フィクションとノンフィクションの境目

中学3年生をホストに雇う ススキノの店の3人逮捕
札幌・手稲署などは11日、中学3年の男子生徒3人を札幌市・ススキノの飲食店でホストとして働かせていたとして、風営法違反(年少者雇用)の疑いで、飲食店の共同経営者で同市白石区米里五条、伊藤和憲容疑者(35)と、同市中央区南六条西、上杉尊容疑者(37)ら、3人を逮捕した。
調べによると、伊藤容疑者らはことし1月上旬から2月下旬に、いずれも当時15歳の同市手稲区の中学3年生3人を、年齢などを確認せずに雇い、ススキノの店で深夜に働かせていた疑い。
店は、ホストと呼ばれる男性従業員が女性客の接客をする「メンズパブ」として、深夜営業していた。生徒らは求人雑誌を見るなどして、応募したという。

何でも、この中学生の同級生女子が、客として出入りしていたとか。ドラマみたいな話です。
周囲にいる大人だって絶対気づいているはずなのに、誰も注意しないっていうのが、何だか悲しいな。それに、中学生をネタに金を稼ごうなんて、大人としてやっていることが最低だよ。


ところで、9日に「海辺のカフカ」の感想を掲載しました。で、この事件を見て、ともに15歳の少年ということで、何か考えさせられることがいくつかあったのです。感想の続きと併せてつらつら綴りたいと思います。
「海辺のカフカ」のいろんなシーンを現代社会に当てはめてみると、実はこの作品は、社会に潜在するディープでネガティブな部分を指摘しているのではないか、という所感を抱くようになりました。そしてこれは、村上氏からの現代社会に対する嘆き、警鐘だったのかも知れません。
ちょっと話は逸れますが、空から大量の鰯やヒルが降ってくる場面がありました。ボラの大量発生があったのは、この作品が発表された翌年のこと。偶然の一致だとは思いますが、ここ数年騒がれている異常気象を、実はこの作品が見事に予言(指摘)したのかも知れません。
「ジョニー・ウォーカー」が猫を惨殺するシーン。「ジョニー・ウォーカー」には、マニアックを通り越した異常趣味を嗜好する、多かれ少なかれ存在する「人種」を表していると思います。彼の行動は冷徹で、人間味が全く感じられません。ネタばれになってしまいますが、彼にナイフを突き立てる際にナカタさんが感じた「何か不思議な感覚」というのは、実はまさにその人間味あるいは人間性なのではないでしょうか。幼い頃は優秀で聡明だったナカタさんは、原因不明の事故で記憶を一切なくし、以降親戚に預けられ、その後は都からの補助で生活を営んでいます。無味乾燥、喜怒哀楽のないナカタさんが、彼を刺そうとした時に生じた思いは、まさに激しい「怒」りだったのでしょう。実は彼が父母を回想するシーンで、彼が記憶を喪失して以降、母は泣き崩れ、父は怒りっぽくなった、という話をしています。ここには潜在的に、家庭内暴力の要素が含まれています。
いくつかの性描写。特に主人公が絡んでいるシーンは、よく考えてみると、性の低年齢化を指摘しているんだろうと思います。札幌のホストクラブの事件もそういった要素を含んでいるのかも知れませんが、若年層の性行動に対し、大人が何もできず、コンドームの着用や性病の危険性を訴えるだけで、行為そのものを黙認しているというのも、大きな問題ではないかと思います。
そもそも、15歳の少年がたった一人で、足を踏み入れたことのない地に降り立っても、平日に一人で電車に乗ろうとも、少年が若干大人びていたということもありますが、誰も感心を寄せないという事実。周囲の人誰にも、何にも関心を寄せない自己中心型社会が、急速に広がりつつある、そんな気がしてならないのです。昔は、「悪いこと」をすれば誰彼問わず怒る人がいたものでした。ところが今はどうでしょう。マナーも守れない、礼儀も知らない、大人子供が大勢いる社会で、何が改善されるというのでしょう。むしろ、着実に改悪への道へ進んでいるのではないでしょうか。
どんどん話が膨らみすぎてしまいました。しかも、まとまりがなくなってきた(苦笑)。
「海辺のカフカ」はあくまで小説の上での話であり、いわゆるフィクションです。ところが、フィクションとノンフィクション、いわば非現実と現実の境目が消えつつある。それが、今の社会の根底にある問題ではないか、という風に思いました。
さて、ちなみに今回の事件、子供の親が警察に相談して発覚したそうな。きっと親子の会話もなかったんだろうな。学校も手を出せないくらい荒れていたんだろうか…。もっと手段はなかったのかなぁ。

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