試行錯誤


人生は、試行錯誤の繰り返しである。
人間、誰しも失敗などしたくないはずだ。一つの物事に取り組んだ時、できればそれが完全なる成功をもって為し遂げられる、完璧と言わしめるぐらいの形で終えられるのが理想と考える人も多いに違いない。

しかし、人生に失敗はつきもの。大きな失敗から小さい失敗まで、失敗もさまざま。逆に、失敗のない人生ほどつまらないものはないのかも知れない。失敗を恐れるあまり、差し障りのないところに結果を求めても、そこからは何も生まれない、と僕は思う。
一方で、失敗を重ねることは、経験を重ねるということにも繋がる。何度も何度も失敗を繰り返し、学習能力を高め、その後の成功に導く。失敗の繰り返しによって挫折し、断念することほど中途半端で不甲斐ないことはないだろう。いや、自分の持てる能力を余すところなく発揮したにも関わらず失敗したというのであれば、それは挑戦そのものが「無謀」と言われかねない。しかしながら、持てる能力を本当に全て発揮したのかどうかは、自分自身の中でしか答えを見つけることができないし、他人はその答えを知る術がない。

失敗の確率よりも成功の確率を高めるためには、試行錯誤が必要だ。前述のとおり、同じことを繰り返して同じ失敗をするということは、単に「学習していない」ということである。

色んな試行錯誤を繰り返しても、最後の最後で守勢に入ってしまっては、その試行錯誤の意味がなくなるといっても過言ではない。試行錯誤をする必要のなくなった時、すなわちそれは、諦めか達成のいずれかに分類されるはずだ。

(何で急にこれが出てくるかというと、ここ半月の間、毎朝この水を飲み続けているからです。効果は今のところ全くといっていいほど感じていませんが…。)

人間は精密機械ではない。寸分の狂いもなく常に同じ動作をし続けることは、不可能である。しかし、マグロのように死ぬまで泳ぎ続けなければならない身体ではないので、立ち止まり、振り返り、そして、思い返すことができる。

本格的にランニングを始めてから6シーズン目を迎える。考えてみると、尿酸値、コレステロール、中性脂肪、γ-GTP、全ての数値において正常値を大幅に越えた30代半ばに成人病予備軍を指摘された時、生まれて初めて真面目に取り組んだ運動がランニングだったと言っても過言ではない。約3年後、真面目な取組から本格的な取組への移行だって、今思えば試行錯誤の末だった。
別に誰かに「死ぬまで走り続けろ」と言われたわけじゃあるまいし、走り続けることそのものは義務ではない、という開き直り。だからというわけではないが、「是が非でも走らなければならない」「走らないことが我慢ならぬ」といった状況だけには自分の身を近づけないようにしている。
やめたければすぐにでもやめればいい、それだけのこと。別に走ることをやめたからといって、誰からも咎められることはないし悲観されることもない。ただしそれで自分自身が納得できるか、それに尽きるのだと思う。

今まで色んな試行錯誤を繰り返してきたし、その試行錯誤が僕にとっては絶対効果のあることなのだという根拠も何もない確信を持ち、結果としてそれが誤りであったことを思い知らされることもあった。しかしながら、仮に結果が全てだとしても、それは僕にとってのゴールではないということだけは断言しよう。むしろそこから何を学び、どう繋げていけばいいのか、そんな新たな試行錯誤の始まりなのだと確信している。

ふと立ち止まり、40代を迎えてからこれまでの5年間(それは人生のたった9分の1というほんのわずかな期間でしかないのだけれど)を振り返りながら、自問自答を繰り返す。
これまでの試行錯誤で課題は見つかったか?やり残していることは、何だ?というか、どんな試行錯誤に取り組み、何を学習した?これらの問いに、明確な答えを見いだすことができない。結局のところ僕は、大人になってから経験する挫折や苦しみ、失敗を恐れていただけなのかも知れない。究極のビビリ、というワケだ。

1月29日、勝田で待ち構えるゴールゲートは単なる通過点であり、新しい試行錯誤のスタートライン、と考えることにしたい。当たって砕けろ、とは言うけれど、でもやっぱり砕けたくはないよな。

…何で急にこんな投稿をしたかって?これも試行錯誤の一つなのである。…いや違うだろう、それは単なる「気の迷い」だと笑うのであれば、僕はそれを素直に受け入れよう。
御意、と呟きながら。


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