論文とはちょっと異なっていて(というかぶっちゃけた話、社会学は面白いです。ホント)なかなか面白い内容ではないかと自画自賛してみたり。

興味のある方はご覧下さい。

2 thoughts on “我が人生に「杭」はなし?

  1. けいこりん

    「普通の人」「いい人」となるのは実は一番難しいのではないかと思います。
    自分で「イイ人でいたい」という呪文をかけてしまうと、とんでもなく苦しい笑顔を作ったり、こんな事聞いて不快に思われないかしらと不安でたまらなくなったり。
    少しくらいワガママで自己中心的な人の方が世間を楽しく渡っていけるんだろうな?
    私自身がそうだとは思わないけど、最近特に考えてますね。
    >>今まで普通だったことが普通じゃなくなったり
    確かに。
    女子は下着のような服着て平気だし、男子もズボン破れてパンツ出てる。
    もうビックリすることだらけ。
    その波には乗れなくていいやと思うのは年とってきた証拠かしらね?

    Reply
  2. nonvey

    家族も含め他人に全く干渉されない人生ほどつまらないものって、ないでしょうね。
    よく「無人島に一つだけ何か持って行けるとしたら?」という問いかけがありますが、俺なら「話し相手」を持って行きたいですね(笑)。
    あ、何を言わんとしているのかというと、結局のところ「普通の人」も「いい人」も自分で決めることではない、ということ。
    下着のような服にパンツ丸出しのズボン。ホント、昔なら考えられない格好ですよ。ああいう格好をする多くの若者には「羞恥心」がないんでしょうね。まぁ、日本人全体が「羞恥心」を損ねている、と言えるかも知れませんけどね。

    Reply

Leave a Reply