読破苦な独白。今日は毒吐く。

久し振りの内心吐露。今日の毒素感想文は、原稿用紙約6枚。国語の先生にポメラニアン、いや誉められますように。

清々しい気持ちで週明けを迎えるはずだったのに、月曜日は何だか気が重かった。いや、重いのは気だけではなく、足取りも頭もだった。

これまでも勉強会に参加した後は、大体こんな気分、心境に苛まれる。勉強会だけじゃなく、仕事ならぬ私事で参加したフォーラムやワークショップのあとも同じ。でも、何でこんな感じになるのか、何となく理由はわかっている、つもり。

11月4日に開催された北秋田市での東北OM勉強会、個人的に印象的な場面が一つあった。
トークセッションの後の質疑応答、大学1年だという男子学生がマイクを握った。大学1年生でありながらこういう場に足を運ぶという意欲に驚きつつ、彼の質問に耳を傾けた。

自ら行動を起こすべくFacebookやLINEなど、ネットで色々繋がりを持とうと周囲を誘っても、周囲の反応が鈍く、何とかしたいと思うがどうにもならず、もがいている。もっと周囲を動かすためにどうすればいいかアドバイスを欲しい、といった趣旨。(リアルな関係構築すら希薄になっているというのに、ネットの関係構築でもこのようでは、ホントこの先どうなるのだろう、とオッサンは少し心配になった。)

この質問に対する回答。
周囲の全員を一人で動かすなんて考えないで仲間を見つけろ。人間の総量(エネルギー)は人生皆平等だと思っている。最大限発揮するのは、20代かも知れないし30代かも知れないし、もっと後かも知れないし。だから今、焦る必要は全くない。

その回答を聞き、そうそう、わかるわかる、と頷きつつ、さて自分はどうだろう?と考える。
実のところ、あれやこれやと一人で悶々と考えても、それを行動に移す勇気がない。

なぜなら、未だに失敗が怖いから。

失敗を考えている時点で、自分なりの結論、着地点はある程度出来上がっているということだろうか。
否、46歳にもなってそもそも自分の思考を次の形にすることができていない、つまり次の形に繋げるような思考回路ができあがっていないだけの話。

奔走する父の背中を見ながら、漠然とまちづくりへの興味を持ち始めた20代。

自分に何ができるのか悶々としたまま、追いかける背中そのものを失った30代。

外との繋がりに救いを求めながら、他人の思考、発想に乗っかり続けている40代。

何をすべきか、具体的な構図を描いてすぐ行動に繋げる人たちへの羨望。

そういう人たちにお目にかかれるだけで、自分の満足感が得られている。

凄いなあ、凄いなあ。口を突いて出てくる言葉はこればかり。

そんな凄い人たちに、単に会いたいだけなのかも知れない。それだけで I Can Get Satisfaction なのですよ。
一体、自分は何をしたいのだろう。この先、何を望んでいるのだろう。何かいいアイディアは生まれないかなと、今日も同じところでスキップしながらずっと円を描いている。

とはいえ絵に描いた餅は所詮食べられないし、味もわからない。
もっとも、僕の考えていることの本質なんて、もの凄く薄っぺらくて、誰もが考えそうな当たり障りのないこと。あの業界のたちが切りまくる空手形みたいなものか。

待てよ、そもそも湯水の如くアイディアが生まれてくるような頭脳は持ち合わせていなかった!

結果ありきで落としどころを最初から探るのは、いかにも打算的な、萎縮した行政の常套手段なのかな。

結果ではなく、取りあえず、何となくやったという過程に対する満足感。

行政主導の事業なんて3年も続けば終わる。仮にそれがいい事業でも、行政から民間へノウハウが受け継がれないまま、幕を下ろす。そうならないようにするためには、どうしたらいいだろう?

…いや待てよ、そもそも他のことには口を挟めない。これは縦割り行政の弊害か。いや違うか。
漠然と思い描くビジョン。実は自分が一番打算的になっていないか。

興味のあることや、好きなことをやっていく延長で地域が盛り上がれば、それはそれで最高じゃない。

ということは、一番手っ取り早いのは、自分の興味を少し拡げてみればいいってことなのかな。

大風呂敷を広げたような話だけれど、地域に潤いを還流したい。どうせなら、みんなが笑顔になるような、そんな仕掛け。下世話な言い方をするならば、外貨、すなわち県外客の財布の紐を少しでも緩め、地元にお金を落としてもらえる仕掛けを考えればいいだけなのだろうか。お金だけじゃ得られないものもあるはずだよな。
水面に投じた石は良かれ悪かれ波紋を拡げる。どうせなら一石五鳥ぐらいになればいいのに。問題は、その石をどこで調達するか。コンビニでは売っていない。

しかしそれは本当にやってみて楽しいこと?周囲に伝播する?やってよかったと感じる?
石はどう転がるかわからない。先の見えない動き。だから面白いし、楽しい。でも、面白くなかったら、楽しくなかったらどうしよう。

待てよ。結局僕は石を転がしたいのか、投じたいのか。再び逡巡と躊躇の堂々巡りが始まる。

水やりを間違えなければ、数年前に撒いた種でも、枯れることなく着実に芽を出す。すぐ結果を求めるのはナンセンス。
更に追肥をしてそれを育み、小さな花が咲いたら、最高。
そうだ、いきなり大きな花束を作ろうなんてことを考えるからダメなんだよ。花束になる花を一つ一つ育ててこそ、やりがいってものなんじゃないか。

綺麗で大きな花束も、まずは小さな種から…。

おっと、僕が手にしていたのは石じゃなくて、種だったのか。
どうせ最初から誰も期待していないし、何の信望もないんだから、開き直ればいいのだ。

他人事を自分事に。

まずは原点に立ち返り、自分の周りのことからもう一度考えてみようかな。

結局は、やってみなければわからないってことか。

何事も、No Attack, No Chanceだな。一歩踏み出す重要性、大事ですよ。

ところで、賛同する仲間はいるか?同じ方向にベクトルは向いているか?一番の肝は、ここに集約されるんだろうね 。

そういう意味で例えるならばオラは、黒ビールみたいなマイノリティ。

そのこころは。

主役は張らなくとも、脇役、引き立て役にはとことん徹しますよ。

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