職場で着用しているカーディガンの袖口に、綻びがあるのを発見した。1円玉が入るくらいの大きさだろうか。気づかぬうちに開いていた、小さな穴だった。
…僕は思い切って、その穴に身を投じてみることにした。
ヒュウ〜ッ…ゴォーッ…キーン…
鼓膜に圧力が掛かり、冷たい風が顔を覆う。
周囲はあっという間に闇に包まれ、やがて地面のような場所に全身が叩きつけられた。


不思議なことに、痛みはない。
ムクッと起きあがる。
ここは、どこだ?
周囲を探るも、暗くて何も見えない。
恐怖を紛らわすために、声を発する。
「おーい!誰かいるかー!」
自分の声だけが、空しく響く。ふと見上げると、闇の中に小さな白い点が見える。どうやら、相当の高度を落下してきたようだ。
この空間は、どれくらいの広さなんだろう?
両手を広げても、壁らしいものはない。地べたに座り込んだまま、両手で周囲を探ってみる。
下が草むらのようなもので覆われていることに気づくまでに、それほど時間は要しなかった。そうか、これがクッションになったから助かったのか。
思い切って立ち上がってみる。足下は、まるでゴムのように柔らかい。
恐る恐る一歩を踏み出す。踏み出したところに足跡がそのまま残るような感触。まるでウォーターベッドの上を歩いているようだ。やはり、周囲は全く見えない。再びその場にへたり込む。
「だ、誰かいませんか!?」
再び自分の声だけがどこからともなく跳ね返ってくる。
そして訪れる静寂。
そういえば、足下が生暖かいことに気が付いた。
どうやらこの地面は、かすかに熱を帯びているようだ。
どこに行けばいいのだろう。どうしたらいいのだろう。
暗闇の中で、ありとあらゆる思考を巡らしてみるが、答えは出てこない。
草のようなものを枕に、思い切って横になってみる。何だか懐かしい温もりに包まれたような気持ちになる。
……….。
…はっ!!!
どれだけ時間が経ったのだろう。どうやらその場に眠ってしまったらしい。時計を忘れてしまったので、時間の感覚すら損なわれている。
何も見えないこんなところでただじっとしているのも辛くなり、ようやく少し移動してみようという決心がつく。
右へ進むか左へ進むか。東西南北もわからない状況では、どちらにどう進めばいいのか皆目見当が付かない。
重い腰を上げ、取りあえず左の方に進んでみることにした。両手を四方八方がむしゃらに動かしながら、何か壁になるようなものはないか探る。そして両足のつま先は、落とし穴や水たまり、崖などがないか細心の注意を払っている。
若干の起伏があるものの、壁はなく、柔らかで平坦な「道」が延々と続いているようだ。ただ、少し方向を間違えると、急に路肩が崩れているようなところがある。いや、正確に言うと路肩が崩れているのではなく、なだらかに切り立っているような感じなのだ。
どれくらい歩いたのかはわからない。冷や汗と脂汗が入り交じり、顔や全身がどんどん湿っていくのがわかる。
そしてそれをせせら笑うかのように、地面もどんどん熱を帯びてくる。草のようなものを踏んでいる感覚はわかるが、それ以外に生き物らしいものは一匹も見あたらない。
やがて周囲の状況がぼんやりと判別できるようになってきた。
僕は今、小高い丘の上に立っているようだ。そしてこの丘の上には、小さな「落とし穴」があることがわかった。周囲には簡単に抜けそうにない、強固な草のようなものがまばらに生い茂っている。ひょっとしたら、僕を陥れようとした敵が、トラップを仕掛けるために穴を覆ったのかも知れない。その草を一本抜いてみようと力を入れてみるが、なかなか抜けない。
そうだ!
僕はその草にしがみついて、その穴に入ってみることにした。
何かヒントが見つかるかも知れない。
全身は汗だくだが、腕力は未だほんの少し残っている。
穴の縁に立ち、草の先を両手でギュッと握りしめる。ゆっくりと後ろ向きになり、足場を確認しながらスルスルと穴に降りてみる。
しかしながら意外にその穴は狭く、あっという間に僕が降りることを拒むような幅になってしまった。この先深さがどれくらいあるのかわからないが、僕が進むべき方向はこの時点で「上」しかなくなってしまった。
試しに足で穴の壁を蹴飛ばしてみる。しかしその穴は、やはりウォーターベッドのようにぷよぷよしているだけだった。
何かをその穴に落としてみることも考えたが、持ち合わせているものがなかった。穴に向かって「あっ」と声を発しても、声の跳ね返りがなかった。
一つだけわかったことは、その穴はどうやらとてつもなく深いらしいということだった。
仕方なく再び「上」に戻ってみた。周囲は相変わらずぼんやりとしたままだった。
ん?
小高い丘からはるか向こうに、異彩な明るさを放っている場所があることに気が付く。
あそこに行けば、何かあるかも知れない。
はやる気持ちを抑え、ゆっくりかつ慎重に、僕は再び歩を進めていった。やがて草のようなものは、僕の背丈くらいの長さになり、足や身体に絡みついてくるようになった。必死にそれを退けながら、「明るい」方向へと急ぐ。
気が付くと草のようなものは、僕の背丈をはるかに越えていた。
そしてその「明るい」場所にたどり着いた時、頭上にはバックリと傷のような口が開いているような雰囲気だった。そしてそこだけが、眩しい光を放っていた。地面は相変わらず生温い感覚だったが、外気は冷気を伴っていた。時折、風が頬を撫でる。
僕の身体にまとわりついていたのは、黒っぽい蔓だった。しかし、こちらは意外に簡単に引っこ抜くことができるので、怪我をするということはなさそうだ。
頭上のその「穴」までの距離は、手が届くほどではないにせよ、それほど遠いものではないことに気が付いた。
そして僕は、黒い蔓のむこうに「木」があるのを発見した。
必死に蔓をかき分け、「木」の前に立ちはだかる。さほど高い木ではないが、頭上に向かって伸びている。しかも、この木によじ登れば、「あの口」に手が届きそうな感じだ。
既に体力は限界に近いものがあったが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。渾身の力を振り絞り、その木にしがみついた。枝もなければ葉もない木だったが、足下に生える黒い蔓を足がかりに、木にしがみつきながらてっぺんを目指した。
その「木」は思ったより丈夫で、折れる心配は全くなさそうだ。そして登りながら気が付いたことだが、それは「木」というよりも、とがった「山」のようなものだった。
途中、何度かバランスを崩して落下しそうになる。
それでも何とかしがみつき、必死に上を目指した。
そして遂に、僕は「木」のてっぺんにたどり着いた。
手を伸ばし、その傷口のような穴に手が届きそうになったその時…。
突然僕の身体は例えようのない力、重力のような力によって穴の外に押し出された…。
うわぁぁぁぁぁぁ!!!!!…….
…ふと、目が覚めた。
と同時に、恐る恐る手を伸ばす。
や、やっぱり。
社会の窓、すなわちスラックスのファスナーが、今日も全開だった。
僕は誰にも気づかれぬよう、そっとファスナーを上に引き上げた。
その瞬間、「あの世界」は再び静寂と闇に包まれた。
〈完〉

」への4件のフィードバック

  1. けいこりん

    「なんとかビッチの穴」って映画がありましたね。(なんだっけかなー)
    あれみたい。
    帰ってこられて良かったですね。

    返信
  2. nonvey

    ハイ。今度はあの「穴」にスコップ持参で潜入したいと思います。

    返信
  3. mash

    私は、「不思議の国のアリス」のイメージです。
    楽しませていただきました〜!

    返信
  4. nonvey

    mashさん、ありがとうございます。
    ほとんど思いつきでストーリーを綴ったものなので、文脈や表現がメチャクチャだったかも知れません。
    また機会を見て何か書いてみたいと思います。

    返信

コメントを残す